アブチラガマで規模縮小し慰霊祭
06月23日 15時51分
旧日本軍の野戦病院として使われていた沖縄県南城市の糸数アブチラガマで、規模を縮小して慰霊祭が開かれました。
75年前の沖縄戦の際、南城市の糸数アブチラガマには沖縄戦当時、多くの住民が避難したほか、旧日本軍の野戦病院としても使われ、大勢の人が亡くなりました。
毎年、慰霊の日に100人ほどが参加して慰霊祭が開かれていますが、ことしは新型コロナウイルスの感染を防ぐため地元の区長や当時避難していた住民など30人余りで、行われました。
参加した人たちは正午になると、黙とうをささげ、ガマで亡くなった人たちを追悼していました。
ガマには毎年多くの修学旅行生が平和学習のために訪れていますが、新型コロナウイルスの影響で4月から閉鎖されています。
当時9歳で家族6人とガマに避難していた知念利男さん(84)は、「戦争はもうないと信じているがいつまでも平和であるよう願いたいです」と話していました。
糸数区の知念進区長は、「自粛ムードの中ですが、平和を願う気持ちで慰霊祭を開催しました。また多くの子どもたちが訪れ、平和学習の場として活用してもらいたいです」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010613.html
コロナ禍のため自宅で慰霊
06月23日 15時46分
「慰霊の日」の23日、遺族の中には、新型コロナウイルスの影響で糸満市の平和祈念公園を訪れるのをやめ、自宅で祈りをささげた人もいました。
平和祈念公園を管理する財団の会長を務めている那覇市の新垣雄久さん(90)は、沖縄戦で両親と妹、それに弟の家族4人を亡くしました。
戦後、琉球政府の職員として働き、本土復帰後は副知事など県の幹部を歴任して戦没者追悼式の運営に関わるなど、半世紀近くにわたって、毎年「慰霊の日」に平和祈念公園を訪れていました。
しかし、ことしは、体調面での不安や、新型コロナウイルスへの感染を心配する家族からの求めもあり、平和祈念公園を訪れるのをやめました。
新垣さんは、この日、テレビで戦没者追悼式を見守り、正午には、時報に合わせて静かに祈りをささげていました。
新垣さんは「戦争というものの惨めさ、残虐さ、そして、平和へのありがたさに思いを深くしました。平和祈念公園を訪れることができないのは残念ですが、妙な感慨深さがあり、ある意味、いい経験だと思いました」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010612.html
「あなたがあの時」(全文)
06月23日 12時40分
「あなたがあの時」
沖縄県立首里高校3年高良朱香音さん。
「懐中電灯を消してください」一つ、また一つ光が消えていく真っ暗になったその場所はまだ昼間だというのにあまりにも暗い少し湿った空気を感じながら私はあの時を想像する
あなたがまだ一人で歩けなかったあの時あなたの兄は人を殺すことを習ったあなたの姉は学校へ行けなくなった
あなたが走れるようになったあの時あなたが駆け回るはずだった野原は真っ赤っか友だちなんて誰もいない
あなたが青春を奪われたあの時あなたはもうボロボロ家族もいない 食べ物もないただ真っ暗なこの壕の中であなたの見た光は、幻となって消えた。
「はい、ではつけていいですよ」一つ、また一つ光が増えていく照らされたその場所はもう真っ暗ではないというのにあまりにも暗い体中にじんわりとかく汗を感じながら私はあの時を想像する
あなたが声を上げて泣かなかったあの時あなたの母はあなたを殺さずに済んだあなたは生き延びた
あなたが少女に白旗を持たせたあの時彼女は真っ直ぐに旗を掲げた少女は助かった
ありがとう
あなたがあの時あの人を助けてくれたおかげで私は今 ここにいる
あなたがあの時前を見続けてくれたおかげでこの島は今 ここにある
あなたがあの時勇気を振り絞って語ってくれたおかげで私たちは 知った永遠に解かれることのない戦争の呪いを決して失われてはいけない平和の尊さを
ありがとう
「頭、気をつけてね」外の光が私を包む真っ暗闇のあの中であなたが見つめた希望の光私は消さない 消させない梅雨晴れの午後の光を感じながら私は平和な世界を創造する
あなたがあの時私を見つめたまっすぐな視線未来に向けた穏やかな横顔を私は忘れない平和を求める仲間として
沖縄県立首里高校3年�睥票觜甓�
