カルタで戦争平和を考える企画展
08月16日 13時01分
戦前から戦後にかけて使われた教科書やカルタの変遷を通して、戦争と平和について考える企画展が、福岡県大牟田市で開かれています。
会場の大牟田市にある「三池カルタ・歴史資料館」では資料館が所蔵する戦前から戦後にかけての教科書やカルタ、およそ30点が展示されています。
戦前は軍国主義的な色合いが子どもたちの周りにも見られ、昭和16年に発行された「ヨイコカルタ」は、読み札の内容が「戦地の御苦労しのびつつ」や「國旗を敬い大切に」などとなっているほか、算数の教科書には、戦闘機のイラストが描かれていています。
一方、戦後になると、それまで使っていた教科書に墨を塗ったり紙を貼ったりして、次第に新しい教育が確立されていったことが紹介されています。
親子で訪れた小学5年生の男の子は、「戦争は正しいということが、当時、当たり前に言われていたことがわかりました。平和な世の中が当たり前になってほしいです」と話していました。
また、父親は、「子どもたちにとって身近な教科書やカルタを題材に平和を考えることができて、実りある展示会でした」と話していました。
この展示会は、三池カルタ・歴史資料館で9月27日まで開かれています。
https://www.nhk.or.jp/fukuoka-news/20200816/5010009049.html
終戦の日に回天の島で平和の鐘
08月15日 19時25分
終戦から75年の15日、特攻兵器「回天」の訓練基地があった山口県周南市の大津島で平和を願って鐘を鳴らす式典が開かれました。
「回天」は太平洋戦争末期に魚雷に人が乗り込んで操縦し敵の軍艦に体当たりした特攻兵器で、搭乗員106人が犠牲になりました。
「回天」の訓練基地があった大津島では毎年、終戦の日に合わせて平和を願う式典が開かれていて、15日は、島の回天記念館にある「平和祈念の鐘」に地元の人などおよそ80人が集まりました。
式典では犠牲者に黙とうをささげたあと、地元の中学生4人が、「すべての生命を大切にし、どんな暴力も許しません」などと、平和宣言を読み上げました。
そして最後に、参加者たちが順番に鐘を打ち鳴らして、平和への誓いを新たにしていました。
式典に参加した中学3年生の佐藤舞さんは「当時を経験した人から戦争の話を聞いて、学んでいくことが大切だと思いました」と話していました。
また、式典を主催した徳山ユネスコ協会の原田茂会長は「戦争は本当に繰り返してはならないものだと思っている。戦争を知る私たちの世代がいかに次の世代に伝えるかが大切だ」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/yamaguchi/20200815/4060006741.html
終戦の日 戦没者追悼式
08月15日 19時18分
終戦から75年となった15日、福岡市では、9万3000人あまりの県出身の戦没者を追悼する式典が開かれました。
福岡県の戦没者追悼式は、新型コロナウイルスの感染防止のため、参列者が例年の5分の1となるおよそ200人に縮小され、式の時間も35分短縮して行われました。
はじめに、参列者が1分間の黙とうをささげたあと、遺族を代表して北九州市の福澤輝子さん(82)が、「戦争を直接知らない国民が8割となりましたが、戦争の悲惨さを伝えていくために力を注いでいきます」と述べました。
このあと、参列者が花を手向けて、9万3299人の福岡県出身の戦没者を慰霊しました。
福岡県によりますと、15日、参列した遺族のうち、▼最高齢は89歳、▼戦争を体験した人の子どもの平均年齢は78.5歳となっていて、体験者を直接知る遺族も高齢化が進んでいます。
戦争で父親を亡くした、うきは市の山下利臣さん(85)は、「実家は農家で、父親を失ったあとの生活がとても大変だったのを覚えています。子どもや孫にずっと語り継いでいきたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/fukuoka-news/20200815/5010009041.html
終戦の日に被服支廠で朗読会
08月15日 19時15分
終戦の日の15日、広島市の被爆建物「旧陸軍被服支廠」で被爆者の詩や日記を朗読する会が開かれました。
この朗読会は、被爆の歴史について考える市民グループが開いたものでおよそ70人が参加し、広島市南区にある最大級の被爆建物「旧陸軍被服支廠」で開かれました。
この中では、被爆者の詩や戦争について記した当時の日記が朗読されました。
このうち、被爆者である峠三吉の「倉庫の記録」という詩は、原爆が投下された日から8日間にわたり、被服支廠に運び込まれた多くの負傷者がひどいやけどに苦しみ、衰弱していく様子が記されています。
