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2020年08月07日17:44

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詩的現代21号-1

          詩の臨床に〈時と所〉が必須である理由

 詩の臨床においてはひとの生存条件と同じように〈時と所〉が必須である。その必須を得て詩はその場限りの、新鮮な未知の魅惑で香り立つ、香気のようなものとして存在を主張する。〈時〉とはもちろん、流動・蠕動し変化・変動・移行・転生してやまない〈時空間〉の一側面のことである。そうは言っても、アウトラインは曖昧で朧気であり、知覚すらできないこともしばしばである。ほとんどの場合、外科的要素を含めたなんらかの外的要因の影響力によって身体の内奥ふかく内在する空間が時にスタティックに沸騰状態になり、長期間か短時間に関わらず酩酊に似た心的状態トランス状態になる、その期間のことを指している。言語でしか判断できないレクチュールにとって〈時空間〉は〈言語空間〉にしか存在しない。当然のことである。つぎに〈所〉とは、字義通りの場所を指したり、所属する組織内の立場や〈個〉の相対的な位置関係を指したりする。リアル現場に身を晒し、匿名かハンドル・ネーム(ペン・ネーム)を問わず、情報や知識や知見や言語形式を整えてレクチュールにむかって発信するエクリチュールの立ち位置のことを指している。紙媒体であろうが、電子媒体によるものであろうが、その違いは〈場〉のちがいでしかない。いずれにしろ、主観的でありながら同時に客観的な位置関係を指し示している。詩の臨床現場では、エクリチュールの社会的関係性や組織内的優劣や情報・知識・知見を削ぎ落して、ついには感覚や感性によって知覚され、形式の系譜によって分類されることになる。そこに分類されないものは新たな呼称を与えられることになる。詩は一部を除き、短歌や俳句のような明確な定型というフォルムを纏っていないから、現前する詩句の容姿は容器にも似て、可変的で不触で、容易に擬態してみせる雲や水のごとくとらえどころがない。しかし、ときにこの世のものともおもえないほど美しい姿態をみせてくれるものだから、一度その魅力、いやときに魔力とも感じられるものに惹かれたならば、ついには容易に離れがたい恋情や敵愾心やその心的周辺で発生するレクチュール自身の抑制できないスタティックな感情にふりまわされてしまう恐ろしい心的状態にさえなる。曖昧で茫漠とした書き方をしてしまった。こういう心的状態になった一つの詩誌と二冊の詩集に具体的に触れながら書き進もう。
 まず詩誌というのは、先日まで『詩的現代』の会員仲間であったセンナヨオコが退会ののちに始めた個人誌『miu』のことである。通常よくみられる詩誌とは異なるしゃれた美しい姿態をみせてくれる。12×15.1の透明セロファン袋に10×14.8の白い厚紙がバラバラに三枚入れてあり、最初の一枚目の表に詩誌名と写真によって表紙としている。その一枚目の裏から一篇の詩がはじまり、二枚目の表裏が詩篇のつづき、三枚目の表が「あとがき」、裏が奥付となっている。一号の詩は『扇』という詩、清冽な佳品だ。引用してみる。「夜のとば口で/扇をひろげ/あんぐりと星を数える//名をもたない/こんなにもおびただしい/日の数に/ならぶ文字列/熱い鉢のなかに/時には手を入れ//その設えに弱く笑む//または/美しい嘘と/菫のような血脈と/そりかえる背//よりも//反転し/青い血は/奥深い墓所をめざしてどっと流れだす//靴ひもをとくように/星を数えるように//扇を/ひろげ//簡単に/もっと簡単に/よじれた日付を捜しに降りていく」。この「青い血」とはなにを意味しているのだろう。ヒントは「あとがき」の「書く事の終わりを思いながらまだ何か掴めるかもしれないと再び書き始めています」の一節にあるだろう。「終わり」の先にある「何か掴めるかもしれない」ある形にならない思い、それが「青い血」に表出されているように思った。先に、詩には〈時と所〉が必須であると書いた理由がここにある。『詩的現代』という、決して少数精鋭とはいえない会員詩誌に属して書いていた頃と比べてはるかに精彩を放って輝いてみえる、センナが〈時と所〉を得たからであろう。筆者は詩集や詩書の担当だから越権行為であるかもしれないのだが、届いた彼女からのメッセージに一言エールの言葉を贈りたかったのだ。
 つぎに二冊の詩集、野村喜和夫『久美泥日誌』(書肆山田)と稲葉真弓『心のてのひらに』(港の人)に触れよう。まず前著は一冊が一篇の詩の連作になっている。組曲というクラシックに一ジャンルがあるが、それを模して組詩と呼びたい。その組は「久美」という女性名詞で、タイトルの「久美泥」を「久しく美しい泥」とか、「泥は〈ネ〉と読んで、組み寝、の万葉仮名」であると展開させ、彼女との性愛を赤裸々に綴った「日誌」のように読ませながらも、筆者はこれを〈詩〉とはなにかをめぐる思考の断章と読んだ。いや、そう記してしまったら単純にすぎるだろう。この詩集は「思考の腐蝕について、という古い」、「アントナン・アルトーとジャック・リヴィエール」の「往復書簡をまとめた本」(断章の記述が一、二五、六〇頁と記される)の真髄が「蝶」のように舞う構図に示唆させているように、〈思考〉をめぐる断章をテーマにしてもいて、具体的に記すならば光景のなかの「夜のふくらみは女のふくらみ」とあるように、〈光景〉→〈久美〉→〈性愛〉→〈絶頂感〉≒〈死〉≒〈詩〉(発語)≒〈生〉と、循環とも解せる。「久美、きみへのアクセス」とは、詩へのアクセスであり、「私達ノ住マイ、/ソレハ棺ト呼バレルぬらぬらシタ穴デ(略)時間ヲ無化スル時間ニ浸ルヨウナ(略)地勢全体が官能を得たようにうねる」。「ぼくは恐れる。書くことによって、ますます久美、きみを見失ってゆくのではないか」と、「久美、きみへのアクセスを超えて。