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2020年07月21日20:30

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シュタウフェンベルク大佐と反ナチスグループは本当に英雄なのか?

これは、僕が[Deutschland-Lab]というブログに昨日(7月20日)に書いた記事のコピーです。昨日は「ヒトラー暗殺事件」が起きた7月20日だったので、この記事を書きました。

https://www.deutschland-lab.info/entry/20200720/1595219644


これは、僕がトム・クルーズが主演した映画「ワルキューレ」が公開された2009年3月に、他のブログに書いた記事です。映画「ワルキューレ」はドイツ陸軍大佐のシュタウフェンベルク大佐の率いる反ナチスグループがヒトラーを暗殺してナチス党幹部を逮捕して、連合軍と有利な条件で講和をしてドイツを救おうとした事件です。一般的には7月20日事件と呼ばれてます。今日が7月20日なので、この事件に関するブログをアップしようと思ったのです。



トム・クルーズが主演した映画「ワルキューレ」で、シュタウフェンベルク大佐たちの反ヒトラーグループによる1944年7月20日のヒトラー暗殺事件が世界的に有名になった


トム・クルーズ主演の映画「ワルキューレ」が公開されて(2009年3月に日本では公開された)、多くの人が見に行っているようだ。当然ながら、多くの人は、この映画を見た後に,
「シュタウフェンベルク大佐は、ナチス・ドイツの不正を正すべく、正義感から反逆者となり、独裁者ヒトラーを暗殺しようとしました。本当に立派なことだと思います」
というような、感想を抱いているようだ。

だが、僕はこのヒトラー暗殺未遂事件はかなり前から知っていて、シュタウフェンベルク大佐と、反ヒトラー派将校に所縁のある場所を訪れたことがある。シュタウフェンベルク大佐が爆弾を爆発させたヴォルフスシャンツェ、大佐を含む反ヒトラー派の将校が銃殺された旧ベンドラーブロック、人民法廷の後に、多くの反ヒトラー派の将校、政治家が処刑されたプレッツェンゼーに行ったことがある。だから、ちょっと視点を変えて、敢えて、「シュタウフェンベルク大佐と反ヒトラー派将校たちは、本当に英雄だったのだろうか?」ということを、考えてみようと思う。



シュタウフェンベルク大佐が反ヒトラーグループに参加したのは、ドイツ軍の敗北が始まった頃であり、その頃に反ヒトラー運動を始めたのでは「日和見主義者」ということになる。



まず、シュタウフェンベルク大佐が本格的に反ヒトラー派として行動を開始したのは、ソ連軍との戦いで、バルバロッサ作戦、スターリングラード攻略戦が失敗し、ドイツ軍の敗色が濃厚になりつつあった時期だった、ということに注目してもらいたい。

彼が、もし、本当に、ヒトラー政権とナチスの政策に疑問を感じていたのなら、1933年にヒトラー政権が誕生した時から、ずっと、反ヒトラー派でなければならなかった筈だ。でも、ヒトラー政権が誕生した頃は、シュタウフェンベルクはヒトラーとナチスの政策には反感を抱いていなかった。

だから、シュタウフェンベルクに対してかなりきつい見方をするのなら、ちょっと、「日和見主義者」といった面もあったことは否定できない。これは、他の反ヒトラー派将校にも言えることだろう。ポーランド、フランス作戦など、ドイツ軍の快進撃が続いていた時は、ヒトラー政権に同調していたが、敗走が始まると反ヒトラー派になったというのでは、日和見的と思われても仕方がないだろう。映画に登場する反ヒトラー派将校の中で、ヒトラー政権誕生から、ずっと、反ヒトラーを主張していたのは、ルートヴィッヒ・ベック上級大将ぐらいになる。




たとえ、ヒトラー暗殺に成功してナチス党幹部の逮捕に成功しても、連合国側は反ヒトラーグループと交渉に応じるつもりはなかったという

シュタウフェンベルクを始めとする反ヒトラー派の将校たちのプランは、ヒトラーの暗殺に成功した後、ゲッベルス、ヒムラーなどのナチス幹部を逮捕し、SS、ゲシュタポといった組織を解体して、なるべく、米英・西側連合国に近い政権を誕生させる。その後、西側連合軍との戦争は終結させて、共産主義のソ連軍との戦いは継続する、というものだったようだ。

