mixiユーザー(id:8909133)

2020年07月12日21:01

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新型コロナウイルス感染者を責める…というコロナ禍

某コミュで絡まれてます。
いや絡まれてはいないのかな?
まぁ少なくとも、私はその人について何も言っていないのにその人が私のコメントに反応し個人攻撃に思えるコメントをトピルール無視で行い、その後も関係ない私のコメントを「自分のことを悪く言っている」とでも言ってるかのように受け取れるコメントをされている状態です。

まぁ別に勘違いするのも個人の自由だし私に実害のない範囲なら困らないし放置しようかとも思っていたのですが、それを見て某コミュから訪れている人もいるようなので他の人にまで誤解されてはよろしくないかな、と思って、他にも思うところがあって、そこにも触れつつでちょっち書きます。長くなる予感?


まず某コミュでの私のコメント「責難は成事にあらず」について。
これは小野不由美さんの小説シリーズ十二国記の短編集『華胥(かしょ)の幽夢(ゆめ)』の中の『華胥』の中で出てくる言葉です。
ネタバレ込みで少し説明すると…

よろしくない政治をしていた前王、それを批判していたグループがあった。そして前王を倒し、グループのリーダーが新しい王に選ばれた。
しかし新しい王の政治はうまく行かない。前王の政治にはたしかに問題があったはずなのに、それに倣わずに行っている治世は明らかに傾いてきている。
そして事件が起こり、その後、王は自らその位を退く。『責難は成事にあらず』という遺言を残して。
残された者の中には「王の力になれず叱責した自分らに向けての言葉」と受け取る者もいたが、そうではなかった。
王は前王を批判していた。前王にはたしかに問題があり、その問題点を批難して多くの参道を得て、ついには前王を王の位から降ろして自らが王の御位をいただくに至った。
だが批判するだけでは国は立ち行かなかった。
税が重ければ民が苦しむ。しかし税を軽くすれば国が民への施しをすることも出来なくなった。
悪しき官の全てを辞めさせたら国が機能しなくなった。だがその官を戻したら再度不正がはびこることとなった。
叱責すること、批判することは容易い。だがそれだけでは何かを事を成し遂げることは叶わない。
王は自らの自戒の念を含め、残した朋友たちに向けてその言葉を残した。みたいな感じの話です(ざっくり意訳)。

つまり責難は成事にあらずってのはね、誰かが悪いとか、そんなことするなんて非常識だとか、それを言うだけは簡単だよ。
でもね、それだけでは物事は良くならない。何も前進などしない。
しかし私達は誰しもが愚かで、気付かぬうちに誰かを批判するだけで何かを成し遂げたと、いい事をしたのだと勘違いしてしまう。
それを何より自ら意識していないと何にもならないし、時としてはむしろ事を悪化させる、という意味も含んだ言葉だと思うのです。

私が「責難は成事にあらず」という言葉を用いたのは特定の誰かのコメントに対してではなく、ここ数日での青森県内での新型コロナウイルス感染者の新規確認が続いたことで、それに対して感染者を批難するような発言がmixiに限らずネットでも増えてきている。
だがそれは油断すると悪意のないままどんどん悪化していく、そういう性質のものだ。それはいずれ、
「新たな感染者が出た」→「せっかく収まっていたのに酷いやつだ」→「あんな職業なのに無責任な」→「どこどこの何という名前の人だ」→「その人の知り合いもみんな疑わしい」
という流れになりがちなんですよ。っていうかまずなるんです。なっていないのは管理人とかが頑張って問題のあるコメントなどを削除しているからであって、そういう管理をしていない場所では感染者の個人情報も流布すれば、実際には関係ない人が感染者とか悪い人だとかで晒されることもある。
だから人を責めるにとどまるでなく、そこから学び取り、自らの感染予防に努めて欲しい、という願いを含めて「責難は成事にあらず」というコメントのみにとどめたんです。

もっとちゃんと説明すべき、って思う人もいるでしょうが、ぶっちゃけ長く説明したらすたで「長く書いてウザい」「偉そうに人に説教するな」とか言う人が結局湧くのでね、まぁ自分に後ろめたいことがない人はスルーするだろうしあれでいいや、と思ってとどめたわけです。

ということで、後ろめたいことがない人は反応するまでもないし、自分のことを言われたと思った人はその言葉の意味を客観的に見つめて自分に照らしてみてはいかがかな、と思います。


さて、ここから本題。


新型コロナウイルス感染者を責める人、っていますよね?
その責める行為もまたコロナ禍に含まれると私は思っているのですが、なぜか分かりますか?