何の輪だろう、輪が、ふわっとひろがる」で、本書は閉じられる。後著の稲葉真弓は、いわずと知れた女流作家としての名声の方が一般的で、詩も書くのかと意外に思う方がほとんどだろう。だが「高校生の頃より詩作を始め」と著者紹介で本書にも記されているように、「西脇順三郎作品に衝撃を受けた」ことをきっかけに書き始め、詩から小説へと歩を進め、たくさんの文学賞に輝いた。筆者は逝去の報に接したとき、まだ若いのに…と勝手に勘違いして悼んだのだが、逆に年長であったことに意外性を感じた。本書は、著者の死後託された担当編集者の手によりタイトルを冠して上梓された。こういう経歴にもかかわらず、詩は散文家のものではない。〈死〉を間近にして、ますます研ぎ澄まされ清冽になってゆく詩句には鬼気迫るものさえあった。時代背景の歴史的隔たりと作風の違いから一緒には論じられないが、高見順の場合と似た接近動機を感じるのは生と言語が近接する言語芸術家の宿命なのかもしれない。「たどりつかねばならぬのは/春の光に濡れた三月十一日 の 一秒前の世界」という共感力が創作を下支えしている詩『シュポー 見えない列車』もいいが、『クラゲたち』の詩にもっとも魅かれた。「あと数日で八月の満月/水に漂うものが/今年は北からやってくるという/青い宇宙を抱いて消えた賢治の妹や/銀河鉄道に乗った人々の抜け殻が/蝉時雨のように海を満たす夜がくる/(略)/塩からい奈落だ/わたしの肌を刺す鋭いとげ!/刺すものと刺されるものが海の上で/ともに痛みをこらえながら/過ぎ去った夏のことを思っていた」(一部より)。ここにも「青い宇宙を抱いて消えた賢治の妹や/銀河鉄道に乗った人々の抜け殻」という印象的な詩句が抽出されている。永遠につづくのか賢治は『春と修羅』で「青い照明」と書き記した。稲葉の「青い宇宙」、センナの「青い血」それぞれとも〈時と所〉の両方を包摂しているのかもしれない。
 リアル現実や社会生活においては、「言葉は認識のあとにくるのではなく、認識それ自体である」と指摘したメルロ・ポンティの言説に支配されてでもいるかのようにそのことは、自覚するかしないかに関わらず逃れようがない事実である。無自覚な幼児や失語症患者、知的障害者、または高度に自覚的な詩人の言語表出も当然のごとく言葉=認識のテーブル上にあるが、そこから零れ落ちてしまう、あるいは自覚的に逸脱する場合がある。そもそも言葉の意味決定は、ソシュールが提唱しイェルスレウが定式化した概念、言語非実質論の形と実質によって、心的な実質の集成ではなく、線状的な音韻配列や意味の差異、つまり当該語彙の前後に置かれた単語や分節や構文との関係における相互影響作用によって意味が決定される関係態であるとする連辞(統語)であり、コンテクストには現れなくともある語彙が音韻の類似や意味の近接によって連想させる潜在的な体系を連合(関係)と呼び、ヤコブソンによって詩人たちの言語表出を換喩(メトニミー)理論とか隠喩(メタファー)理論に結合させたといわれ、外示的意味(デノテーション)が共示的意味(コノテーション)を内包しているとする理論も隣地として接する理論であるようにおもわれる。幼児や失語症患者や知的障害者の言説に突拍子もなく飛躍した斬新な文言や超現実的絵画による線描や色使い、思いもかけない詩的表出が顕現する場合があるのは、共有された社会的恣意性の認識が生育しきれていないか希薄なまま維持されているせいだろうし、言語芸術家である詩人の場合は彼らとは異なり、自覚による社会的共有のコードから脱臼作業を繰り返した言語表出のせいだろう。詩人の言語表出に意味の乱れが恒常的に顕現するのはそのためである。
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峯澤典子『あのとき冬の子どもたち』(七月堂)。前著『ひかりの途上で』から三年半の時を隔て、本書はさらに洗練されて隙がなく、進む方位や文脈の構成力、改行や一字一句まで十分な気配りが効いて極上の、また豊潤な魅惑に満ちた詩集となっている。リアル現実レベルでの異国生活の如何を無化して常態化し、見過しがちな光景や時々の主体心理の襞々にまで言葉の視線を注ぎ、エクリチュールという臨床地での生成スペースを確保して、書き手の言語世界を確立できているように感じた。「さまざまな髪と肌のいろにまぎれて/すこし眠ったあと/冬の空港は/しずかな血液の匂いがした/宿泊の場所を決めずに/バスに揺られているあいだは/息が吸える気がした/遠ざかってゆく、のか/近づいてゆくのか/もう誰にもわからなくなっていたから/(略)/硬貨を数えてから/冬を越せないいきものを/あっけなく野に放つように/携帯電話の通話履歴をすべて消した/(略)/誰かの息から漏れた/憎しみ、という単語が/川の水が見えなくなるまで/窓ガラスに映っていた」(『パリ、16時55分着』より)。もしかすると、異国語のなかに身を置く行為そのものが、主体の視線をなにげない事物や光景に向けさせ、主体の身体や内在空間に向け、寄る辺ない孤独の心情を増幅させているのも環境からの影響に拠っているのかもしれないのだが。「列車は河を渡る/両岸の灯から離れ/誰とも話さずに/水のうえを通るとき/ひとはすこし不安になる/生まれたての雪原のような暗闇で/ゆく、も/帰る、も/いちどに見失い/視力を/すでに遠い町のホテルに残したまま/この河は何ですか とすら言いだせない外国語のなかで/窓ガラスにぶつかる羽虫の音だけを聞いて」(『夜行』より)。異国の心細さが身内にあったとしても、主体には置かれた環境に立ち向かう力強さがある。「見知らぬ集団のなかで/傷つけられても/傷つけてしまうとしても/ひるまず進むために/わたしは、まず息をとめ/こころの動きをとめた」(『改札の木』より)。この「こころの動きをとめた」の詩句にこそ、臨床にむかう主体の発語の根毛となる箇所だろう。

