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2020年08月15日07:45

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18960526 NO4093 軍艦「高雄」の江原沿岸巡視の件

18960526 NO4093 軍艦「高雄」の江原沿岸巡視の件
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008_0070_0590 駐韓日本公使館記録 8巻 七. 本邦人被害에 関한 件 一•二 (59) 軍艦「高雄」の江原沿岸巡視の件
文書題目 (59) 軍艦「高雄」の江原沿岸巡視の件
文書番号
発信日 明治二十九年五月二十六日 ( 1896年 05月 26日 )
発信者  二等領事 二口美久
受信者 原敬

(59) 軍艦「高雄」の江原沿岸巡視の件
当港(*元山)警備軍艦「高雄」は缶水取り換え、用水汲みこみ、兵衣洗濯などのため、さる二日松田湾(ソンジョンマン 元山港より八海里(*14.8km)隔たっていて湾内に溪水がある。水質清澄で最も飲料に適しロシア国軍艦などは入港のたびに用水をここで取る) へ航行、同七日回港しました。
艦長の談話に、松田湾碇泊中、沿岸住民で艦内一覧を求めるものには縦覧を許したところそれ相応に来観者があり、いずれも親好の意を表していたとのことです。
また同艦長は南北沿海巡視の件につき私へ協議がありましたので、目下南部沿海は鰯漁季節でもあり、また先に具報しておきました行方不明であった漁夫・木原源蔵は高城(コソン)地方で殺害されたとの風説に関し、当時当港知事を経てこの地の地方官は取り調べ、および照会がありましたが、その後何の回答も無いのでこの被害の実否取調べを兼ねて、なお当江原(カンウオン)道沿海の漁利の現状、並びに沿岸各地の行商への妨害有無など視察を兼ね、当館より高雄書記生を搭乗させ取り敢えずこの方面巡航の事に同意致し、去る十六日出港しましたところ、所要と風波のため一時釜山へ回航し、同二十四日元山へ帰港しました。艦長の談話にこの巡行は折あしく風又は霧のため沿岸情況を充分視察することができず遺憾であったとの事です。別紙高雄書記生の復命書を添えこの件具報いたします。 敬具
明治二十九年五月二十六日
二等領事 二口美久
外務次官 原敬 殿

[別紙]
文書題目 (復命書)

(復命書)
本月(*明治二十九年五月)十六日午前七時、軍艦「高雄」の江原(カンウオン *?)沿岸視察として当港(*元山港)を出帆するので、同艦に便乗し嶺東即ち高城(コソン)以南の暴徒の情勢、並びに中村熊市外三名の被害の一件、商況の模様など調査の命を奉じて出発。同日午后二時通川(トンチョン)郡管下の長箭湾(チャンジョン *江原道高城郡にある港町)に投錨した。同湾はかなりの良港で深さ七八尋(*1尋は6尺すなわち約1.816メートル。八尋で14メートル)、東に高城の霊津(ヨンジン 戸数二十五六)がある。西に通川の長箭津(チャンジョンジ 戸数五六十)という村落がある。土民は主に漁夫であって鰯を捕獲することを業としていると言う。
翌十七日は暴風で上陸できなかった。
十八日午前七時まず長箭津に上陸し尊位(村長のようなものを言う)厳成玉に面会し問答した要領は次の通り。


問 この付近に暴徒はいないのか。

答 ここには暴徒はいない。しかしながら当地から三里はなれた高城郡には目下およそ百名余りが集合し、すでに軍艦入港の際この暴徒たちの内三十余名が当地を通過して通川に向った。

問 どうして当地を通行したのか。

答 暴民の言葉によれば、通川郡守ならびに豪家に対し金銭糧食の徴発を試み、また高城と一致して日本人を排斥することを通知したが応ずる模様がないので、義大将・権化景というものの外二名の将校は騎馬して詰問のため(*郡守たちを?)率いていった。

問 高城の暴民と通川に向った者はいずれも銃を携えていたのか。

答 銃を持っていたものが約五六十名で、権か率いていた砲手は十八名であった。他は刀あるいは鎗などを携えていた。

問 権大将の一行は何日頃高城に帰る模様なのか。

答 権以下の暴民は徴発威力を示すため赴いたものであるので何日に立ち帰るから知らない。しかしながら目下は当地から北へ僅か二里隔たった沙津(サジン)と称する村落に滞在し金銭を徴発しており、またある説には、通川郡守が暴徒に与せず通川は元山に近くあるいは日本兵と共に抵抗するかも分からない事と恐れて、暴民は通川に赴くことを見合せている、という。もし軍艦を同沿岸に回航させこの大将を捕えたならば良民一同安堵して業に就くことが出来るだろう、と

問 この付近で日本人の殺されたものはないか。

答 霊津から四名上陸して高城に着いて殺されたと言う。

問 その他にはないか。

答 杆城で一名殺されたと言う。

問 その姓名を知っているか。

答 知らない。

問 他に暴民の集合所はないか。

答 高城以南江陵までは総て暴民が集合している。当付近においては金剛山楡岾寺に三四十名集合している。また当津(*長箭津)において本年一月下旬、長崎県民・村上半治というものがロシア国捕鯨船から買い入れた鯨骨肉、その他製造に関係する諸貨物を暴民によって掠奪された事実を取り調べた。

問 本年春日本人村上というものが鯨肉買い入れのため来たことがあるのか。

答 そうだ。村上がやって来てロシア船の捕獲した鯨肉を買い取りしていた時に暴民が蜂起し、ややもすれば危険がないとはいえないので村民一同より村上に注意を与え一先ず元山へ帰ることを勧めた。

