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2020年08月27日00:24

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8月27日の日記

今日の出来事:1232年−北条泰時が御成敗式目を制定、1597年−慶長の役:漆川梁海戦、1600年−関ヶ原の戦い:水野忠重殺害事件、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が市振の関に到着、1758年−宝暦事件、1896年−イギリス・ザンジバル戦争、40分間で終結した世界最短の戦争、1945年−ソ連対日参戦:敦化事件、1969年−映画男はつらいよシリーズ第一作「男はつらいよ」が公開

今日は、北条泰時が御成敗式目を制定です。御成敗式目は、鎌倉時代に制定された武士政権のための法令(式目)です。「承久の乱」以後、幕府の勢力が西国にまで広がっていくと、地頭として派遣された御家人・公家などの荘園領主・現地住民との法的な揉め事が増加するようになりました。そこで鎌倉幕府第3代執権・北条泰時が中心になり、一門の長老・北条時房を連署とし、太田康連、斎藤浄円らの評定衆の一部との協議によって制定されました。制定に関して、執権・北条泰時は「六波羅探題」として京都にいた弟・北条重時に宛てた2通の書状「泰時消息文」で、式目の精神・目的を述べています。制定当時、公家には、政治制度を明記した「律令」が存在していましたが、武家を対象とした明確な法令がありませんでした。そこで、源頼朝以来の御家人に関わる慣習や明文化されていなかった取り決めを基に、土地などの財産や守護・地頭などの職務権限を明文化しました。鎌倉幕府滅亡後も、江戸幕府が「武家諸法度」を制定するまで、武士の基本法として機能し続けました。後の室町幕府や戦国時代の家法にも強い影響を与え、広く武家法の基本となっただけでなく、優れた法先例として公家・武家を問わずに有職故実の研究対象とされました。その後、江戸時代には庶民の習字手本として民間にも普及しました。

次に、慶長の役:漆川梁海戦です。「文禄の役」の後、朝鮮水軍は日本軍の出没に対応するため、閑山島に本営を前進させて海峡対岸の巨済島を監視する位置にいました。和平交渉が破綻し、「慶長の役」の為に釜山付近に渡海・集結中の日本軍を攻撃するように命令された朝鮮水軍の司令官(三道水軍統制使)李舜臣は水軍単独での侵攻攻撃に消極的で、党争の影響や元均の讒言もあり、断罪され地位を剥奪された上に白衣従軍(一兵卒となって罪を償うために従軍すること)を命ぜられました。李舜臣に代わって三道水軍統制使となったのは元均でしたが、彼もまた攻撃指令に対して消極的でした。都体察使の李元翼の命令により、元均は艦隊を出撃させました。しかし、安骨浦と加徳島へ侵攻した艦隊が日本軍と海戦を行い、幹部が負傷するなどの被害を出して一旦、閑山島まで後退しました。元均の艦隊は命令通り艦隊を二分して再度出撃を行い、給水のため加徳島に上陸したところを高橋統増・筑紫広門軍の攻撃を受け敗走しました。これをみた都元帥(朝鮮軍の最高司令官)権慄は元均を厳しく叱責して杖罰に処しました。再三、閑山島の本営を出撃し、巨済島と漆川島の間にある漆川梁に停泊しました。この情報を得た日本軍は水陸から挟撃する作戦を立てました。明け方より、藤堂高虎らの日本水軍は海上から攻撃し、陸上部隊がこれを援護しました。戦いは日本水軍が朝鮮水軍を圧倒し、数千人を討ち取り、その他大勢を海へ追い落とし、160余隻を捕獲、津々浦々15〜16里にわたって海賊船を悉く焼却しました。朝鮮水軍の主将のうち元均、李億祺、崔湖は戦死、裴楔のみが逃走し、朝鮮水軍は壊滅的打撃を受けました。この戦いに勝利した日本軍は陸海から全羅道に向かって進撃して行きます。