※「高」はハシゴダカ。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010611.html
沖縄戦75年「慰霊の日」追悼式
06月23日 11時54分
20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から75年。
沖縄は23日、「慰霊の日」を迎え、最後の激戦地となった糸満市では新型コロナウイルスの影響で規模を大幅に縮小して戦没者追悼式が開かれています。
75年前の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が犠牲になり、沖縄県民の4人に1人が命を落としました。
沖縄県は、旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」としています。
最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園には、朝早くから遺族などが訪れ、戦没者の名前が刻まれた「平和の礎」の前で花を手向けたり手を合わせたりしています。
父親と姉を亡くした那覇市の81歳の男性は「姉は私の目の前で艦砲射撃の破片で亡くなり、父はどこで亡くなったのかわかっていません。新型コロナウイルスのことはあるが、年に1回は線香をあげたい気持ちで来ました」と話していました。
平和祈念公園では、正午前から沖縄県主催の戦没者追悼式が開かれています。
ことしは、新型コロナウイルスの影響で県外からの来賓や一般の県民の参列は見送られ、これまで5000人規模だった参列者はおよそ200人となっています。
式では玉城知事が「平和宣言」を読み上げて恒久平和の実現に向けた決意を述べるとともに、在日アメリカ軍の専用施設のおよそ7割が今も沖縄に集中する過重な基地負担の現状を強く訴える方針です。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010610.html
「平和の礎」に体験者や家族連れ
06月23日 11時16分
慰霊の日の23日、沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園では夜明け前から家族連れなどが訪れ、戦没者の名前が刻まれた「平和の礎」の前で花を供えたり手を合わせたりしていました。
新型コロナウイルスの影響からか体験者の姿は、例年よりまばらで静かな慰霊の日の朝を迎えています。
祖父とおじを沖縄戦で亡くした豊見城市の65歳の男性は「2人はどこで亡くなったのかも分かりません。両親も教えてくれませんでした。慰霊の日は子や孫に引き継いで、過去のことを忘れないためにも大切なことだと思う」と話していました。
また「沖縄戦から75年がたつが未だ県内には基地が多くあり、いつアメリカ軍の航空機が落ちるか分からず、現状は変わっていないのかもしれない」と話していました。
沖縄戦を体験した祖父とともに、沖縄市から訪れた11歳の男の子は「戦争によって平和な暮らしが壊されてたくさんの人が亡くなって悲しいです。戦争はとても怖いし、争いはやめたほうがよいと思った」と話していました。
久米島で伯父を亡くした八重瀬町に住む崎原真弓さん(56)は息子や娘を連れて「平和の礎」を訪れました。
崎原さんは「母は戦争のことについて語りませんでしたが、一度だけ平和の礎に来ました。ことし3月に母が他界したので、お兄さんに母のことを報告するために来ました。二度と人間の心を破壊するような戦争を繰り返してはいけません。子どもたちには自分の家族ができた時に『命どぅ宝』と伝えてほしいです」と話していました。
娘とともに平和の礎を訪れた宮古島で沖縄戦を体験した宜野湾市の88歳の女性は「おじを亡くしましたが、どのように亡くなったかは分かりません。戦争中は家族でごうの中で過ごしていて、ゴローン、ゴローンと艦砲射撃の音がして怖かったです。今は平和でうれしいです」と話していました。
祖父やおじなど3人を亡くした八重瀬町の67歳の女性は「3人とも沖縄本島南部で亡くなっているとは思いますが、遺骨も見つかっておらず、詳細な場所は分かっていません。きょうは『これからも見守ってください』と声をかけました。子どもたちに、この平和を語り継いでいきたい」と話していました。
