天寿国の末裔『龍人丸』728年
奈良盆地、平城京の北に黒髪山、佐保山(那富山)、多聞山、北山が位置する。ことに多聞山からの眺望は素晴らしく、天気の具合がよければ南に大和三山・吉野山・大峰山系、西に生駒山・信貴山・金剛山系、東に若草山・三笠山・花山、高円山と、重なる青垣に守られた奈良の都を一望することができる。
永禄三年(1560年)頃、松永弾正(久秀)は`この多聞山に将軍地蔵・千体地蔵で守られた多聞城、多聞櫓を築き、多聞櫓に登れば北は京都・山城をも眼中に納めることが出来たという。(現、奈良市立若草中学校、立地)
光明皇后の伴の一行が那富山より あと半時もなく屋敷に帰るその道のすがらのこと。一行の歩みが乱れ、止まった。
『どこかで赤子の泣く声がする』
『探して見ろ』
『赤子が土手に捨てられておる』
『どれどれ、見せてみろ』
『お見せなされ』
供の者達の驚きと動揺の声がする。皇后にお付きの官女の一人が言う。
「皇后さま、赤子がこのように捨てられております。どういたしましょう。」
官女の鶴女である。
「放っておけませぬ。見せてみやれ」
皇后の答える。赤子を受ける。
生まれて一週間位だろうか。赤子の目は閉じている。与えられぬ乳を求めて泣いていたのだろう。
平城京の造営、奈良の都に人が集う。建設に人が駆けつけ、かり出される。都は人で溢れ人それぞれに生活がある。捨てられる子、捨てる親、どのようなことがあったのか。親の悲しみ苦しみを思う。皇后はこの赤子の宿業、運命を思う。子を無くした自分を思う。
赤子をあやす。いつから泣いているのか。あやせば火のついたように泣く。胸が痛む。腹が減っているのか、乳を与えて見よう。
「人払いをいたせ」
鶴女に言う。胸をはだけ乳をあたえる。
赤子は幼い全身の力でむしゃぶりつく。女の性か。もう一つの乳房も痛み始める。
『見たか』
『見たとも……』
女官たちより小さなどよめきが起きる。それぞれに好きな事を言う。
皇后様は捨て子に乳を与えなされた。できることじゃないぞ。優しい人じゃ。いやそんなことはしてはならんことじゃ。神々しいお顔じゃ。菩薩様の顔じゃ。しかしどうされるつもりじゃ。連れては帰れぬぞ。
『えい声を小さくしろ。』
「妃様、供の者が動揺しております。どうされますか。」
この赤子を自分のものにできないか。基王の代わりにできないか。そう考えていた。
「ここに捨て置いてはいけませぬ。まず今夜は連れ帰り、後に考えましょう」
いつの間にか火が灯されていた。また皆が帰路に立つ。
皇后は後宮についても赤子を抱いたままだった。今は官女の中より乳の出る亀女が赤ん坊に乳を与え抱いている。
皆の夕食もとどこおりなく済んだようだ。赤子を自分のものにする、皇后の思考はそこから離れられなかった。しかし何も良い考えは浮かばなかった。自分は妃なのだ。市井のの女とは違う。それはこの赤子にさえ及ぶだろう。
他の方法を考えるしかない。夜の帳はもう落ちている。その日は赤子を挟み亀女と皇后とが川の字になって夜を超えた。
次の日の朝早く、亀女が皇后に言う。
「妃さまに申し上げます」
「どうしたのじゃ、改まって」
「申し上げます。あの赤子は魔物にてござります」
「なんと申す」
「はい、あの赤子は魔物にてございます。男でも女でもありませぬ」
「なに、まことか……」
うかつだった。皇后は下の世話はしていなかった。
「まことでございます」
「龍女と申すのじゃな」
赤子の棄てられた訳が分かった。親が両性具有の子供を恐れたのだ。そうであるならここにも置けぬ。私生児なのだろうか。巫女や産婆が取り上げたなら、首を捻っていただろう。
赤子は、しかし赤子である。安堵しているのか、よく眠っている。亀女はふくよかな胸をしている。その胸に抱かれ赤子は小さな息をしている。その頬は基王の頬と同じである。なぜこの子を自分のものに出来ぬのかと、とりとめなく考えてしまう。亀女を部屋に招き入れ、
皇后は亀女より赤子を受け取り下半身を見る。亀女の言うとおりである。
「龍女と申すのでございましょうか」
問われて言うべき言葉に窮する。
「男であり、女である。いや、変成男子の途中であるのであろう」
「変成男子と申すのでございますか」
「そうじゃ、男とし女として生まれ、いずれ男になるのじゃ」
その后の言葉に自信はない。ただ法華経にそういう下りの有る事を知っている。
「この世にそういう者がおるのでしょうか」
「希におるのじゃ、不思議がることもない。女は成仏できぬ故、仏の力にすがり一度は男の姿になり、その後に成仏するという。この赤子はその途中であろう」
「私には不思議な話でござります」
そう言うと亀女は赤子の着物の裾を直し、また胸に抱きかかえる。亀女の顔は輝くよう自信に満ちている。
「赤子は赤子でございますれば、このように不憫な子でも私には可愛ゆく思われます」
「よく申した。私もそなたと同じに思う」
しかしと、皇后は思う。
「ではそなたならこの子をどう育てようと考えやるか」
そう言いつつ、赤子に手をだし自分の胸に抱きかかえてみる。
「妃様はその子をそばに置きたいのでございましょう。でもそれは叶わぬことでございます。私は寡婦にてございます。私に下さいますれば育ててみとうございます。」
立場の違いは歴然としていた。思わず赤子を抱きしめ驚かせ泣かせてしまった。
「先ほどこの子に乳をやりました」
亀女は話す。
―― 屋敷に赤子の泣き声を聞いたとき、私は耳を疑いました。それは綺麗に聞こえてきたのです。体が熱くなって、私はどこにいるのか探し求めました。この子が泣くたびごとに乳が痛みます。この子を探し受け取りました。この子は乳に無心に吸い付きました。その時私は思ったのです。『この子は私を母と思うてくれておるのか』と。
私は子が出来ぬからと、私は子供が欲しかったのに、この体にはそれが出来ぬからと夫に離縁されたのに、どこの誰の子かも知らぬのに、この子は私を母と思うてくれておると。
「良き話じゃ、よくそこまでこの子を思うてくれた」
―― そなたは菩薩様じゃ。私に考えがある。そなたとこの子は立派な親子じゃ。そなたはこの子を連れ、明日に大峰の法師殿のもとに行け。この子を立派に賢くそだてるのじゃ。道中に難の無きように道案内を付けよう。
亀女の手が伸ばされる。皇后は腰を浮かせ、その手に赤子を渡す。
「そなたに託しましょうぞ。そうだ、赤子に名を与えよう。龍人丸(りゅうとまる)はどうじゃ」
「よい名でございます。いただきます」
亀女は暇を乞い、部屋を後にした。
皇后は自身の立場の不自由さを恨む。
(C)1998 Fuutarou Ashihara.
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