天寿国の末裔 「阿倍仲満呂 1.」
長安の都にも夜の帳は降りる。
大地に大きく映えた夕陽も落ち切り、さんざめく星たちが漆黒の闇に勢いを増す。
阿倍仲麻呂は早い夕食を終え、独り夜の無聊を持てあます。
おもむろに立ちあがり、官舎の窓を開く。そして、一人の夜にため息を落とす。
…… 今宵の月はまだか。
四角に切られた窓はさして造作も無いが、部屋の外の景色を一幅の絵に例えるようで阿倍仲麻呂は気にいっている。
…… 空と星と月だけが、故郷の景色と同じだ。
阿倍仲麻呂の望郷の想いは日増しに強くなっている。彼自身の希望は故郷に錦を飾ることだろう。
自身が遣唐留学生としてこの国に来たのは立身出世に他ならない。それは進んだ唐の文化を故国に持ち帰ることに他ならない。
しかし彼への天皇の指令は違った。「中華帝国の日本進出を喰い止める」ことだった。
百済救援の失敗に続く「朝散大夫」郭務悰、「朝散大夫沂州司馬上柱国」劉徳高の「本土上陸」に日本の王権は震え上った。天智天皇の死の真相もここにあるのだろう。
白村江での敗北の後に、続けて中国の進軍を許し、軍船で上陸され武力制圧されたなら、日本は占領されるしか無かったのだ。
日本海で隔てられてあることが幸いした。また逆を言えば、海を越えて制圧しなければならないほど日本朝廷に実力も富も船も武器も員数も無かった。
そして中国皇帝は朝鮮半島の制圧と万里の長城の北の突厥の制圧で手一杯だった。中国皇帝は「中原の覇者」であったことが幸いしたと云う他はないだろう、日本にとって。
しかし天平5年(733年)多治比広成(県守の弟)が来た折に、彼は広成より密命を受けた。そのことの追求に努力するも、まだその成果は出ていない。彼は受けた密命を果たすまで帰国など出来はしない。
彼は密命の達成のため玄宗皇帝に取り入り、出世しなければならなかった。「彼は何処の国の者か」を、他人をして、それを知らせなければならない。
彼に与えられた密命とは「日本国、此処に有り」と、唐に来る諸外国の要人に日本国をアピールすることだ。それは彼が唐に有りて、日本という国を彼により顕在化させることに他ならない。
しかしこのことの成果は仏師や絵師や他の技術者や役人の出世ほどは目に見え難い類のものだ。彼はそのために常に気を配っていなければならなかった。
確かに彼は皇帝のお気に入りの家臣と成ることは出来た。しかし、諸国要人との接触は容易に進まなかったのだ。特に彼が密命より受けた諸外国の商人たちとの交流が進捗しない。日本だって海を越えて渡る商人たちと取引がしたい。
「世界中の商人たちに、日本国を知らせよ」このことには中国宮廷の官吏たちの目も光っている。彼は満足のいく成果を生み出せていない。
彼の密命追求のあせりはやがて皇帝の目にも見えた。しかし皇帝はこのことを責めずに、天平5年(734年)阿倍仲麻呂は皇帝の息子、儀王の「友」に任ぜられた。
このことにより阿部仲麻呂の策動は頓挫していた。儀王は若く行動範囲も交友関係も限られていたからだ。しかし「彼の立場」をうらやむ官吏や宦官のまた多い事も事実だ。彼は慎重な行動を心がけている。
彼は月のまだ出ぬ空を見上げる
…… この窓から見る月だけが幸いだ。私は故郷をありありと観ることが、まだ出来る。
『天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも』
この歌の作られた年代は未詳であるという。しかし望郷の念が強く、これは彼の半生を過ぎたものには違いない。
平城京は彼の若い日に工事が進捗しその相貌を現し出した。満月の夜は誰もが外に出て月を褒めたたえた。都は人の賑わいを見せていた。
故郷に錦を飾る。彼は唐の国で出世していても、日本ではまだ無冠なのだ。天の原の意味はどうなのか。空か。それとも海なのか。故国の空か。
