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2020年08月12日23:51

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ニュース(原爆関連その2)(08月06日11時台(長崎)〜08月06日18時台(広島))

被爆証言をネット配信
08月06日 18時30分

新型コロナウイルスの感染が広がる中、「原爆の日」に合わせて被爆者が体験を語る活動もことしはインターネットを通じて配信されました。
広島の通訳でつくる団体は毎年「原爆の日」に合わせて平和公園を訪れる外国人に被爆者の体験を聞いてもらう活動を行っています。
ことしは新型コロナウイルスの感染が広がる中、多くの人が集まるのを避けるためインターネットを通じて被爆者の証言を英語でライブ配信しました。
証言したのは母親のおなかの中で被爆したいわゆる胎内被爆者の二川一彦さんで、平和公園の場所にかつてあった郵便局の局長だった父親と姉を原爆で亡くしました。
二川さんは、「母親は、おなかの中に自分がいる状態で翌日から2人を探し歩きましたが、見つかりませんでした」と涙ながらに語りました。
その上で、「母親は、原爆で家族を失ったことを全く話さず、自分たち5人の子どもをたったひとりで育てました。どれだけの大きな悲しみと苦労があったか計り知れません」と振り返りました。
二川さんは、「この場所で父親が被爆したので見守られているような気持ちで話すことができました。原爆で家族が壊された私の経験を通して、身近なことから平和を考えてほしい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200806/4000008504.html

オンラインで平和公園を案内
08月06日 18時28分

「広島原爆の日」の6日、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で広島を訪れることができなかった人に向けて、被爆2世のガイドなどがオンラインで中継しながら平和公園を案内するツアーが初めて開かれました。
オンラインで行った今回のツアーは、平和公園で観光客を案内しているガイドが、「広島原爆の日」に合わせて初めて開催しました。
6日は3人のガイドが、スマートフォンを使って中継しながら、公園内の原爆ドームや原爆慰霊碑などを1時間かけて案内しました。
このなかで、祖父母や母親などが被爆したガイドの福原信太郎さんが、原爆ドームの前で「戦前は、この建物の中で特産品の商談会が開かれ、当時の市民にとって誇りだった」などと歴史を紹介しました。
また、原爆慰霊碑の前では、手を合わせて祈りをささげている人の様子を配信し、厳かな雰囲気を伝えていました。
全国のおよそ40人が配信を視聴したということで、参加者からは「ありがとう」とか「素敵なツアーでした」などのメッセージが寄せられました。
ツアーを企画した石飛聡司さんは「オンラインでのツアーは多くの人に伝えられ、有効だと感じた。自分たちの世代だからこそ何が伝えられるか模索していきたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200806/4000008503.html

庄原で旧陸軍兵士などの慰霊祭
08月06日 18時26分

「原爆の日」の6日、庄原市では広島で被爆したあと市内に運び込まれて亡くなった兵士など旧陸軍の関係者88人をしのぶ慰霊祭が行われました。
庄原市の山内地区では原爆が投下された3日後に、多くのけが人の手当てをしていた広島市内の病院から被爆した旧陸軍の兵士などの関係者274人が列車で運び込まれました。
臨時の陸軍病院になっていた小学校に収容され地元の人たちが懸命に看病しましたが、3分の1近い88人が亡くなり、毎年、慰霊祭が行われています。
慰霊祭は地区にある関係者の慰霊碑の前で行われ、県外から訪れた遺族や地元の人などおよそ20人が参列しました。
そして住民の代表が「原爆被害の悲惨さから目を背けないためにも語り継がねばならない」と述べたあと、参列した人たちが焼香をして、犠牲になった人たちを追悼しました。
父親が亡くなったという87歳の男性は「いちばん大事なのは平和であり、原爆が投下されることのない世の中にするためできることをしていかなければならない」と話していました。
当時、小学1年生だった81歳の男性は「駅から小学校までたくさんの患者が運ばれてきたのを見た。核兵器のない平和な時代が来ることを願っている」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200806/4000008502.html