その次に、関ヶ原の戦い:水野忠重殺害事件です。水野忠重は、三河・刈谷城主で水野忠政の九男です。母は華陽院、兄に水野信元、姉に於大の方などがいる徳川家康の叔父です。兄・信元と共に尾張の織田信長に属しました。その後、水野信元と不和になり、三河の徳川家康に仕えました。「三河一向一揆」の鎮圧に功を挙げました。以後、「掛川城攻め」、「姉川の戦い」に従軍しました。「三方ヶ原の戦い」で軍功を顕し、徳川家康より兜と鎧を賜りました。1575年、吉田城で武田軍の攻撃を防ぎましたが負傷し、「長篠の戦い」に家臣・水野正重を代理で参加させました。しかし、兄・水野信元が武田氏との内通の嫌疑で織田信長に殺害されました。1580年、佐久間信盛が織田信長に追放されて三河・刈屋城が空くと、水野忠重が入城しました。徳川家康の「高天神城攻め」に加わりました。「本能寺の変」が起こると、織田信忠と共に二条城にいましたが脱出して刈谷城に戻り、以後は織田信雄に属しました。1584年、「小牧・長久手の戦い」が起こると本治城、常滑城を攻略し、「長久手の戦い」では先導役を務めて「蟹江城の戦い」で活躍しました。嫡男・勝成が素行不良の果てに家臣を斬り殺して出奔すると、勝成を奉公構えとしました。水野勝成は豊臣秀吉から摂津豊島郡の内、神田728石を与えられました。その後、「雑賀攻め」に出陣し、「九州征伐」、「小田原合戦」に参加しました。1598年に豊臣秀吉が死去すると、徳川家康に従いました。「関ヶ原の戦い」で、三河・池鯉鮒(現・愛知県知立市)で堀尾吉晴を歓待して酒宴を催した際、些細な事から口論となって西軍の美濃・加賀野井城主の加賀井重望に暗殺されました。堀尾吉晴も17ヶ所の傷を負いましたが、加賀井重望を討ちました。

その次の次に、奥の細道:松尾芭蕉が市振の関に到着です。芭蕉は、親不知・子不知・犬戻・駒返などの北陸街道の難所を越え、市振の宿に泊まりました。さすがの芭蕉も疲れ果てて、早々に床に就きました。襖を隔てた南側の部屋で、若い女二人の話す声が聞こえました。年老いた男の声も混じって、彼らが話すのを聞くと、女たちは越後の国・新潟の遊女で伊勢神宮に参詣するところでした。この関所まで男が送ってきましたが、それが明日新潟へ戻るため、持たせてやる手紙を認めたり、とりとめもない言伝などをしているところでした。翌朝、芭蕉たちが出立する段になって、若い女二人が「行方の分からぬ旅路の辛さ。あまりに心もとなく寂しいので、見え隠れにでもよろしゅうございます、お供させていただけないものでしょうか。」と哀願してきました。芭蕉は、「私たちは諸所方々に滞在する事が多いのです。だから、あなた方は誰彼となく先を行く人々の後をついて行きなされ。神仏の加護は必ずありますから」と断りました。ここで芭蕉は、この句を詠みました。「一家に 遊女もねたり 萩と月」

そのまた次に、宝暦事件です。桜町天皇から桃園天皇の時代、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は、衰退の危機にありました。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからです。これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間で不満が高まりました。その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である徳大寺公城をはじめ、久我敏通・正親町三条公積・烏丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古らに神書・儒書を講じました。幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公家たちは、侍講から天皇へ竹内式部の学説を進講させました。やがて1756年(宝暦6年)に竹内式部による桃園天皇への直接進講が実現しました。これに対して朝幕関係の悪化を憂慮した、関白・一条道香は近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って天皇近習7名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行しました。ついで一条道香は公卿の武芸稽古を理由に1758年(宝暦8年)に竹内式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処しました。一方、竹内式部は京都所司代の審理を受け、翌1759年(宝暦9年)重追放に処せられました。この事件で幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は一条道香ら摂関家の振舞いに反発を抱き、天皇と摂関家の対立が激化しました。この混乱が収拾されるのは桃園天皇が22歳の若さで急死する1762年(宝暦12年)でした。