彼は旅立ちの青年期を懐かしむ。歌垣で出会った娘を思い出す。彼のただ一度の過ちも、月を見れば娘の面影をそこに見るのだった。それが彼に出来る唯一の贖罪だった。
(その娘を浅芽姫・架空人物とする)
…… 浅芽姫よ。元気でいるか。まだ、私を待つか。
壬申の乱の時にこの娘の父は朝敵と見做された。よって娘とは祝言を上げていない。彼の出世を待ち、帰国の後に所帯を持つつもりで彼はいた。しかしそれは遠い約束となり、今はもう果たせそうもない自身だった。
…… 浅芽姫よ。
この夜も彼は声も無く涙を流し、そして疲れては床に就くのだった。
つづく
天寿国の末裔 「阿倍仲満呂 2.」
唐の都の朝も早い。まず、人口の集中度が平城京とは違う。そして中央集権化された政治制度の下で人々は役職を持ち、各々が本分の全うに努めようと努力する。宮廷の役人たちが朝日を目にする頃には下僕たちが朝食の用意を済ませているのだった。
彼の朝もそのことにより規則正しいものとなる。ここでの時間は社会性を確立しており、時間の進捗と共に社会は活動を遅滞なく始める。
彼が官吏の食堂に向かえば、同僚たちとそこで出合い、挨拶を交わすのもまた日常の風景であり「おはようございます」という彼の顔には一点の憂いも無く、彼は頭脳明晰な好青年なのだった。
そこに昨夜の彼の面影は無い。彼は夜を過ぎて超然としてあり、挨拶には満面の笑みが湛えられてある。食堂では同僚たちと出された同じものだけ頂き、茶ともなれば軽口を叩きつつ冗談も飛ばす。
食事を終えれば職責として儀王に謁見するが、用が無ければ自室に戻り学問に励む。
彼は密かに中国の船の構造や火薬、また羅針盤や日本の暦を作るための渾天象(天球儀)」や紙の製造法・印刷法なども研究している。それらはまだ日本に文化として受容されていないものだ。
特に暦は天孫族・天帝の理であり証明である。他国への持ち出しは厳禁であり、権威として授与するなら、それらは「差し支えのないもの」だけに限られている。
当然中国宮廷は研究熱心な彼の性格を知り、極力彼をそれらの現場や実物に近づけないようにもしている。彼の知るのは常に文字・数字の机上理論のみだった。
例えば火薬や投石機や戦車、また矢の速射砲など、武器のその存在を知るものの、彼は近くに見ることはない。彼は常に宮廷内に在るからだ。
稀に皇帝と閲兵の機会があっても、彼が武器の近くに行くことも触れることも無いのだ。彼は微笑みを湛えて兵士や装備を眺めるしか他はない。
特に船の構造と操船方法、火薬は厳重に秘匿され、彼はその秘密に近寄ることは出来なかった。しかし、彼はだからといって諦めることをしていない。
ただ興味無さそうな振りをしながら、それに近ずく努力は怠っていない。ただし、成果も無いだけだった。彼は満面に笑みを湛え、そして飢餓感に苛まれているのだった。
ある意味彼は、笑みを湛えたポーカーフェイスなのだった。よって彼に出来るのは中国の重鎮たらんと出世することであり、玄宗皇帝に忠実に仕えることだったのだ。
そして何かの成果は遣唐使に持ち帰らせることだった。
吉備真備が持ちかえった文物は真備が独りで集めたものでもないのだ。どちらかといえば仲麻呂が集めたものの方が多いのではないか。彼の出世があり得てこそ、真備は珍宝を故国に持ち帰ることが出来たのだろう。
日が巡り、再び満月の日を迎えた。彼はこの日も故国に想いを馳せていた。街より誰か吹く笛の音が今夜の風情を添えていた。それはこの頃の流行歌なのだろうか。それとも古風な謡曲なのか。宮中で披露される音楽とは少し趣が違うようだ。
その笛の音は月明かりの街の屋根を滑り飛び越え仲麻呂の耳に染み入る。いつか月を愛で故国の空の月と想う時、仲麻呂は我が耳を疑った。それは仲麻呂が知る故国の謡曲の一節である。しかし気づけばまた知らぬ曲になっている。
…… 空耳か。故国の月と見間違えたのか。