父親と姉を亡くした那覇市の81歳の男性は「姉は私の目の前で艦砲射撃の破片で亡くなり、父は防衛隊にいて、どこで亡くなったのか分かっていません。新型コロナウイルスのことはあるが、年に1回は父と姉に線香をあげたいという気持ちで来ました。『これからも私たち家族を見守っていてください』と伝えました。戦争中は、ひもじい思いをしたので、孫たちには食べ物の大切さを伝えています。これからも平和が続くことを願っています」と話していました。
沖縄戦で父親を亡くした浦添市の78歳の男性は、妻とともに平和の礎を訪れました。
男性は「父親はごうのなかで亡くなりました。父の写真は無く面影はありませんが、『家族は頑張っているよ』と報告しました。戦争は絶対にやってはいけず、ずっと平和で過ごしていけたらいいなと思います」と話していました。
沖縄戦で父親や弟を亡くした80代の男性は妻とともに平和の礎を訪れました。
男性は「私は糸満で生まれ、戦争もここで体験しました。きょうはとにかく平和で幸せになるよう見守っていてくださいとお祈りしました」と話していました。
兄を沖縄戦で亡くし、みずからは那覇市など県内各地がアメリカ軍からの空襲を受けた「10・10空襲」を体験した那覇市の桑江常輝さん(91)は高校生の孫など家族を連れて平和の礎を訪れました。
桑江さんは「10・10空襲の際は家族で北部に避難しました。生まれも育ちも那覇でしたが、空襲で家などすべてなくなり、着の身着のままでした。孫たちには日頃、戦争というものがいかに人類をおかしくするものか、戦争はやってはいけないことということを教えているつもりです」と話していました。
高校2年の孫の野原もなさんは「今の暮らしは恵まれていて、戦争当時はどれだけ大変な状況だったのか実感できました。後輩にも戦争は二度としてはいけないと伝えていきたい」と話していました。
当時42歳だった父親を亡くした84歳の南城市の女性は「父の姿や顔ははっきり覚えていませんし、遺骨もないので、お墓には探してきた石ころを入れるしかありませんでした。父を奪った戦争はいやです。二度と戦争を起こさないようにしてほしいと若い世代にお願いしたいです」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010609.html
「魂魄の塔」遺族などが祈り
06月23日 11時06分
糸満市米須にある「魂魄の塔」は、身元が分からないまま放置されていたおよそ3万5000人の遺骨を集め、昭和21年に県内で最初に建てられた慰霊塔です。
23日は朝から遺族などが訪れ、祈りをささげています。
豊見城市から来た比嘉千代子さん(75)は「夫の両親が弾に当たってこのあたりで亡くなったとされていますが、遺骨はいまだに見つかっておらず、毎年、慰霊の日には必ず魂魄の塔に来ています。ことしは新型コロナウイルスの心配もありましたが、いてもたってもいられず来ました。二度と戦争は起きないでほしい」と話していました。
沖縄戦で旧日本軍に召集された父を亡くした70代の男性は、魂魄の塔を訪れ手を合わせていました。
男性は「父は首里にあったごうの入り口を守っていたところ、弾が当たり、亡くなりました。遺骨が見つかっておらずこちらで眠っているかもしれないということで来ています。沖縄が平和であってほしいと願うばかりです」と話していました。
沖縄戦で父を亡くした豊見城市の比嘉徹さん(76)は「父は教員で、中学生を引率してこのあたりのごうにとどまり、爆弾を投げ込まれて亡くなったと聞いています。私は母などと大分県に疎開していて、戦後、ごうに遺骨を探しに来ましたが、見つかりませんでした。母も7年前に亡くなったので天国で父と母が楽しく暮らせるようにと祈りました。私自身は戦争の記憶はありませんが、戦後の苦しい時代を経験しているので、子どもたちが同じような思いをしないよう、いつまでも今のような平和な時代が続くようにと願ってやみません」と話していました。
父と兄を亡くした那覇市の78歳の男性は「父も兄も旧日本軍に召集され、南部の方で亡くなっただろうということで、毎年、魂魄の塔に来ています。家族はみんな元気で頑張っているから心配しないでねと祈りをささげました。戦争は怖いもので、もう二度とあってはならないと思います」と話していました。
父を亡くした宜野湾市の知念康子さん(82)は、14歳の孫の久場碧葉さんと魂魄の塔を訪れ、手を合わせていました。