また、被服支廠で働いていた画家・四國五郎の日記には、兵隊の服や靴を作るため、過酷な労働を強いられていたつらい日常がつづられています。
参加した人たちは、詩や日記が朗読されると原爆が投下された当時の広島を思い浮かべた様子でした。
呉市の60代の女性は、「父は原爆投下の翌日から救護のために広島市内に入りました。父が見たであろう詩で描かれたような悲惨な情景を繰り返さないために、戦争は起こしてはいけないと思います」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200815/4000008623.html
終戦の日「平和の鐘」前で祈り
08月15日 12時53分
終戦から75年の15日、広島市の平和公園では、被爆者や高校生が「平和の鐘」の前で黙とうし戦争や核兵器のない平和な世界の実現に向けて祈りをささげました。
終戦の日の15日、広島市の平和公園では、広島ユネスコ協会が主催して『平和の鐘を鳴らそう』という集いが開かれ被爆者や高校生らおよそ40人が参加しました。
最初に、広島大学附属高校2年の柚木優里奈さんが「辛い思いを二度としてほしくないという被爆者の思いを胸に平和や核兵器廃絶に向けて活動していきたい」とスピーチしました。
このあと、参加者たちは、表面に「世界は1つ」という意味を込めて国境のない世界地図が彫られた「平和の鐘」の前で黙とうし戦争や核兵器のない平和な世界の実現を願って祈りをささげました。
この集いでは、例年、参加者がひとりずつ「平和の鐘」を鳴らしていますがことしは新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため集いの中では鐘を鳴らさず、終わったあとに希望した参加者が手の消毒をした上で鐘を鳴らしました。
被爆者の中本信子さんは「3歳ころに被爆し、核兵器は使ってはならないと思っています。世界が平和になるよう核兵器の廃絶を願いました」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200815/4000008620.html
特攻が結ぶ姉妹館提携
08月15日 11時25分
戦後75年を節目に、沖縄戦で特攻攻撃を受けた「戦艦ミズーリ」を展示するハワイの記念館と、特攻隊の基地の跡地にたつ鹿児島県の「知覧特攻平和会館」が姉妹館提携を結びました。
南九州市にある「知覧特攻平和会館」は旧陸軍の特攻基地の跡地に作られ隊員の遺品などが展示されています。
ハワイにある「戦艦ミズーリ記念館」との姉妹館提携は、終戦の日に合わせて、15日、リモートで行われ、南九州市の塗木弘幸市長が画面越しにハワイ側と協定書の調印を行いました。
「戦艦ミズーリ」は沖縄戦で日本軍の特攻機による攻撃を受けたことや、1945年9月2日には船上で降伏文書への調印式が行われたことで知られています。
締結式で「戦艦ミズーリ保存協会」の代表者は「戦艦ミズーリは第二次世界大戦が終結した場所でもあり、日本とハワイの強い絆の象徴です。今回の提携を機に、引き続き平和へのメッセージを発信していきたい」とあいさつしました。
2つの記念館はこれまで「戦艦ミズーリ記念館」の側から特攻した零戦の破片が贈られたり、ハワイで特攻隊員の遺書などを展示する共同企画展を開いたりするなどの交流を進めてきましたが、今後は学芸員の交換派遣などをさらに広げることにしています。
塗木市長は「戦後75年という節目の年に連携をしながら平和の尊さを伝えていくということで、大変意義がある提携だと思っています」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/20200815/5050011500.html
全国戦没者追悼式を前に結団式
08月14日 19時06分
15日の終戦の日に東京で開かれる「全国戦没者追悼式」に、福岡県内から参列する遺族の代表団が、14日、結団式を行い、福岡空港から出発しました。
ことしは、新型コロナウイルスの影響で、県内からの参列者は大幅に減らすことになりました。
およそ310万人の戦没者を慰霊する政府主催の全国戦没者追悼式に、福岡県からは例年100人ほどの遺族が参列しますが、ことしは、新型コロナウイルスの影響で、東京に向かうのはおよそ20人のみに減らされました。
遺族の代表団は、14日、福岡空港で結団式を行い、西原康史団長が「尊い命を奪われた方に心より追悼の意を表し、平和への誓いを新たにしたい。新型コロナウイルスの感染防止と熱中症対策に万全を期し、全員で元気に戻ってきたい」とあいさつしました。
15日の追悼式では、昭和20年に当時のビルマで父親を亡くした久山町の橘宏哲さん(81)が、献花することになっています。