萩野なつみ『遠葬』(思潮社)。書き手のことは、現代詩サイト発表の頃から知っていた。互いに遠ざかったので、こんなに美しい詩句をならべた詩集として再会できたことを嬉しくおもう。現代詩手帖にも投稿していたらしく高貝弘也と杉本徹が栞に言葉を寄せている。短いセンテンスで改行を繰り返すのは、同時に書いていた短歌のせいもあるだろうが、書き手の生得的な息遣いによるものだろう。どの詩句にも喪失感や違和感が貼りついている。悔恨すら紅をさしている。だが、実体や実質は注意ぶかく伏せられたまま陰影ふかい影を語るのを特徴としている。痕跡や断片や断章が物語を形成することはない。時間軸がゆれて事後の出来事が予感として顕現したりするのは、情感を何度も反芻しているからだろう。「微風が運ぶ誰かの骨/(略)/気配すら失せて/もうここには/もう/ここには」(『半夜』より)や、「散骨をするように/黄色い断崖にはらはらと砂糖をふりかける/(略)/場違いな形見分け/くちることなど/賛美でもなんでもない/(略)/もっと/歌えばよかった」(『晩夏』より)。「立ち竦む喪主」、「嗚咽をにじませた付箋紙」、「おまえは黒い服を脱ぐことはない」、影の所有者らしき人物の名が呼び出される。「ふりかえると もう/母は風に溶けているのだ」(『産道』より)と。だが筆者は「母」が影の所有者だとはおもっていない。書き手の臨床には具体物の姿は存在せず、言語の自立性や物質化の領域にまで踏み込んでいるとおもえるからだ。佳品に列する『冬』を全行引用してみよう。「暁に漂着した/見覚えのある筆跡が/とぎれとぎれ に/揺り起こす体温//冬/堤防の向こう/すべての今はこごえて/うちよせる/静止画はふかい群青//遺書、/だと言う/わたしの中の/かつてわたしだったものが/過ぎてゆく風の/くちびるを借りて//おしなべて/生きるものは過ぎてゆく/読点のたびに息をひきとり/読点のたびにめざめる//ときどき/ちいさくあいしては/ちいさく わかれる//胸腔を満たす/凛としたさざなみから/逃れることができなくて/いまひとたび、眼を閉じれば/なにもかもがほどけて/朝が来る//暁に漂着した/懐かしい誰かの欠片を/手放す前のひととき/ふりあおいだ/まなうらの雲海に//めざめてもなお/めざめてもなお//筆跡が/はるか尾をひいて/やまない」体言止めや連体詞での改行、名詞後の句点など、短歌を類推させるとも指摘できようが、それよりも、この繊細なまでの語彙の選択と詩文脈の丁寧で慎重な展開は鮮烈なまでに美しい。そのことが、書き手の固有性であることは一目瞭然だろう。臨床以前の生活感に立ち帰らない決意が、発語のエクリチュールの優位性を描出して潔い詩を生成できている。

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