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2020年08月03日03:16

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8月3日

テニアン島の戦いが終結。日本守備隊約5千人が全滅。マリアナ諸島全域における日本軍の抵抗が終了:昭和19年のこの日。テニアンの戦いは、太平洋戦争(大東亜戦争)中、昭和19年7月24日から8月2日にマリアナ諸島テニアン島において行われた日本軍とアメリカ軍との戦闘。
テニアン島は第一次世界大戦後、日本の委任統治領となり、第二次世界大戦前は多くの日本人が入植し、砂糖黍栽培などに従事していた。一方、この島の戦略的価値を見出した日本海軍は同島に飛行場を建設。当時南洋最大といわれたハゴイ飛行場が完成する。そして戦争が勃発し、ギルバート諸島、マーシャル諸島を攻略した米軍は日本本土爆撃および内南洋における日本軍の海上、航空兵站線を攻撃する基地を確保すべく、昭和19年6月、マリアナ諸島攻略計画を発動させた。一方、日本軍は同島のハゴイ飛行場を航空基地として使用していたが、陸上兵力が少なかったため、満州の遼陽から陸軍第50連隊(連隊長 緒方敬志大佐)を移駐させた。6月19日、20日のマリアナ沖海戦で日本機動部隊を撃退した米軍は7月8日、サイパン島の攻略を完了、それに続いてグアム島、テニアン島の攻略を開始した。(中略)8月2日、緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と民間義勇隊等約1,000名が、アメリカ軍に対し突撃を敢行した。アメリカ軍は、機関銃などにより猛烈な防御砲火をあたえたため、日本軍に死傷者が続出し、緒方連隊長は後退中に戦死した。また角田司令長官は手榴弾を持って壕を出たまま戻ることはなく、三和参謀長以下海軍の幕僚は自決し、第56警備隊司令大家大佐も戦死した。結果、日本軍の玉砕という形で、テニアン島における組織的戦闘は8月3日の夜明けに終結した。その後も生存者は何人かの集団となって米軍施設などを破壊して遊撃戦を続けたが、テニアン島は隆起珊瑚礁からなる平坦な島で、遊撃戦には不向きな地形であった。(出典:今日は何の日、Wikipedia)画像は、テニアン島と米軍の侵攻図。
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