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2020年08月14日00:09

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8月14日の日記

今日の出来事:1204年−伊豆修善寺に幽閉されていた鎌倉幕府2代将軍・源頼家が謀殺される、1868年−北関東戊辰戦争:藤原の戦い、1900年−義和団の乱:日本・ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリアの八カ国連合軍が北京に入城、義和団の乱が終結、1904年−日露戦争:蔚山沖海戦、1945年−ソ連対日参戦:葛根廟事件、満州国興安総省葛根廟で、非武装の日本人避難民がソ連軍の攻撃を受ける、1945年−第二次世界大戦:日本最後の空襲(京橋駅・土崎・伊勢崎・熊谷・小田原・岩国・光で空襲)、1945年−宮城(皇居)事件:クーデター計画〜玉音放送録音

今日は、鎌倉幕府2代将軍・源頼家が謀殺です。1199年、父・源頼朝が急死しました。源頼家は18歳で、第2代鎌倉殿となりました。北条氏ら有力御家人による十三人の合議制がしかれ、源頼家が直に訴訟を裁断する事は停止されました。反発した源頼家は小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成以下若い近習5人を指名して、彼らでなければ自分への目通りを許さず、またこれに手向かってはならないという命令を出しました。また、源頼朝の代から側近として重用されていた侍所長官の梶原景時が、追放されて滅亡する「梶原景時の変」が起こりました。その後、梶原景時の与党であった城氏一族が「建仁の乱」を起こして鎮圧されました。それから、千幡の乳母・阿波局の夫で叔父である阿野全成を謀反人の咎で逮捕し、殺害しました。「阿野全成事件」前から体調不良となっていた源頼家は、危篤状態となりました。まだ源頼家が存命しているにも関わらず、鎌倉から「源頼家が病死したので、千幡が後を継いだ」との報告が都に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請されました。鎌倉では源頼家の乳母父で長男・一幡の外祖父である比企能員が北条時政によって謀殺され、比企一族は滅ぼされました(比企能員の変)。一人残った源頼家は病状が回復して事件を知ると激怒し、北条時政討伐を命じましたが従う者はなく、鎌倉殿の地位を追われて千幡がこれに替わりました。これによって、北条時政は幕府の実権を握る事になりました。千幡は元服して源実朝となります。源頼家は伊豆国修禅寺に護送された後、北条氏の手兵によって殺害されました。

次に、北関東戊辰戦争:藤原の戦いです。前日に大原を襲撃した新政府軍は、佐賀藩隊の内、小佐越に泊陣した鍋島鷹之助隊と宇都宮藩一小隊が、鬼怒川の両岸から藤原へ進撃を開始しました。会幕軍は、藤原の断崖から激しい攻撃を加えて、敵を引きつけて叩くという戦術を駆使しました。アームストロング砲が分捕られるなど新政府軍は大敗しました。宇都宮藩は安形靱負太郎、彦坂新太郎らが討死しました。会幕軍は、「草風隊」の隊長・村上求馬が討死しました。

その次に、義和団の乱が終結です。義和団鎮圧のために軍を派遣した国は八か国あり、イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアと日本です。総司令官にはイギリス人のアルフレッド・ガスリーが就任しました。総勢約2万人弱の混成軍でしたが、最も多くの派兵を行ったのは日本とロシアでした。日本軍は陸軍大臣・桂太郎の命の下、第五師団(8000名)を派兵し、その指揮は福島安正に委ねられました。連合軍の最初の戦いは大沽砲台・天津攻略戦でした。租界を攻撃していた清朝の正規軍、聶士成の武衛前軍や馬玉崑が率いる武衛左軍と衝突しましたが、戦闘は連合軍が清朝側を圧倒しました。聶士成を戦死させ、天津を占領するに至りました。直隷総督・裕禄は敗戦の責を取って自殺しました。天津城南門上には、およそ4000名の義和団・清朝兵の遺体がありました。そして、連合軍は北京に向けて進軍を開始しました。連合軍は北京攻略を開始し、翌日陥落させました。北京には八旗や北洋軍ほかおよそ4万人強の兵力が集められていましたが、さきに天津から進攻する連合軍との戦いで敗れて戦死あるいは戦意喪失による逃亡によって、城攻防戦の際にはすでに多くの兵が失われていました。西太后は北京陥落前に貧しい庶民に扮して脱出し、途中山西省大同などに寄りながら西安に辿り着きました。この籠城戦で、どの国も犠牲者を出しました。籠城を余儀なくされた外国人は925名に上りましたが、戦死者は20名ほどでした。中国人クリスチャンは、18名が亡くなりました。連合軍の死者数は757名、負傷者数は2654名でした。最も多くの死傷者を出したのは日本でした(死者349名・負傷者933名)。日本人は攻撃の激しかった粛親王府防衛を受け持っていたため、各国の中で最も死者率が高かったのです。また清朝や義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が241名(カトリック53人+プロテスタント188人)、中国人クリスチャン23000人です。