そのまた次の次に、イギリス・ザンジバル戦争です。イギリス・ザンジバル戦争は、1896年8月27日にイギリスとザンジバル保護国の間で発生した軍事衝突で、40分間で終結した世界最短の戦争です。19世紀末、ザンジバル・スルタン国はドイツ帝国とイギリスの双方から圧迫され、対岸の東アフリカにあった勢力圏をドイツ領・東アフリカとイギリス領・東アフリカに分割、「ヘルゴランド=ザンジバル条約」でイギリスの保護国と化していました。戦争の発端は1896年8月25日、それまでイギリスの植民地行政に快く協力していた、第5代ザンジバルスルターンのハマド・ビン・トゥワイニが、甥にあたるハリド・ビン・バルガシュによるクーデターで死亡した事から始まりました。バルガシュはクーデター後に自身が新たなスルターンであると宣言し、事実上トゥワイニの次のスルターンとして実権を握る事になりました。しかしその後、別のスルターン候補者であった、ハムード・ビン・ムハンマドより、退任要求の最後通牒が提示されました。彼は外交や政策上便宜を図るのに緩慢な人物であるとされ、イギリス側から好ましく思われていました。バルガシュはこれを拒否し、すぐさま約2800人の軍隊を招集し、スルターンの旧式武装艦「グラスゴー」を湾に停泊させました。バルガシュの軍勢が宮殿の要塞化を始める一方で、イギリス海軍はスルターン宮殿に面した港湾に巡洋艦3隻、砲艦2隻を召集させました。「英国擁護派」のザンジバル軍の正規兵を援助するため、海兵隊と水兵の計150名も上陸させました。イギリス海軍大尉、ロイド・マシューズに率いられたザンジバル人部隊900名を港に集結させました。イギリス海軍は、ハリー・ローソン海軍少将が指揮しました。王宮は約2800名のザンジバル人が守っていましたが、大半は市民を募ったものでスルタンの親衛隊と数百名の召使いや奴隷も含まれていました。守備側は数門の大砲と機関銃を有し、王宮の前に配置されてイギリス艦に照準を合わせていました。 スルターン側のアメリカ合衆国代表を経由した土壇場の和平交渉をしたにもかかわらず、最後通牒の猶予時刻を過ぎた1896年8月27日午前9時に砲撃命令が下り、午前9時2分から宮殿を標的としたイギリスの集中砲火が始まりました。この砲撃で王宮は火事になり、防御側の大砲が使えなくなりました。小規模の海戦も発生し、イギリス艦が「グラスゴー」と蒸気船2隻を沈めました。王宮に接近する親イギリスのザンジバル人部隊への射撃も効果がありませんでした。9時40分に王宮の旗が撃ち落とされ、戦争は終結しました。イギリス艦とその乗員は、約500発の砲弾、機関銃4100発、ライフル銃1000発を撃ちました。スルターン宮殿は崩壊、バルガシュ側は約500名の損害を被った一方、イギリス軍は水兵1名が負傷しただけでした。バルガシュはドイツ領事館の保護を受け、ドイツ領東アフリカ(現・タンザニア)へ脱出しました。イギリスはすぐにハムードを傀儡政権の元首に据えました。この戦争は、主権国家としてのザンジバル・スルターン国の終焉と、イギリス勢力下時代の始まりとなりました。

