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2020年07月20日08:44

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●緑の連隊長・吉松喜三さん

●緑の連隊長・吉松喜三さん
 靖国という字は青を立てて国を安らかにするという意味
★戦争中に敵国を緑でいっぱいにしようとして感謝状をもらった吉松大佐。
http://magokoro.japonismlove.com/kansha.html
戦争の最中に、敵国支那が砂と黄土の大地であることに心を痛め、植樹をすることで支那の大地を緑でいっぱいにしようとした日本人がいました。
名前は吉松喜三という佐賀県生まれで、終戦時は陸軍大佐でした。
吉松大佐は、支那事変が開始されてすぐの1940年に、戦闘中に腹部を負傷し、後方の野戦病院に送られ、療養することになります。
その際に病院のベッドであるひらめきが起きます。
その後1943年に機動歩兵第三連隊長に就任した吉松大佐は、そのひらめきを、連隊のみんなに伝えます。

★靖国神社問題を分かりやすく整理してみる - 出雲大社紫野教会
https://www.izumo-murasakino.or.jp/shinto-008.html
何かと話題になる靖国神社について、何が問題なのか、そもそも靖国神社とは何なのかよくわからないという声があります。そこで一神主の立場から語ってみます。
・靖国神社はいつできたのか
 明治二年(1869)に明治天皇の思し召しによって創建されました。そして明治十二年に靖国神社に改称され、別格官幣社となりました。神社は国家の宗祠ということで靖国神社も国家管理されていましたが、第二次世界大戦後、GHQの命令により一宗教法人となりました。 
・靖国神社のご祭神は
 明治維新の際の殉難者と明治以降の戦争において戦い没した御霊がお祀りされていています。その数約246万6千柱。
 基本的には軍人をお祀りするものですが、その他軍属(軍隊に所属しているが軍人ではない人、例えば通訳や従軍僧侶など)、一緒に戦ってなくなった官吏、警官、民間人などもお祀りされています。
 女性もいます。看護婦やひめゆり部隊などです。朝鮮人、台湾人についても日本人として軍隊で戦った人や軍属として働いて戦没した人たちがお祀りされています。
 反対に全くお祀りされていないのは自衛官です。これは第二次大戦までの死者に限定しているからです。

★吉松喜三陸軍大佐
http://dsktnk.sakura.ne.jp/memo/diary/2016/09/20160913.md
2016/09/13
・芥川賞のコンビニ人間目当てに借りた文芸春秋9月特別号...。
 天皇の生前退位についての特集を読みふけってしまい、なかなかお目当てにたどり着かない...。特に緑の連隊長と呼ばれた吉松喜三陸軍大佐のエピソードがよかった。
 吉松大佐は、機動歩兵第三連隊を率いて、中国戦線に出征中、戦闘が終わると「こんな荒野で戦争ばかりしてもしょうがない」と苗木を植え始めた異色の軍人です。
 大本営から寒さに強い苗木を送らせ、それを戦車の後ろに積んで戦ったのです。そして戦いが終わるとすぐに兵隊が植木屋に変って苗木を植えるんです。それで「植樹部隊」と呼ばれたという。(略)四百万本の苗木を植えたそうです。戦後、毛沢東主席からこの功績が認められて、感謝状が贈られています。
吉松さんは復員後に、靖国神社で銀杏の苗木を育てます。

★在日特権の実態を国会で大暴露!在日韓国・朝鮮人の
7,004 回視聴 2015/09/08 https://youtu.be/MCNbUp7KNg4
Sizera Nakur
チャンネル登録者数 227人
次世代の党の桜内文城さんが、国会で在日特権の実態を大暴露しています。在日朝鮮・韓国人による生活保護費が如何に莫大であり、不正受給が...
在日特権の実態を国会で大暴露!在日韓国・朝鮮人の生活保護不正受給の闇を暴く次世代の党・桜内文城の神質疑
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★靖国神社の苗木と緑の連隊長・・・吉松喜三大佐
http://www2.yamatopress.com/beautifuljapanstory/4.html
吉松喜三大佐という方は、大正4(1915)年、佐賀県のお生まれです。
大正6(1917)年に陸軍士官学校を第29期で卒業され、開戦に先立つ昭和16(1941)年10月に大佐に任官し、昭和18(1943)年4月からは帝国陸軍機動歩兵第三聯隊長として活躍された方です。
昭和22(1947)年に復員され、昭和60(1985)年、90歳でお亡くなりになりました。
大佐の別名を「緑の連隊長」といいます。
昭和15(1940)年のことです。
吉松大佐は、中支戦線で戦闘中に腹部に重傷を負い、後方の野戦病院に送られました。
吉松大佐が、療養中のベッドの上で前線の部下達の苦労に思いを馳せていたときです。
ふと窓の外を見ると、隣接する洋館の中庭で賛美歌を歌いながら、緑の木立の中を散策する修道女達の姿が目に飛び込んできた。
よくある光景です。
その様子をみた吉松中佐の心に、ふとしたひらめきが生まれます。

★「緑の連隊長」吉松喜三大佐(「神社新報」平成10年10月12日号から)
https://saitoyoshihisa.blog.ss-blog.jp/1998-10-12
 戦時中、広大な中国大陸を転戦しながら、日中戦没者の慰霊と平和への祈願を込めた緑化を推進し、「緑の連隊長」と呼ばれた軍人がいる。吉松喜三陸軍大佐(故人)である。
 吉松氏は明治27年、佐賀県鳥栖市に生まれた。支那事件勃発後の昭和14年、戦車第13連隊が結成されたときに初代連隊長となり、中支戦線で戦った。