その次の次に、日露戦争:蔚山沖海戦です。「黄海海戦」で勝利した日本軍は、膠州湾に入りウラジオストク艦隊が南下する事に備え、第二戦隊が西水道を、第四戦隊が東水道を警戒していました。8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村彦之丞中将が率いる装甲巡洋艦「出雲」、「吾妻」、「常磐」、「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認しました。両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8400メートルで砲戦が開始されました。砲戦では双方に損害が生じましたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾の「リューリク」は集中砲火を受けて遅れ、艦長・トルーソフ大佐が戦死しました。6時、「グロモボーイ」とロシアは16点回頭を行い、「リューリク」とともに北西に向かいました。そのため第二戦隊も北西微西に変針し、戦闘を続行しました。6時30分、「リューリク」は舵機損傷により戦列を外れました。以後、「グロモボーイ」とロシアは「リューリク」を援護しようとして日本第二戦隊との交戦を続けましたが、ロシアの損害も大きくなり「リューリク」も損害がひどく救えない状態になったため、7時54分に「グロモボーイ」とロシアは北へ逃走しました。8時8分頃「グロモボーイ」とロシアは再度第二戦隊に向かいました。この時の戦闘で「リューリク」の放った砲弾が「磐手」に命中し、「磐手」で死傷者75名を出しました。しかし、イェッセンは「リューリク」救援を断念して、8時22分に再び北へ向かいました。この時には第四戦隊の「浪速」と「高千穂」が接近して来ていましたが、イェッセン少将は第二戦隊を残りの2艦に引きつければ損傷した「リューリク」も、防護巡洋艦2隻を破って帰還できるのではないかと期待していました。上村彦之丞は第四戦隊にリューリクを任して「グロモボーイ」とロシアを追撃しましたが、「出雲」の弾薬が欠乏したとの報告を受けたため10時4分に追撃をやめました。第二戦隊の追撃中止により、「グロモボーイ」とロシアは二日後にウラジオストクに帰還しました。両艦の人的被害は戦死140、負傷319、第二戦隊の方は戦死45、負傷55でした。瓜生少将が率いる「浪速」と「高千穂」は「リューリク」に対し、8時42分に砲撃を開始しました。「リューリク」は魚雷を発射したり、衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けましたが10時頃には沈黙、指揮をとっていたイワノーフ大尉が自沈を命じて「リューリク」は沈没しました。「リューリク」の沈没後、日本側は救助作業を行って623名を救助しました。上村彦之丞は「船乗り将軍」とあだ名された程の猛将でしたが、大破して沈みながらもなお砲撃を止めないロシア巡洋艦「リューリク」を見て「敵ながら天晴れである」と褒め称え、退艦した乗組員の救助と保護を命じました。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレー精神の例として「日清戦争」の伊東祐亨提督とともに、各国海軍の教本に掲載されています。