今って新型コロナウイルスに感染したことって、自ら告白しづらいじゃないですか。私にみたいに会社のお偉いさんにも平気でブチギレる(ただし内容は正論)ような人じゃない限りは隠すでしょ、人間は。
そこにさ、感染者を責める人が増えるとさ、今度は検査自体をためらう人も出てくるわけだよね。悲しい自然な流れとして。
するとそれは感染拡大につながることはあっても、感染予防に寄与することは無いわけだ。
つまり新型コロナウイルス感染者を責める人たちはその発言により、新型コロナウイルス感染拡大をちょっぴり後押ししちゃっているわけなのだよ。 って意味です。

まぁ気持ちは分かる。おいらはいろいろあれだから本当は分かってない気がするが、それでも不安に対して感情的に反応することがあるのは分かる。新型コロナにそれを覚えることはないが、他のことではそれを覚えるからね。新型コロナで直接ではないが、分かる、はず。

でもさ、新型コロナ感染者を責めるのって、無駄でしょ?
別に感染者を批判しようがしまいがさ、ウイルスは「あぁ…この人は感染者を批判しているからちょっと感染しないでおこうか…」とかしないからね。いや、むしろ批判しているなら感染したいぐらいの気持ちかもしれないけどね、ウイルス的には。

んでね、感染者がいてもいなくても、予防は自分や近しい人のためじゃない。それが負担だのストレスだの言うくらいなら、予防しないでおけばいいのよ。予防は文句言いながらやることでもなく、また「自分が予防しているのに感染者でたら無駄じゃん」という意味不明なキレ方することでもなくさ…そもそも分かってないのかな? ウイルス感染とかの予防って、感染をゼロにすることなんて出来なくって、その可能性を低くすることが目的なわけじゃん。
なら「感染者で得た無駄じゃん」じゃなく、「感染者が出ましたが私の予防は粛々と続くのです…あの人のためにむしろ喜んで!」ぐらいの勢いでいないとおかしいでしょ。いやいややるならやるなよ、ってこと。

さらに言うとね、結局責めてる人をみるとさ、みんな嫌な気持ちになるのよ。
「そうだそうだ」って責めるのに賛同する人もいるけれど、それが何? って話。
まぁそうやってさ、自分で処理しきれないストレスを誰かに向けて発散するしかない状態、ある種のパニックやヒステリーなのは分かるけどさ、結局荒れることはあっても何も建設的なことには向かわないよ。

ただ感染者が攻撃されるだけ。
ただ感染者の周りの人が不当に差別されるだけ。
ただ感染疑いがある人が検査や自主隔離をすることをためらうだけ。
そして一部の人が「もういいや」って自暴自棄なワガママで予防をしなくなる、だけ。

だから責めるだけでは意味がないし、周りから見たらそれもコロナ禍。
新型コロナウイルス感染症の流行に過剰反応している人よる災難、っていうか迷惑行為でしかありません。
ということで、新型コロナ感染者を責める行為自体もコロナ禍、です。


新型コロナウイルスの感染が拡大しているのは、自明の理です。
だって多くの人は、黙っていてご飯が出てきてお金をもらえて暮らせるわけじゃないもの。働く=社会の一部として動く=他人と接する=感染リスクある、ってことだもの。

だから諦めて誰かを責めるのか、
だからこそ諦めずに予防に努めて立ち向かうのか、

結局はその人の中身の姿勢の問題でしかないと思います。
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コメント

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