被爆75年 祈り続く
08月06日 18時23分

広島は6日、原爆が投下されて75年となる「原爆の日」を迎えました。
新型コロナウイルスの影響で、例年どおりの追悼が難しい状況となるなか、被爆地・広島は、犠牲者を追悼するとともに、「核兵器のない平和な世界」の実現を願う被爆者の訴えを国内外に発信する1日が続いています。
広島市の平和公園で午前8時から行われた平和記念式典には、被爆者や遺族の代表をはじめ、安倍総理大臣のほか、83の国の代表などが参列しました。
ことしの式典は、新型コロナウイルスの感染を防ぐため会場の平和公園への入場が規制され、一般の参列者席が設けられず、参列者は例年の1割に満たない780人余りとなりました。
式典ではこの1年に亡くなった人や新たに死亡が確認された人、あわせて4943人の名前が書き加えられた32万4129人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められました。
そして原爆が投下された午前8時15分に参列者全員で黙とうをささげました。
世界の核軍縮を巡っては、核保有国が核兵器の近代化を進め、非核保有国との対立が深まるなど、核兵器廃絶に向けた動向が不透明となるなか、3年前、国連で採択された核兵器禁止条約は、現在の批准国が40か国で、発効に必要な50か国に達していません。
広島市の松井一実市長は平和宣言のなかで、「日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たすためにも、被爆者の思いを誠実に受け止めて核兵器禁止条約の締約国になり、唯一の戦争被爆国として、世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し、『連帯』するよう訴えてもらいたい」と述べ、政府に条約への参加を求めました。
これに対し、安倍総理大臣は、核兵器禁止条約には触れず、「核軍縮をめぐり立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促すことによって、核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取り組みをリードしていく」と述べました。
式典には、原爆が投下された直後に降った放射性物質を含むいわゆる「黒い雨」をめぐる裁判の原告の住民も参列し、同じく健康被害を訴えながら被爆者と認められずに亡くなった人たちに祈りをささげました。
「黒い雨」をめぐっては原告のほかにも健康被害を訴える人がいて、参列した原告の男性は、「私たちの体力も限界があり、国は司法判断を真摯に受け止めてほしい。原告以外にも黒い雨で病気だらけの人生を送る人たちが多くいるので、そういう人たちも救われなければいけない」などと話していました。
ことしは、新型コロナウイルスの影響で平和公園での慰霊を自粛した人もいた一方、英語での証言活動や平和公園を案内するツアーをライブ配信で行うなど新しい手段での発信も行われました。
母親のおなかの中で被爆した「胎内被爆者」で、平和公園からライブ配信で証言活動をした二川一彦さんは(74)「父親が、ここで被爆したので見守られているような気持ちで話せた。原爆で家族が壊された私の経験を通して、身近なことから平和を考えてほしい」と話していました。
原爆が投下されて75年となり、被爆者の平均年齢はことし、83歳を超え、被爆者団体の解散が相次いでいて、原爆の悲惨さをどう語り継いでいくのかが課題となっています。
被爆地・広島は、犠牲者を追悼するとともに、「核兵器のない平和な世界」の実現を願う被爆者の訴えを国内外に発信する1日が続いています。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200806/4000008500.html

原爆の日 小学校で平和学習
08月06日 16時36分

広島に原爆が投下されて75年となる「原爆の日」を迎えました。
6日、大分市の小学校では、子どもたちが戦争の悲惨さや平和の尊さを学ぶ授業が開かれました。
大分市の大分市立判田小学校で行われた平和学習では、毎年広島に原爆が落とされた8月6日の「原爆の日」に、平和をテーマにした授業を行っています。
6日は例年は体育館で行われますが、コロナ対策のため各教室に変更し、本校教室に集まった児童たちが広島で行われている平和記念式典の様子をテレビで見守り、原爆が落とされた午前8時15分になると犠牲になった人たちに黙とうをささげました。
このあと、戦争の悲惨さや平和の尊さについて学ぶ集会が開かれ、佐藤浩介校長が「平和な世の中のために、勉強を通して自分で正しいことを判断する力を身につけてください」と呼びかけました。
そして、原爆で犠牲になった人たちを描いた絵本が朗読されると、児童たちは熱心に聞き入っていました。
6年生の男子児童は「自分を含め、戦争を知らない世代が増えているので、次の世代に戦争の恐ろしさを伝えていきたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/oita/20200806/5070007631.html