そのまた次に、ソ連対日参戦:葛根廟事件です。葛根廟事件は、満州国興安総省の葛根廟で日本人避難民約1200(9割以上が婦女子)がソ連軍によって攻撃され、1000名以上が虐殺された事件です。1945年8月9日未明、ソ連は「日ソ中立条約」を破棄して日本に宣戦布告し、満洲国、朝鮮半島、樺太などに侵攻を開始しました。8月10日と11日の両日、興安(別称:王爺廟、現在の内モンゴル自治区ヒンガン盟のウランホト)が爆撃を受け、興安の都市機能はほぼ破壊されました。11日午後4時、興安街在住の日本人約千数百人が近郊のウラハタに集結、興安総省参事官・浅野良三の指揮の下、「行動隊」が組織されました。「行動隊」の当初の目的地は100キロメートル離れたジャライトキでしたが、12日からの降雨や興安軍による馬車の略奪などにより計画を変更しました。興安街の南東約40キロメートルに位置する葛根廟を経由し、列車(白阿線)で白城子(現在の吉林省の白城)へ避難、同地で関東軍の保護を受けながら列車でさらに南下するという計画を立て、徒歩で移動を開始しました。8月14日午前11時40分頃、「行動隊」が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇しました。浅野参事官は白旗を掲げましたが、機関銃で射殺されました。ソ連軍は丘の上から「行動隊」に対して攻撃を開始し、戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していきました。戦車の後方からは、轢き殺された人々がキャタピラに巻き込まれて宙に舞いだしました。ソ連軍戦車は攻撃をある程度続けると、丘に引き返して何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返しました。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していきました。2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1000人以上が殺害され、生存者は百数十名でした。殺害を免れた者も戦車に轢かれたり、被弾して負傷した者や、家族が殺害された者がほとんどであり、大勢が自決しました。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童でした。生存者に対する襲撃も執拗を極めました。生存者は暴民によって、身につけている下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどしました。また、暴民から逃れようとして川で溺死した者もいました。ある女性はソビエト兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全てはぎ取られた上に鎌で乳房を切り落とされました。暴民たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていきました。親を殺された子供達は、生き残った大人のもとに集まっていましたが、暴民たちはその子供たちをも同様に奪っていきました。当時は日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的でした。一方、中国人、モンゴル人、朝鮮人の中には生存者に食事を提供する者もおり、中国人の中には子供を手厚く育てる者もいました。「行動隊」の生き残った子供は、さまざまな経緯から「中国残留孤児」となりました。また、多くの女性が「中国残留婦人」となる事を余儀なくされました。この事件は戦後、「第二次世界大戦」におけるソ連の戦争犯罪として取り上げられており、暴民ではなく一国の軍隊の攻撃によって無差別的に大量虐殺された「ジェノサイド」であり、終戦時に満洲の日本人難民が遭遇した悲劇の中でも最大のものでした。

そのまた次の次に、第二次世界大戦:日本最後の空襲です。京橋駅・土崎・伊勢崎・熊谷・小田原・岩国・光で空襲がありました。これが日本で最後の空襲となりました。
京橋駅空襲:1945年8月14日に「B−29」約150機が大阪への空襲を行いました。第8回大阪大空襲とも言われています。米軍機は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700トンの1トン爆弾を集中的に投下しました。この空襲で造兵廠は壊滅しました。大坂城内にも着弾し、石垣の一部が崩落するなどの被害が出ました。造兵廠の北東に位置する京橋駅周辺には13時頃、1トン爆弾4発が落下しました。京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところでした。居合わせた多くの乗客が高架上の城東線の影になる、地平上の片町線ホームに避難していました。そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けました。この空襲での犠牲者は、身元の判明している人だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500−600名以上います。毎年8月14日に京橋駅南口で慰霊祭が行われています。
土崎空襲:8月14日22:30から翌15日3:30頃まで続いた、秋田県秋田市土崎港周辺を標的とした大規模空襲です。数回にわたって落とされた爆弾は、100kg爆弾が7360発、50kg爆弾が4687発に及びました。爆撃目標の日石製油所は全滅状態となるなど、港、市街地は大きな被害を受けました。死者は250人、負傷者は200人です。土崎では毎年、秋田市戦没者追悼式・平和祈念式典が執り行われ、土崎空襲の犠牲者を悼み平和を祈念しています。
伊勢崎空襲:8月14日深夜、84機の米空軍B24爆撃機・戦闘機が群馬県伊勢崎市と周辺の佐波郡3村に飛来して614.1tの焼夷弾、27発の爆弾を投下しました。空襲は8月15日未明まで続きました。この空襲で罹災者8511人、死者29人、重軽傷者150余人、1943戸の家屋が焼失しました。市街地の約40%が焼失しましたが、空襲当日が無風状態だった事や広大な防空空き地を設置していたために類焼が食い止められ、人的被害は最小限に抑えられました。
熊谷空襲:8月14日23時頃、マリアナ諸島テニアン島の基地より発進したアメリカ陸軍戦略航空軍所属のB−29爆撃機82機により、爆撃が行われました。埼玉県熊谷市が爆撃対象となった理由は判然としておらず、埼玉県の県庁所在地として間違えられた模様です。焼夷集束弾や普通爆弾などにより、まず市周辺部より、ついで中心部の順で無差別爆撃を受けました。市街地の74%が焼失、死者266人、負傷者約3000人、被災戸数は全戸数の4割の3600、被災者は全人口の28%の1万5390人の被害が出ました。毎年、特に被害の大きかった市内中心部の星川通りで灯籠流しが行われています。
小田原空襲:8月14日夜半、伊勢崎と熊谷を空襲した「B−29」が帰路に余った爆弾を神奈川県小田原市に投下しました。まず、照明弾が落とされ、旧甲州街道沿いに大量の焼夷弾攻撃を展開しました。焼失家屋は合わせて402戸、罹災者1844人、負傷者65人、死者48人の被害が出ました。
岩国空襲:8月14日正午前、山口県岩国市の岩国駅前は「B−29」約100機の約25分間にわたる絨毯爆撃で、隙間なく徹底的に破壊されました。山陽本線の上りと下り、岩徳線が同時に着いた時間を狙って落としました。通過するだけの人もいた事から、犠牲者1000余名のうち、500人余りしか名前が判明していません。
光空襲:岩国空襲を行った「B−29」はその帰途にB29爆撃機157機の編隊が、五波をもって光海軍工廠に絨毯爆撃を加えました。およそ40分の間に885トンの爆弾が投下され、ほぼ全弾が廠内に集中し、施設の約70%が破壊されました。犠牲者は軍人51人、軍属554人、動員学徒133人の計738人でした。