知念さんは「父は防衛隊として戦場に駆り出され、夜に水をくみに行った際に足に弾が当たり、亡くなったそうです。私は当時7歳で、母やきょうだいと大宜味村の山の中を逃げ回っていました。とにかくおなかがすいて怖かったのを覚えています。今は子どもや孫に囲まれ幸せなので心配しないでほしいと父に語りかけました。平和な世の中が続いてほしいです」と話していました。
久場碧葉さんは「戦争を経験していないのでおばあちゃんが経験した苦しみは完全にはわかりませんが、おばあちゃんの気持ちを少しでもくみ取って語り継いで、みんなが笑顔でいられるような平和な世の中をつくっていきたいです」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010608.html
沖縄戦75年「慰霊の日」
06月23日 07時24分
沖縄は23日、20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から75年の「慰霊の日」を迎えました。
新型コロナウイルスの影響で例年どおりの追悼が難しい状況ですが、最後の激戦地となった糸満市の平和祈念公園には、朝早くから遺族などが訪れ、戦没者を悼み、平和への祈りをささげています。
75年前の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が犠牲になり、沖縄県民の4人に1人が命を落としました。
沖縄県は旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」としています。
最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園には、朝早くから遺族などが訪れ、戦没者の名前が刻まれた「平和の礎」の前で花を手向けたり、手を合わせたりしています。
祖父とおじを沖縄戦で亡くした豊見城市の65歳の男性は「2人はどこで亡くなったのかも分かりません。両親も教えてくれませんでした。慰霊の日は子や孫に引き継いで、過去のことを忘れないためにも大切なことだと思う」と話していました。
平和祈念公園では、正午前から戦没者追悼式が予定されていますが、ことしは、新型コロナウイルスの影響でこれまで5000人規模だった参列者を200人程度に減らして行われます。
県内各地ではこれまでに慰霊祭や平和学習が中止になるケースもあり、例年にも増して戦争の記憶の継承が難しい状況となっています。
一方、戦後造られた在日アメリカ軍の専用施設のおよそ7割が今も沖縄に集中しているうえ、アメリカ軍普天間基地の名護市辺野古への移設をめぐり政府と移設に反対する沖縄県の対立は続いたまま、埋め立てが進められています。
沖縄戦から75年のことしの「慰霊の日」は平和への誓いを新たにする一方、沖縄の重い基地負担を問い直す日でもあります。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010599.html
体験者からの戦争記憶継承難しく
06月23日 05時44分
沖縄県内の高校生を対象にした平和教育に関するアンケート調査で「家族や親族で沖縄戦について話してくれる人がいるか」との問いに「いない」と回答したのが52.2%となりました。
10年前と比べ17ポイント以上も増えていて、体験者からの戦争の記憶の継承が年々、難しくなっている現状が浮き彫りとなりました。
このアンケート調査は、歴史の教師などでつくるグループが25年前から5年に1度行っていて、今回は、去年11月からことし3月にかけて沖縄県内の高校2年生1653人から回答を得ました。
その結果、沖縄戦を学ぶことについて95.5%の生徒が「とても大切」あるいは「大切なことである」と回答し、調査開始以降、最も多くなりました。
一方、「家族や親族で沖縄戦について話してくれる人がいるか」との問いに「いない」と回答したのが52.2%、「いる」と回答したのが30.3%となりました。
この質問が初めて行われた10年前と比べ、「いない」は17ポイント以上増えて、「いる」が10ポイント以上減る結果となり、高齢化が進んで戦争の語り部が少なくなっている現状がわかります。