核廃絶と平和願い「長崎の鐘」
08月06日 15時23分

広島原爆の日の6日から、長崎原爆の日の9日までの4日間、被爆者や市民が核兵器廃絶と平和を願い、長崎市の平和公園にある「長崎の鐘」を鳴らす催しが始まりました。
この催しは、市民団体の「長崎の鐘を鳴奏会」が核兵器廃絶と平和への願いを広げようと、毎年、この時期に行っているものです。
6日は、はじめに、原爆で自分もけがをしながら救護活動にあたった医師、永井隆博士の孫の永井徳三郎さんが「鳴らす鐘の音は、小さいかもしれませんが、多くの人の心に響くように、思いを込めて鳴らしたい」とあいさつしました。
そして、長崎で原爆がさく裂した時刻の午前11時2分に合わせて、10人余りでロープを引き、鐘を鳴らしました。
例年、この時期には、多くの観光客などが平和公園を訪れ、一緒に鐘を鳴らしますが、ことしは、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、公園を訪れる人はまばらでした。
鐘を鳴らした被爆者の早崎猪之助さんは「何万人という人が亡くなったことを思うと、75年たっても、世界の平和のために被爆体験を話していかなければと思っています」と話していました。
また、同じく鐘を鳴らした被爆者の三田村静子さんは「核兵器禁止条約は足踏み状態なので、日本も核の傘から出て、世界の国々と手をつないで、条約に参加することを祈っています」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20200806/5030008711.html

広島被爆75年「平和記念式典」
08月06日 13時20分

広島は、原爆が投下されて75年となる「原爆の日」を迎えました。
新型コロナウイルスの影響で、例年どおりの追悼が難しい状況となる中、広島市では平和記念式典が行われ、松井一実市長は日本政府に対し、被爆者の思いを誠実に受け止めて核兵器禁止条約に参加するよう求めました。
広島市の平和公園で午前8時から行われた平和記念式典には、被爆者や遺族の代表をはじめ、安倍総理大臣のほか、83の国の代表などが参列しました。
ことしの式典は、新型コロナウイルスの感染を防ぐため、会場の平和公園への入場が規制され、一般の参列者席が設けられず、参列者は例年の1割に満たない780人余りとなりました。
式典では、この1年に亡くなった人や新たに死亡が確認された人、合わせて4943人の名前が書き加えられた32万4129人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められました。
そして原爆が投下された午前8時15分に、参列者全員で黙とうをささげました。
世界の核軍縮を巡っては、核保有国が核兵器の近代化を進め、非核保有国との対立が深まるなど、核兵器廃絶に向けた動向が不透明となる中、3年前、国連で採択された核兵器禁止条約は、現在の批准国が40か国で、発効に必要な50か国に達していません。
広島市の松井一実市長は平和宣言の中で、「日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たすためにも、被爆者の思いを誠実に受け止めて核兵器禁止条約の締約国になり、唯一の戦争被爆国として、世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し、『連帯』するよう訴えてもらいたい」と述べ、政府に条約への参加を求めました。
これに対し、安倍総理大臣は、核兵器禁止条約には触れず、「核軍縮をめぐり立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促すことによって、核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取り組みをリードしていく」と述べました。
午前8時15分にあわせて平和公園の近くの元安川沿いで黙とうをしていた21歳の女子大学生は、「私が生まれる以前の悲劇の上に、今の私たちの存在があると思って祈りをささげました。戦争の記憶が薄れればまた同じことが起きかねないので、次の世代に責任をもって伝えていきたいです」と話していました。
また、両親と兄を亡くし式典のあと原爆慰霊碑に祈りをささげた広島市の88歳の女性は、「私自身は原爆が投下される前日に疎開していたのでたまたま無事でした。核のない平和な世界になってほしいというのが切実な願いです」と話していました。
原爆が投下されて75年となり、被爆者の平均年齢はことし、83歳を超え、被爆者団体の解散が相次いでいて、原爆の悲惨さをどう語り継いでいくのかが課題となっています。
被爆地・広島は、6日、犠牲者を追悼する祈りに包まれるとともに、「核抑止力による平和」ではなく「核兵器のない平和な世界」の実現を願う被爆者の声に向き合い、その訴えを国内外に発信する1日になります。
https://www.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20200806/5030008709.html