★靖国神社で買ったクチナシ 吉松喜三大佐のこと : 中野 馨一が創る 外構、庭造りの現場
https://nakanoex.exblog.jp/983877/
2005/09/17
靖国神社で買ったクチナシ 吉松喜三大佐のこと. 最近 アゲハチョウが飛んでいるなと思ったら やはり青虫が居ました。新芽の柔らかいところからムシャムシャです。

★機動歩兵第3連隊の思い出の地・召君墳
http://burari2161.fc2web.com/um-5.htm
2007/10/16
その昔、騎兵第14連隊が改編されて機動歩兵第3連隊になり、ここに駐屯していた時に、吉松連隊長の命で各大隊50万本の木を植えたのである。
当時の“包頭”はろくに緑もない町だったので、町に木を植えて緑を増やし、更に池のある公園も造って現地人の憩いの場所を作ったのだ。
昭和18年か19年頃の事だと思う。
その時に造られた公園ではないのかと思ったのだが・・・・
完全に否定された。
日本軍が植樹や公園などを造るはずはないという。
こういうわけだ・・・
良いことは全て中国人民政府のおかげ、悪いことは全て日本軍のせい・・・・である。

★慰霊を通じ恩讐を超えていこう(上) - BIGLOBE
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/nagoshi/nikkan_692.htm
2009/08/15   〜敵の戦歿者を慰霊した昭和の日本人〜
名越二荒之助  日韓2000年の真実
 「恩讐を超える」という思想 「昨日の敵は今日の友」とか、「汝の敵を愛せよ」という言葉があります。
 中華民国の蒋介石総統は、日中が戦っているさ中にあって、拉孟・騰越において全員が玉砕するまで戦った日本軍の勇戦を讃え、「東洋道徳の範とせよ」と二回にわたって全軍に布告しました(昭和十九年六月)。また昭和二十年八月十五日には重慶から全国に向けて、いわゆる「以徳報怨」の演説を行ないました。その中で彼は「旧悪を思わず、人に善をなせ」「敵をも愛せよ」と述べ、偉大な中国国民としての誇りを訴えました。

★日韓2000年の真実 慰霊を通じ(下) - BIGLOBE
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/nagoshi/nikkan_696.htm
2009/08/15   〜敵の戦歿者を慰霊した昭和の日本人〜
名越二荒之助  日韓2000年の真実
  中国大陸に樹を植えた緑の連隊長
 吉松喜三大佐は、支那事変当時、戦車連隊長として中国大陸で活躍した人でした。英霊は緑の樹に宿ると信じて、作戦が終わると「弔日支両軍戦歿勇士之霊 興亜祈念樹」という慰霊標をたて、その周囲に樹を植えました。
 そんなことを繰り返しているうちにやがて吉松大佐は、中国人からも「緑の連隊長」と呼ばれるようになりました。昭和十五年から復員する二十一年まで、吉松連隊長が大陸各地で植えた樹は実に四百万本に達し、敵の蒋介石総統も感謝したほどです。 吉松さんは戦後も靖国神社の銀杏を苗木にして頒布することを始めました。「靖国」とは青を立てて国を安んずることだというのが、吉松さんの信念でした。

★【NHKがYoutubeから削除】 従軍慰安婦捏造を暴く!
35,635 回視聴 2013/03/11 https://youtu.be/SJtbTYItgbM
t8838gkt
チャンネル登録者数 3410人
【拡散】 【即保存】
中山成彬氏の後ろで工作員が硬直しています
NHKには非常に都合がわるいようです

★緑の連隊長“吉松喜三 : 想日記 - livedoor Blog
http://blog.livedoor.jp/kazn14/archives/65256875.html
2016/08/24
昭和の時代に「緑の連隊長」と呼ばれる軍人がいた。その人は吉松喜三陸軍大佐(1915〜1985)で佐賀県の出身である。第二次大戦中、中国戦線に出征し、機動歩兵第3連隊を率いた。彼の部隊は主に山西省周辺に展開、いわゆる“中原”と呼ばれるあたりである。

★「緑の連隊長」吉松喜三大佐(「神社新報」平成10年10月12日号)
2014年6月10日 20:44  公開
https://00m.in/LsPrt
戦時中、広大な中国大陸を転戦しながら、日中戦没者の慰霊と平和への祈願を込めた緑化を推進し、「緑の連隊長」と呼ばれた軍人がいる。吉松喜三陸軍大佐(故人)である。
吉松氏は明治27年、佐賀県鳥栖市に生まれた。支那事件勃発後の昭和14年、戦車第13連隊が結成されたときに初代連隊長となり、中支戦線で戦った。
 15年7月、揚子江北方で被弾し、左脇腹をえぐられるという重傷を負ったのが転機となった。
 かろうじて一命を取り留めたものの、野戦病院では絶対安静を強いられた。床の中で心に浮かぶのは、戦陣に散っていった部下のことであった。

★「興亜植樹」部隊(Adobe PDF)
file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/O_06_293_1.pdf
千葉県 古川文吉
はい。私は昭和十六年徴集で第一乙でしたが、現役入隊です。
騎兵十四連隊要員として昭和十七年一月大阪難波別院という寺に集合して、
兵器一式をもらって広島宇品で乗船。
着いた所が蒙古の砂漠の真ん中で包頭という街でした。





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