橘さんは、「父を亡くして家族みんなで苦労してきたこの75年間は、長いようで短かった。15日は、世界の恒久平和を願い、尊い命をかけて日本のために戦った戦没者にご苦労さまということと、現在の繁栄した日本の姿を報告しながら、心を込めて献花を行いたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/fukuoka-news/20200814/5010009032.html
中津市で戦争関連の資料を展示
08月14日 17時10分
15日で終戦75年です。
戦時中の人々の暮らしに関する資料を集めた展示会が、中津市の博物館で開かれています。
展示会は、中津市歴史博物館で開いているもので、空襲の被害が少なかった中津市に残る、戦時中の人々の暮らしの道具や出征中に携えた品などおよそ30点が展示されています。
このうち1920年代に作られたポスターは、ハエを取る機械の上で洋服で踊る男女や、ワインを飲む男性の姿などが描かれており、西洋文化の排斥を訴える内容となっています。
また、現在の中津南高校にあたる旧制中津中学校の生徒が出征した際に書かれた寄せ書きには、真っ赤な日の丸の上に「積極果断」という激励のことばなどが記されています。
このほか、防空頭巾や明かりが外に漏れて爆撃されないように使われた電灯用の傘なども展示されていて、訪れた人たちは、戦時中に思いをはせるようにじっくりと鑑賞していました。
中津市歴史博物館の曽我俊裕さんは「75年の節目に、市民の皆さんから寄贈いただいた戦争関連の資料を展示しているのでぜひお越しください」と話していました。
この展示会は中津市歴史博物館で今月30日まで開かれています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/oita/20200814/5070007690.html
岩国空襲から75年の慰霊祭
08月14日 17時03分
終戦の前日にアメリカ軍の空襲を受け、500人以上が犠牲になったとされる「岩国空襲」から、14日で75年になり、犠牲者を追悼する慰霊祭が岩国市で開かれました。
岩国市では、終戦前日の昭和20年8月14日に、アメリカ軍の大規模な空襲で、いまのJR岩国駅の一帯が大きな被害を受け、500人以上が亡くなったとされています。
空襲から75年になる14日、ことし5月にJR岩国駅前に移設された「平和記念碑」の前で慰霊祭が営まれ、遺族などおよそ50人が集まりました。
そして、空襲が始まったとされる午前11時15分に黙とうをささげたあと、慰霊祭実行委員会の吉賀文俊会長が、「私たちが過去を振り返り、戦争の歴史を受け継ぐことこそ、犠牲になった方が安らかに眠れる唯一の道だと確信しています」と、岩国空襲の記憶を継承していく決意を述べました。
続いて、参列者が1人ずつ菊の花を手向けて静かに手を合わせながら、犠牲者に祈りをささげていました。
この空襲で、2人の叔母の行方がわからなくなったという大原敬子さん(86)は、「空襲を受けたあとの駅前は穴ばかりで、恐ろしい光景でした。このようなことが2度と起きないように、若い人にも空襲のことを知ってもらいたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/yamaguchi/20200814/4060006735.html
戦争遺跡の写真パネル展
08月14日 12時28分
戦争の悲惨さを伝えようと、戦争遺跡を写真パネルで紹介する展示会が、北九州市の銀行で開かれています。
この写真パネル展は、文化財の保存活動を行っている「北九州市の文化財を守る会」などが開いています。
会場となっている八幡東区の「北九州市立旧百三十銀行ギャラリー」には、市内の戦争遺跡の写真パネルを中心におよそ150点が展示されています。
このうち、「戦争遺跡分布地図」は、「文化財を守る会」の会員たちが市内の戦争遺跡200か所ほどをおよそ20年かけて調査し、当時の記録と照らし合わせて地図上に示しています。
また、若松区の「軍艦防波堤」は、昭和23年に戦後の物資不足の中、旧海軍の駆逐艦を沈めて建設されたもので、写真パネルでは船首部分の形も確認できます。
さらに、旧日本軍で使われた食器や木製の弾薬箱も展示されています。
北九州市の文化財を守る会の前薗廣幸理事長は、「特に若い人にぜひ見てもらいたいです。次の世代を担ったときに戦争をやれば悲惨なことになるということを勉強してほしい」と話していました。
この写真パネル展は、16日まで北九州市立旧百三十銀行ギャラリーで開かれています。
https://www.nhk.or.jp/fukuoka-news/20200814/5010009029.html
戦争遺跡の写真パネル展
08月14日 11時06分
戦争の悲惨さを伝えようと、戦争遺跡を写真パネルで紹介する展示会が北九州市の旧銀行で開かれています。
この写真パネル展は、文化財の保存活動を行っている「北九州市の文化財を守る会」などが開いています。