問 村上の滞在中暴民が襲い物品を掠奪したのか。

答 村上などの滞在中は一人も来なかった。

問 村上が買い取った鯨肉骨を掠奪したというのは事実なのか。

答 もともと朝鮮人は鯨肉を食べない。他に使用する方法もないので持ち去ったのである。現に当村の厳允汝というものの家屋を毎月二百文の家賃を支払って同所において製造中、村上が一時元山に引き揚げたので宿主か保管していた。間もなく村上は海路でやって来て元山住・朴某の船を借り受け預けて置いた貨物は残らす搭載して行った。

問 その貨物はどのようなものだったのか。

答 鯨骨肉、塩、鉄釜, 夜具などを持って行った。

問 その塩は何俵だったか。

答 最初五十俵ほど持ってきて、内二十俵を使用し、残り三十俵を積み込んだ。

問 村上一名で来たのか。

答 元山住の朝鮮人で日本語の通じる金味乭というものとやって来た。

問 村上が帰った後暴民は来たのか。

答 村上が再び海路でやって来て諸貨物を持ち去った後七八日を経て数名が来て、日本人を宿泊させたといって怒って厳允汝の家屋を破壊した。そこで実地を訪れて見たところ、壁などを破毁しただけで、今は修繕を加えて他の人が住んでいる。

問 だとすると日本人の損害はなかったのか。

答 まったくあるはずがない。現に鯨肉は持ち去り、骨は今に三四頭分海岸にそのままにしてある。

問 鯨骨は誰の保管なのか。

答 誰の保管でもない。過日ロシア国捕鯨船が来て「村上に売渡約束をしたが、まだ代価を受け取っていない。したがって村上が持ち去ろうとしたなら決して渡してはならない。」と依頼した。

問 村上は納屋を作ったのか。

答 作ったことはない。

同日当津(*長箭津)を抜錨し、対岸にある高城管下霊津(ヨンジン)に到り投錨、直ちに上陸して尊位・金順西を訪問したところ、彼は日本人に与したとの疑いを受け高城の獄に繋ぎ死境に陥ろうとしている、と。そこで座上(村の年長者を云ふ)劉敬熙を呼んで問答したのが次の通り。

問 今春日本人中村外三名が漁船に乗って来て当地で上陸したのか。

答 そうだ。日本人たちは上陸して高城に向っていた途中、松島津で暴民に捕らわれ高城の獄に投じられた。

問 その後どうしたのか。

答 暴民は、日本人たち四人を獄につないだままで新坪場(シンピョンジャン *元山の南・安辺の東海岸)へ行き日本兵と戦い敗走後、四人を銃殺したと言う。

問 斬首したのか。

答 首は切らなかった。

問 すると目撃したのか。

答 目撃したのではないが、風説には銃殺しただけだと言っている。

問 中村たち四名の死体はどこにあるのか。

答 松島津(ソンドジン)に埋葬した。

問 その他に殺された日本人はないか。

答 その他にはない。杆城(カンソン)で一名殺されたと言う。

問 その姓名を知っているか。

答 日本人とのみで姓名は知らない。

問 高城郡守は在任なのか。

答 旧三月四日暴徒四十余名がやって来て高城郡守に「お前は日本人に味方する者だ」と唱え捕縛して江陵(カンヌン)に行き閔・大将に引き渡して残酷な取り扱いを受けていたので、高城郡の人民一同より数千両の金を募り、閔大将に頼み込んで難を免れ十日前帰任することができた。

以上問答していた所、高城以南、杆城・襄陽・江陵などは依然暴民が屯集しており、旅客の通行を妨げ、あるいは良民の財貨を掠奪し、ことに沿岸の漁民は主に鰯を取って干鰯として元山へ輸送してきたのだが、本年は暴民のために漁具・船舶の修繕も加えることを
許さず、「これを犯す者は斬殺する」と。
これは日本人の商業を妨げることに起因するものである。このようなありさまであるので一般に不隠で静謐に戻らない。
日本の行商者は危険で当分行商の見込みはないと考える。
かつ問答中に記載したように杆城郡において一名の日本人が殺害されたというのは事実のようで、その姓名を分からないとはいえ、かつて木原源蔵が同地に行商中殺されたという風説があって、今も帰って来ていないのを見るとあるいは木原源蔵に相違ないであろう。
また中村熊市外三名の首級は先に新坪場で発見したのだが、当地の土民は斬首せず死体は三人(*四人か)とも霊津(ヨンジン)から三里の松島津(ソンドジン)に埋蔵してあると言う。
そこで高城郡守に対し死体ならびに同人らの乗り組んでいた船舶の引き渡しを請求することを決し書面を発送しようとしたのだが、土人はこれを拒んで受け取らない。なぜ受け取らないのかと尋ねたところ「もし日本人の手紙を携帯しているのを暴民が発見したなら直ちに害を被るにちがいない」と。
しかしながらそれは不可であることを説明し、漸く伝達させることができた。
また二日間、即ち十九日までの猶予を与えて置いたのだが、なにも出来ず碇泊するよりむしろ釜山へ行く必要があって、軍艦「高雄」は即日出帆することになったので、やむを得ず釜山に赴き三日間滞在、二十三日同地出発して帰路霊津寄港の目的であったのだが霊津付近に来ると暗霧が急に起り視界が聞かず、その上暴風が起って寄港することは出来なかった。航路を転じて本日帰館致しました。
以上復命に及びます。 敬具

明治二十九年五月二十五日
領事館 書記生 高雄謙参
二等領事 二口美久 殿







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