児童が先生役で平和考える授業
08月06日 12時42分

被爆から75年となる6日、広島市安佐南区の小学校では、児童が先生役をつとめ平和について考える特別授業が行われました。
広島市安佐南区の広島市立毘沙門台小学校では、新型コロナウイルスの影響で夏休みが短縮され、6日も児童が登校しています。
原爆が投下された午前8時15分にあわせて全校児童が犠牲者に祈りをささげたあと、先生役の6年生が15のグループに分かれて下級生の教室をまわりました。
授業ではスライドを使いながら、原爆の威力や原爆が投下された後の広島の様子を説明したほか、4年前アメリカのオバマ前大統領が平和公園を訪れたことを話し、平和の大切さを訴えました。
この学校では例年、体育館に全校児童を集めて特別授業を行っていますが、ことしは新型コロナウイルスの感染を防ぐために先生役の6年生が下級生の教室をまわる形に変えたということです。
授業を行った6年生の谷本楓さんは「核兵器のない平和な世界を実現するために、後輩たちに悲惨な歴史を伝えていきたい」と話していました。
授業を受けた5年生の下田陽真さんは「原爆の威力を知り、恐ろしい兵器だと改めて実感しました」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200806/4000008498.html

平和公園の原爆供養塔で慰霊祭
08月06日 12時38分

原爆の犠牲者のうち、身元や遺族がわかっていない人たちの遺骨が納められている広島市の「原爆供養塔」では6日朝、慰霊祭が行われました。
平和公園にある「原爆供養塔」は、身元がわからなかったり、名前がわかっていても遺族が見つかっていなかったりする原爆の犠牲者、およそ7万人の遺骨が納められています。
慰霊祭は被爆者やその遺族でつくる「広島戦災供養会」が毎年開いていて、ことしは新型コロナウイルスの感染防止のため参列者を大幅に減らし、およそ20人が参列して午前6時すぎから行われました。
宗教や宗派を超えて平和を祈ろうと、まず神道やキリスト教、それに仏教の関係者らがそれぞれのしきたりにしたがって犠牲者に祈りをささげました。
そして、会の代表者が花を手向けたあと、参列者が1人ずつ祭壇で焼香していました。
父を亡くしみずからも胎内被爆者である「広島戦災供養会」の畑口實会長(74)は「父の遺骨もここにあるのではないかという気持ちで毎年祈っています。核兵器廃絶という広島の願いから遠のいている気がする。核兵器が人間に何をもたらしたのか、よく考えてほしいです」と話していました。
広島市によりますと、遺骨が納められている人のうち814人については名前がわかっているにもかかわらず75年が経った今も遺族が見つかっていないため、市は引き続き名簿をホームページで公開するなどして遺骨の引き取り手を探しています。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200806/4000008497.html

「平和記念式典」は規模縮小で
08月06日 12時34分

広島は、原爆が投下されて75年となる「原爆の日」を迎えました。
新型コロナウイルスの影響で例年どおりの追悼が難しい状況となるなか、広島市では平和記念式典が行われ、松井一実市長は日本政府に対し、被爆者の思いを誠実に受け止めて核兵器禁止条約に参加するよう求めました。
広島市の平和公園で6日午前8時から行われた平和記念式典には、被爆者や遺族の代表をはじめ、安倍総理大臣のほか83の国の代表などが参列しました。
ことしの式典は、新型コロナウイルスの感染を防ぐため会場の平和公園への入場が規制され、一般の参列者席が設けられず、参列者は例年の1割に満たない780人余りとなりました。
式典ではこの1年に亡くなった人や、新たに死亡が確認された人、あわせて4943人の名前が書き加えられた32万4129人の原爆死没者名簿が原爆慰霊碑に納められました。
そして、原爆が投下された午前8時15分に参列者全員で黙とうをささげました。
世界の核軍縮を巡っては、核保有国が核兵器の近代化を進めて非核保有国との対立が深まるなど核兵器廃絶に向けた動向が不透明となるなか、3年前に国連で採択された核兵器禁止条約は現在の批准国が40か国で、発効に必要な50か国に達していません。
広島市の松井一実市長は平和宣言のなかで「日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役をしっかりと果たすためにも、被爆者の思いを誠実に受け止めて核兵器禁止条約の締約国になり、唯一の戦争被爆国として世界中の人々が被爆地ヒロシマの心に共感し『連帯』するよう訴えてもらいたい」と述べ、政府に条約への参加を求めました。
これに対し、安倍総理大臣は核兵器禁止条約には触れず「核軍縮をめぐり立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促すことによって、核兵器のない世界の実現に向けた国際社会の取り組みをリードしていく」と述べました。
午前8時15分にあわせて平和公園の近くの元安川沿いで黙とうをしていた21歳の女子大学生は「私が生まれる以前の悲劇の上に今の私たちの存在があると思って祈りをささげました。戦争の記憶が薄れればまた同じことが起きかねないので、次の世代に責任をもって伝えていきたいです」と話していました。
また、両親と兄を亡くし式典のあと原爆慰霊碑に祈りをささげた広島市の88歳の女性は「私自身は原爆が投下される前日に疎開していたのでたまたま無事でした。核のない平和な世界になってほしいというのが切実な願いです」と話していました。
原爆が投下されて75年となり、被爆者の平均年齢はことし83歳を超え、被爆者団体の解散が相次いでいて、原爆の悲惨さをどう語り継いでいくのかが課題となっています。
被爆地・広島は犠牲者を追悼する祈りに包まれるとともに、「核抑止力による平和」ではなく「核兵器のない平和な世界」の実現を願う被爆者の声に向き合い、その訴えを国内外に発信する1日になります。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200806/4000008496.html