だが、「ワルキューレ」が失敗に終わった後の、連合国の反応は、極めて冷ややかなものだったらしい。
「1940年には、電撃戦による大攻勢で、フランスを始めとする西ヨーロッパ諸国を占領し、バトル・オブ・ブリテンでイギリス各都市に無差別爆撃を行った。そして、占領した地域に住む大量のユダヤ人、ジプシーなどを強制収容所送りにして、レジスタンス活動も弾圧した。だが、その後、敗色が濃くなったら、ナチス党幹部を連合国に引き渡すから、好条件で講和させて欲しいというような話は、とても受け入れられない。西側連合軍は、ソ連軍と共にベルリン占領まで戦う」
というのが、連合国首脳の一致した意見だった。つまり、シュタウフェンベルクが率いた反ヒトラーのクーデターは、どう考えても成功する可能性などなかったのだった。


戦後のドイツ政府はこの反ヒトラーグループによるヒトラー暗殺未遂事件を利用して、「国防軍(ヒトラー政権掌握前から存在したドイツ軍)は清廉潔白だった。悪いのはナチス親衛隊だ」という歴史上の神話のようなものを作った


ただし、ドイツでは、今でもシュタウフェンベルクと反ヒトラー・グループの行動は高く評価されていて、ドイツには、シュタウフェンベルク、トレシュコウなど、反ヒトラー派将校の名前が付いた通り、公園が数多く存在する。さらに、戦後のドイツ政府は、シュタウフェンベルクによるヒトラー暗殺事件を最大に利用して、「クリーン国防軍」、「邪悪ナチス軍(SSなどのこと)」というイメージを作りあげた。


この「クリーン国防軍」、「邪悪ナチス軍」というナチスドイツ軍という見解については、色んな意見が現代史の専門家から出されている。それらの専門家の意見をまとめると、日和見主義者かもしれないシュタウフェンベルク大佐と反ヒトラー・グループを反ナチス抵抗運動のシンボルとして利用し、
「ヒトラーに信用されていた将校の中にも、ヒトラーを嫌っていた者がいた。そして、ロンメル元帥が自殺を強要されたように、何人かのドイツ人は、ナチス政権の犠牲者なのだ」
というふうに戦後の西ドイツ政府は主張して、ドイツの戦争犯罪を軽くすることに成功したというのだ。


だらだらと、シュタウフェンベルク大佐と反ヒトラー・グループを批判する記事を書いたけど、僕の率直な意見としては、ヒトラー暗殺未遂事件は高く評価できるものだと思っている。ナチス党独裁の時代に、命を賭けて、祖国を破滅に導く悪魔のナチス党と戦うのは、とても勇気のいることだったと思う。

しかし、残念なのは、行動を起こす時期があまりにも遅すぎたことだ。連合軍の勝利が確実になりつつある時に、反ヒトラーのクーデターを起こしても、敵の連合国も交渉しようとは思わなかっただろう。最善だったのは、ドイツ軍がポーランドに侵攻する前にクーデターを起こして、ナチス政権を潰してしまうことだったのだろうが、やはり、ナチスの政策、戦争遂行が上手くいっている時に反逆を起こすことは、あり得なかったのだろうか?この疑問は、当時の大日本帝国にも当てはまることだろう。



シュタウフェンベルク大佐を始めとする反ナチスグループがヒトラー暗殺を試みた場所は、今ではポーランド領になっていて交通が不便な所にあるが訪れることができる。 反ナチスグループが処刑された場所はベルリンの中心部にある。


写真左はシュタウフェンベルク大佐と彼の仲間の反ヒトラーグループの高級将校たちが、7月20日の深夜に銃殺刑に処された場所。ベルリン中心部にあり、今はドイツ国防省の管理になっていて、「ドイツにおける反ナチス抵抗運動記念館」になっている。真ん中と右の2枚の写真はポーランドのケントシン市(ナチスドイツ時代はドイツ領であり、ラステンブルクというドイツ語名だった)に残るヴォルフスシャンツェ(狼の巣)という名前の総統大本営跡地で撮った写真。真ん中がシュタウフェンベルク大佐が爆弾を爆発させた場所で、右がヒトラー暗殺の「7月20日事件」に関する説明板。ヴォルフスシャンツェ跡に行くと、ポーランド人のガイドが英語とポーランド語で説明を行ってくれる。訪れる観光客はドイツ人とポーランド人が多い。ポーランドはナチスドイツ時代にかなりナチスドイツに虐待されたが、戦後に共産主義のソ連に1991年まで虐待された時の恨みの方が強いため、反ドイツ感情はそんなに強くない。
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