会場となっている八幡東区の「北九州市立旧百三十銀行ギャラリー」には、市内の戦争遺跡の写真パネルを中心におよそ150点が展示されています。
このうち「戦争遺跡分布地図」は、「文化財を守る会」の会員たちが市内の戦争遺跡200か所ほどをおよそ20年かけて調査し、当時の記録と照らし合わせて地図上に示しています。
また、若松区の「軍艦防波堤」は、昭和23年に戦後の物資不足の中、旧海軍の駆逐艦を沈めて建設されていて、船首部分の形を現在も確認できます。
さらに、旧日本軍で使われた食器や木製の弾薬箱も展示されています。
北九州市の文化財を守る会の前薗廣幸理事長は「特に若い人にぜひ見てもらいたいです。次の世代を担ったときに、戦争をやれば悲惨なことになるということを勉強してほしい」と話していました。
この写真パネル展は16日まで北九州市立旧百三十銀行ギャラリー開かれています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/20200814/5020006731.html
戦艦「金剛」の軍艦旗を特別展示
08月13日 19時05分
「終戦の日」にあわせて、旧日本海軍の戦艦「金剛」の軍艦旗の展示が、飯塚市の歴史資料館で行われています。
飯塚市にある歴史資料館では、新型コロナウイルスの影響で戦争に関する企画展を中止しましたが、戦艦「金剛」の軍艦旗など、問い合わせの多かった資料を特別に展示しています。
「金剛」は、昭和19年11月に台湾沖でアメリカ海軍の魚雷攻撃を受けて沈没しましたが、その際、飯塚市出身の乗組員が旗を体に巻きつけて脱出したということで、およそ10年前に遺族から寄贈されました。
大きさは、縦およそ1メートル30センチ、横が2メートルで、一部がほつれていますが保存状態は良好です。
このほか、今回の展示では、海軍の飛行予科練習生からパイロットになった飯塚市出身の男性が、戦後に書き記した回顧録なども展示されています。
飯塚歴史資料館の樋口嘉彦学芸員は、「旧日本海軍の軍艦旗が残っているのはとても珍しいことなので、この機会に見てもらいたい」と話していました。
この特別展示は9月末まで行われます。
https://www.nhk.or.jp/fukuoka-news/20200813/5010009023.html
旧日本海軍「金剛」軍艦旗を展示
08月13日 18時25分
「終戦の日」にあわせて、旧日本海軍の戦艦「金剛」の軍艦旗の展示が飯塚市の歴史資料館で行われています。
飯塚市にある歴史資料館では、新型コロナウイルスの影響で戦争に関する企画展を中止しましたが、戦艦「金剛」の軍艦旗など問い合わせの多かった資料を特別に展示しています。
「金剛」は、昭和19年11月に台湾沖でアメリカ海軍の魚雷攻撃を受けて沈没しましたが、その際、飯塚市出身の乗組員が旗を体に巻きつけて脱出したということで、およそ10年前に遺族から寄贈されました。
大きさは、縦およそ1メートル30センチ、横が2メートルで、一部がほつれていますが保存状態は良好です。
このほか、今回の展示では、海軍の飛行予科練習生からパイロットになった飯塚市出身の男性が、戦後に書き記した回顧録なども展示されています。
飯塚市歴史資料館の樋口嘉彦学芸員は「旧日本海軍の軍艦旗が残っているのはとても珍しいことので、この機会に見てもらいたい」と話していました。
この特別展示は来月末まで行われます。
https://www.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/20200813/5020006727.html
戦争遺跡から発掘 出土品展示会
08月12日 15時12分
福岡県内に残る旧日本軍の施設や空襲の跡など、いわゆる戦争遺跡から発掘された出土品を集めた展示会が、小郡市の九州歴史資料館で開かれています。
この展示会は、戦争の歴史を後世に伝えようと九州歴史資料館が企画したもので、福岡県内の戦争遺跡で発掘された出土品など、およそ60点が展示されています。
このうち、久留米市の筑後国府跡で見つかった機銃は、昭和19年に大刀洗飛行場から飛び立ち、久留米市内に墜落したゼロ戦に積まれていたものです。
また、長さ1メートル近くある大型の焼い弾は、昭和20年6月の福岡大空襲でアメリカ軍の爆撃機から投下されたもので、戦後、福岡市の大濠公園で発見されました。
会場には、戦時中に作られた陶磁器なども展示されていて、訪れた人たちは熱心に見入っていました。
九州歴史資料館文化財調査室の森井啓次さんは「戦後75年がたち、戦争を経験した人が少なくなっていますが、出土したものを通じて、過去の戦争について考えてほしいと思います」と話していました。