被爆資料など展示の平和展開く
08月06日 12時05分

終戦の日を前に平和について考えてもらおうと、戦争や原爆に関する資料の企画展が佐賀市の市立図書館で開かれています。
「佐賀市平和展」は、戦争の悲惨さや平和の尊さを市民に広く考えてもらおうと、佐賀市が毎年この時期に開いています。
会場には、長崎や広島に投下された原爆に関する資料などおよそ80点が展示されています。
このうち、75年前の昭和20年8月9日に長崎に原爆が投下されたあと、爆心地から2キロ余り離れた場所で見つかった柱時計は、原形はとどめているものの、原爆が投下された午前11時すぎを指したまま止まっています。
また、爆心地からわずか360メートルの場所で見つかった20センチほどの瓶は、原爆による熱でガラスがぐにゃぐにゃに変形していて、原爆のすさまじさを伝えています。
このほか75年前の8月5日から6日にかけてアメリカ軍の爆撃機が今の佐賀市南部を空襲し、61人が犠牲になったとされる佐賀空襲について、体験者のインタビューや朗読劇の上映なども行われています。
佐賀市の40代の女性は「瓶が溶けて形が崩れていたのを見て、こんなにひどい状態だったということを改めて感じました」と話していました。
佐賀市平和展は、今月9日まで佐賀市の市立図書館で開かれています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/saga/20200806/5080006648.html

新たに寄贈された被爆資料の展示
08月06日 11時31分

被爆者や遺族などから新たに寄贈された被爆資料の展示が、長崎市の原爆資料館で始まりました。
長崎原爆資料館では、毎年8月9日の長崎原爆の日を前に、新たに寄贈された被爆資料を公開していて、今回はことし6月までに寄贈されたあわせて75点の資料が展示されています。
このうち、市内で働いていた男性が撮影した写真には、破壊された浦上天主堂や焦げた路面電車などが写されていて、「被爆直後は悲惨な光景に写す勇気もなかった」という当時の男性の心境が一緒に紹介されています。
また、両親と姉を亡くした被爆者の女性が寄贈した「罹災証明書」は、家族の骨を拾ったみずからの体験とともに、「思い出すだけでも胸が苦しくなるのでいままで触れないようにしていた」という、女性の思いが一緒に紹介されています。
小学4年生の男の子は「1個の爆弾でこんなに被害が出ることを知らなくて、怖かった」と話していました。
また、その母親は「当時の人たちがどういう思いをしたのか、子どもにも実物を見て知ってほしいと思い訪れた。同じ過ちを繰り返さないためにも、思いを知ることは改めて大事だと感じた」と話していました。
原爆資料館の弦本美菜子学芸員は「ものにまつわる人の思いなども紹介しているので、原爆が使用されると何が起こるのか知ってほしい」と話していました。
この展示は、10月23日まで開かれる予定です。
https://www.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20200806/5030008707.html
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