最後に、ソ連対日参戦:敦化事件です。ソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた、日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件です。日満パルプ事件とも言われます。事件の現場となった日満パルプ製造敦化工場は、王子製紙が敦化県城南門外牡丹江左岸に設立した工場です。工場に隣接して設置された社宅地には、日本人職員とその家族260人が暮らしていました。また、敦化市内には2000人の関東軍守備隊の駐屯地があり、終戦当時には敦化北部の山地に築城し、ソ連軍の侵攻を食い止めようと備えていました。1945年8月9日未明に突如としてソビエト連邦が満洲国に侵攻し、敦化に近い東部国境付近では関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していましたが、工場や敦化市内では満人や朝鮮人の態度も変わることなく治安が保たれたままでした。8月15日に敗戦を迎えた後、敦化市内では満人や朝鮮人の一部による略奪・放火・日本人女性への暴行が行われるようになりました。8月17日、敦化郊外で陣地を築いていた敦化守備隊は工場に資材を取りに来て初めて終戦を知りました。8月19日、ソ連軍が敦化市内に進駐してきたため、敦化守備隊は降伏し武装解除されました。8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐しました。ソ連兵はすぐにホテル・レストランを兼ねた壮麗な造りのクラブに惹きつけられました。ソ連兵はクラブ従業員の女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去りました。8月25日、ソビエト軍は男性全員を集合させると10キロほど離れたところにある飛行場の近くの湿地に連行し、婦女子は独身寮に集められました。170人ほどの婦女子は15,6人ずつに分けられ監禁されました。8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると、女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら、気に入った女性たちを連れて行こうとしました。女性たちは金品を渡したり、許しを懇願しましたが聞き入れられず、次々に引きずり出されていきました。各部屋からは女性たちの悲痛な叫びが溢れましたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けました。このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしましたが、ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく、部屋に乱入すると気に入った女性たちを何度も連行していきました。社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは、社宅の異変を察知するとソ連兵の監視を掻い潜り、塀を乗り越え社宅に潜入しましたが、厳重な警戒が布かれている独身寮には近づくことができませんでした。ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性たちの部屋の廊下に監視兵を置くようになったため、御不浄や食事もままならないようになりました。女性たちは自身の置かれている状況や絶え間ない銃声から、すでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになりました。ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は、8月27日の深夜になっても収まることはありませんでした。このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自決をする議論なされました。議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決しました。隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残りました。他の部屋ではソ連兵に引きずり出される時に、剃刀で自殺を図った女性もいました。8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られました。責任を問われることを恐れたソ連軍将校は、これ以上の暴行を中止しました。その日のうちに、女性たちは男性社員が野宿させられている飛行場のそばの湿地に連行されました。その後、8月末までは湿地や飛行場で待機させられ、シベリアに連行される日本軍部隊から密かに食料や毛布などを分けてもらうなどしていましたが、牡丹江対岸の熊本県開拓団の小学校に遷されると、毎日のようにソ連軍による略奪が行われ、女性を裸にしてまであらゆるものを奪い去っていきました。一切のものを奪われたため、男性社員たちは街に出て材木運びなどの労働に出て、僅かな賃金を稼ぐ事で命をつなぎました。また、ソ連へ戦利品として工場設備から列車の線路にいたる全てのものを持ち去るための、解体作業を昼夜に渡って行わされました。その後、敦化市内の旧軍人会館に移転させられましたが、冬が訪れると飢えと寒さと発疹チフスのために87人が死亡しました。

今日の誕生日:足利義量(室町幕府第5代将軍)、宮沢賢治、リンドン・B・ジョンソン(第36代アメリカ合衆国大統領)、宇野宗佑(第75代内閣総理大臣)、山岡久乃、藤竜也、田中星児(初代・うたのおにいさん)、渡部絵美、金村義明、則竹裕之(元T−SQUARE)、津田寛治、渡辺鐘(世界のナベアツ・元ジャリズム)、渡辺俊介、山下穂尊(いきものがかり)、手島優、剛力彩芽、松村沙友理(乃木坂46)、濱田龍臣

今日の記念日:男はつらいよの日、ジェラートの日

今日の「今日訓」:本日は、1969年8月27日に「男はつらいよ」第1作が公開された事で「男はつらいよの日」、1953年8月27日に映画「ローマの休日」がアメリカで公開され、オードリー・ヘプバーン演じるアン王女がスペイン階段で「ジェラート」を頬張るシーンで、世界中の人々に「ジェラート」知らしめてローマを訪れる観光客の憧れのデザートとなった事で「ジェラートの日」となりました。
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