この展示会は、小郡市の九州歴史資料館で来月13日まで開かれています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/20200812/5020006717.html
日航機事故 元自衛隊員の証言
08月12日 16時42分
520人が犠牲となった日航ジャンボ機の墜落事故から12日で35年です。
当時、現場で活動にあたった薩摩川内市に住む元自衛隊員の男性に話を聞きました。
昭和60年8月12日、お盆の帰省客などを乗せた日本航空のジャンボ機が群馬県の山中に墜落し国内の航空機事故としては最も多い520人が犠牲になりました。
薩摩川内市の山本晉也さん(77歳)は、当時、陸上自衛隊のヘリコプターの操縦士として、事故の翌日に、現場に入りました。現場の光景は今も鮮明に記憶に残っていると言います。
「煙がまだ立ち上っていたというのが一番印象に残っていますね。谷間に大きな機体がバラバラになっているという光景は今まで見たことないですから」
着陸する場所もない現場でおよそ1か月間。活動は困難を極めたと言います。
「山の上でホバリングして荷物を降ろすとか、あるいはほかのヘリコプターとかほかの飛行機に対する空中接触がないように十分気を使いました。
ヘリコプターが降りるときにはすごい風圧を受けるので、遺体を毛布に包んできたのを一緒にかついできた人たちも必死でしがみついていたのが、操縦席から下を見たときに一番記憶が残っていますね。つらい思いをしたんだなと思いました」
自身も、通算7000時間以上操縦を続けてきた山本さん。当時、現場を見た者として、改めて安全の大切さを伝えていきたいと考えています。
「昔こういう大事故があったんだよというものは忘れないようにしてまたそういう事故を起きないような状態で航空機を運航していく。日頃の安全に対する努力は怠ってはいけないんだなというのは機会を捉えて何か伝えていきたい」
https://www.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/20200812/5050011468.html
戦争遺跡から発掘 出土品展示会
08月12日 15時12分
福岡県内に残る旧日本軍の施設や空襲の跡など、いわゆる戦争遺跡から発掘された出土品を集めた展示会が、小郡市の九州歴史資料館で開かれています。
この展示会は、戦争の歴史を後世に伝えようと九州歴史資料館が企画したもので、福岡県内の戦争遺跡で発掘された出土品など、およそ60点が展示されています。
このうち、久留米市の筑後国府跡で見つかった機銃は、昭和19年に大刀洗飛行場から飛び立ち、久留米市内に墜落したゼロ戦に積まれていたものです。
また、長さ1メートル近くある大型の焼い弾は、昭和20年6月の福岡大空襲でアメリカ軍の爆撃機から投下されたもので、戦後、福岡市の大濠公園で発見されました。
会場には、戦時中に作られた陶磁器なども展示されていて、訪れた人たちは熱心に見入っていました。
九州歴史資料館文化財調査室の森井啓次さんは「戦後75年がたち、戦争を経験した人が少なくなっていますが、出土したものを通じて、過去の戦争について考えてほしいと思います」と話していました。
この展示会は、小郡市の九州歴史資料館で来月13日まで開かれています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/20200812/5020006717.html
出土品から見る戦争遺跡展
08月12日 12時23分
福岡県内に残る旧日本軍の施設や空襲の跡など、いわゆる戦争遺跡から発掘された出土品を集めた展示会が、小郡市の九州歴史資料館で開かれています。
この展示会は、戦争の歴史を後世に伝えようと九州歴史資料館が企画したもので、福岡県内の戦争遺跡で発掘された出土品など、およそ60点が展示されています。
このうち、久留米市の筑後国府跡で見つかった機銃は、昭和19年に大刀洗飛行場から飛び立ち久留米市内に墜落したゼロ戦に積まれていたものです。
また、長さ1メートル近くある大型の焼い弾は、昭和20年6月の福岡大空襲でアメリカ軍の爆撃機から投下されたもので、戦後、福岡市の大濠公園で発見されました。
会場には県内の戦争遺跡を紹介する写真パネルも展示されていて、訪れた人たちは熱心に見入っていました。
九州歴史資料館文化財調査室の森井啓次さんは、「戦後75年がたち、戦争を経験した人が少なくなっていますが、出土したものを通じて過去の戦争について考えてほしいと思います」と話していました。
この展示会は小郡市の九州歴史資料館で9月13日まで開かれています。
https://www.nhk.or.jp/fukuoka-news/20200812/5010009008.html
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