最後に、宮城(皇居)事件:クーデター計画〜玉音放送録音です。日本のいちばん長い日「宮城事件」は、1945年8月14日の深夜から15日にかけて一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって、日本の降伏を阻止しようと起こしたクーデター未遂事件です。「太平洋戦争」で日本の敗戦が決定的となり、政府では「ポツダム宣言」を受諾して降伏する意見が強まりました。9日に宮中で開かれた最高戦争指導会議では、鈴木貫太郎首相や米内光政海軍大臣、東郷茂徳外務大臣が天皇の地位保証を条件として、阿南惟幾陸軍大臣と梅津美治郎参謀総長はさらに幾つかの条件を付けた上での降伏を主張しました。会議が終了した後、鈴木貫太郎首相は天皇臨席の御前会議として再度最高指導者会議を招集しました。10日午前0時から宮城内御文庫地下の防空壕で開かれた御前会議の席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は外務大臣の意見に賛成しました。これにより「ポツダム宣言」の受諾が決定されました。連合国軍への連絡は午前6時45分から中立国のスイスとスウェーデンの日本公使を通して行われました。御前会議での決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こりました。午前9時に陸軍省で開かれた会議で、終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣が総辞職すべきだと匂わせた幕僚に対し、陸相は「不服な者は、まずこの阿南を斬れ」と沈静化を求めました。午後3時から開催された皇族会議の出席者たちは降伏に賛成しましたが、同時刻の閣議や翌13日午前9時からの最高戦争指導会議では議論が紛糾しました。閣議で最後まで「ポツダム宣言」に反対していたのは、阿南惟幾と松阪広政司法大臣・安倍源基内務大臣の3名でした。しかし、午後3時の閣議で回答受諾が決定されました。陸相官邸に戻った阿南陸相は6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)に面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られました。「兵力使用計画」と題されたこの案では、東部軍と近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一内大臣、東郷外相、米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続すると記されていました。阿南陸相は「梅津参謀総長と会った上で決心を伝える」と返答し、一同を解散させました。8月14日、昭和天皇による玉音放送の録音は午後11時30分から宮内省政務室で行われ、録音盤(玉音盤)は徳川義寛侍従に渡されて皇后宮職事務室内の軽金庫に保管されました。こうして、終戦を阻止しようと日本最後のクーデター事件が起こる事になります。

今日の誕生日:花園天皇(第95代天皇)、アーネスト・トンプソン・シートン、藤村富美男、桂歌丸、ゴーマン美智子、杉良太郎、あご勇、マジック・ジョンソン、サラ・ブライトマン、都並敏史、岡村靖幸、鈴木保奈美、平畠啓史(DonDokoDon)、鈴木Q太郎(ハイキングウォーキング)、徳永有美、浅利陽介

今日の記念日:専売特許の日、裸足の記念日、廃車リサイクルの日、ハッピーサマーバレンタインデー、水泳の日

今日の「今日訓」:本日は、1885年8月14日に日本最初の「専売特許」が交付された事で「専売特許の日」となりました。特許第1号は、堀田瑞松が出願した「堀田錆止塗料及其塗法」(錆止め塗料とその塗り方)でした。2月14日の「バレンタインデー」には伝えられなかった気持ちも、夏ならチョコレートのように溶けやすいよとの思いから半年後の8月14日に「ハッピーサマーバレンタインデー」、1953年に制定した「国民皆泳の日」を引き継ぎ、2014年に「水泳の日」に改称、「8(は)1(だ)4(し)」の語呂合わせで「裸足の記念日」、「8(は)1(い)4(しゃ)」の語呂合わせで「廃車リサイクルの日」となりました。
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