そして仲麻呂は月を凝視する。するとまた故国の謡曲の一節が流れる。
…… 合図か。
聞き耳を立てる。仲麻呂の知らない曲が、笛の音が流れる。しかし、間違いない。仲麻呂は明確に故国の音楽の一節を聴き取った。
…… 密使が会いに来た。明日は何かの用を作り、笛の奏者と会わねばならん。
月は青く照り空の高い位置にある。仲麻呂は床に就くことにした。明日の外出の理由を思案することにした。
天寿国の末裔 「阿倍仲満呂 3.」
翌朝、仲麻呂は官吏に外出を願い出た。夢見の美女が簪(かんざし)を望んだのでそれを買い求めたいと願い出たのだ。これが他の者なら却下されたものだが、仲麻呂ならば特に許可された。
宮廷内の意向としては仲麻呂の中国への帰化を望んでいたからだ。これを契機に仲麻呂が所帯を持つことになるなら、彼が日本に英知や文物を持ちかえることも無いとの判断である。
仲麻呂は首尾よく宮廷の外へ出た。但し、宦官の少年が一人、供として侍らせられた。これは仲麻呂も見越していた。よもや一人になることは叶わない。密使との面談はその少年の目を誤魔化す必要があった。
笛の音がするのは時の変わり目になっていた。寺の鐘の音が鳴ると暫くして笛の音がする。また笛の奏者も仲麻呂を探し求めている。笛の音のするときに仲麻呂は正門を出る。求めあうように二人は動いている。ただ宦官の少年が邪魔だった。仲麻呂はそのことを億尾にも出さず街の中を物珍しそうに商家を求めてぶらぶらと歩く風を装う。
街の広場の一角に人が群れている。見れば曲芸の一団が芸を披露している。仲麻呂はそちらに足を向ける。少年も遅れてはならじと歩を進める。
二人は程無く曲芸団の前に出る。見れば見物人たちが散財した小銭が曲芸団の足元に落ちている。仲麻呂は銀貨を一枚それに投げだす。芸人の一人が目敏くそれを拾い上げる。そして口上を延べ、新たな演技を鳴り物入りで始める。
宦官の少年は曲芸に見入る。珍しい曲芸に目を奪われ始めた。そうするうちに仲麻呂の手を握るものがある。見れば若い芸妓であり胸に笛を抱いている。目が合う。仲麻呂は密使を認めた。二人は静かに人の群れの後ろに後ずさる。
少年は曲芸に夢中で見入っている。若い芸妓が仲麻呂に耳打ちする。そして片手で印を示して見せる。
「仲麻呂さまですね」
仲麻呂は合図の印を手でして見せる。それは互いが密使であることを示す。若い芸妓も手の印を続けて見せる。
「私に何か」
「聖武天皇よりの言伝です。天皇は金と宝石と西域の商人を求めておられます」
「それを私に求めておられるのか」
「天皇は杖六仏の毘盧遮那佛を青銅で作ろうとお考えです。まず、金が足りません。そして黄金の大仏像のあることを商人に知らしめ、これを相手に貿易を考えておいでです」
「ふむ。貿易か。そして黄金仏か。ならば金剛石や紅玉も碧玉も欲しておいでだろう」
「ご明察です」
「判った。そなたの名は何という」
「女性の形ではありますが、龍人丸と申します」
「見事な変装だ。次は何時か」
「また笛を吹きます。もう仲麻呂さまの顔は覚えましたので、その時はこちらより参ります」
「わかった。合図を待つ」
「もう一つ有ります。浅芽さま、満月丸様、お二人は健やかに暮らしておられます。このことだけを伝えるよう申し渡されました。私はお二人に可愛がられて育った者でもあります」
仲麻呂の目が大きく見開かれた。あわてて仲麻呂は両手でその顔を隠した。手が顔を離れた時、いつもの笑みを静かに湛えた仲麻呂の表情に返っていた。
「よく伝えてくれた。私も満足のゆく仕事をしようと想う」
仲麻呂は人の群れの中に進む。宦官の少年の背を叩く。芸妓・茜丸は人だかりを後にし二人の後を付けた。
(C)2018 Fuutarou Ashihara.
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