アンケート調査を行った沖縄歴史教育研究会は「沖縄戦の記憶の継承が家庭でできなくなっているのはやむをえない事実だ。追体験ができる地域の戦争遺跡を活用しながら、いま健在の体験者とともに悲惨な沖縄戦の実相を伝えていく方法を考えていかなければいけない」としています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010601.html
戦争遺跡5分の1現存確認できず
06月23日 05時44分
75年前の沖縄戦で住民が避難したガマと呼ばれる洞窟や、旧日本軍によって造られた壕などの戦争遺跡のおよそ5分の1で現存が確認できないことがわかりました。
専門家は「文化財指定を含めて保存・活用の議論を進めるべきだ」としています。
県内では各地に沖縄戦の激しい地上戦の痕跡をとどめる戦争遺跡、戦跡があります。
NHKが今月、沖縄県内の41全市町村に聞き取り取材をしたところ、県内で少なくとも1563の戦跡があり、このうちおよそ5分の1にあたる296の現存が確認できなくなっていることがわかりました。
現存が確認できなくなったものでは宅地造成や道路建設などでやむなく壊されたり埋没したりしたほか、過去に戦争体験者が存在について証言したものの今は不明になっているケースがあるということです。
また、複数の自治体は「最近、調査をしていないためわからない」などと回答し、現存が確認できない戦跡はさらに多くなるものとみられます。
沖縄の戦跡に詳しい沖縄国際大学元教授の吉浜忍さんは「沖縄戦の記憶を継承するために過去に調査した戦跡が現在、どうなっているのか改めて調べ、大切な戦跡は保存・活用に向け、行政による文化財指定を含めて議論しなければならない」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010600.html
野戦病院跡の碑で小学生が追悼
06月22日 15時55分
23日の「慰霊の日」を前に、石垣市の野戦病院跡に建てられた慰霊碑の前で地元の小学生たちが犠牲者を追悼しました。
石垣市平得にある「暁之塔」は、旧日本軍の野戦病院があった場所に建てられていて、戦時中、野戦病院に収容されたものの、亡くなった日本兵と動員された女子生徒合わせて11人の名前が刻まれています。
毎年、慰霊の日の前に、石垣市字大浜の石垣市立川原小学校の児童20人ほどで「暁之塔」の清掃を行って犠牲者を追悼していますが、ことしは新型コロナウイルスの感染を防ぐため、各学年の代表児童6人で追悼しました。
はじめに全員で黙とうしたあと、児童の代表と先生が平和を願うメッセージが書かれた折り鶴と花を手向けました。
そして全員で慰霊のことばを述べるなどして、平和への誓いを新たにしていました。
6年生の児童は「もう二度と戦争を起こさないために、自分から行動したいと思いました」と話していました。
3年生の児童は「二度と戦争が起こらないように平和を願うために参加しました。友だちとはけんかをしないようにしたいです」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200622/5090010595.html
「平和の詩」朗読の高校生が抱負
06月19日 17時54分
今月23日の「慰霊の日」に行われる戦没者追悼式で「平和の詩」を朗読する首里高校3年の高良朱香音さんが首里高校で記者会見し、「戦争体験を語り継いできた人たちへの感謝と平和への思いを伝えたい」と抱負を述べました。
慰霊の日に糸満市の平和祈念公園で行われる戦没者追悼式では、毎年、県内の学校からあった応募の中から選ばれた詩が「平和の詩」として朗読されていて、ことしは那覇市の首里高校3年、高良朱香音さんの「あなたがあの時」が選ばれました。
高良さんの詩は、小学校の時に経験した平和学習の場面に触れながら「あなたがあの時勇気を振り絞って語ってくれたおかげで私たちは知った」と、体験を語り継いできた人たちへの感謝の気持ちと、平和な世界を受け継いでいく決意がつづられています。
19日、学校で記者会見をした高良さんは「戦争を生き延び、体験を語り継いできた人への感謝の思いを込めて詩を書きました。平和への思いとともに伝えられるよう頑張りたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200619/5090010567.html
ひめゆり平和講演 分散して開催
06月19日 11時52分
沖縄戦の体験を子どもたちに伝えようと、那覇市の小学校で「ひめゆり学徒隊」の体験を語り継ぐ講演会が、ことしは新型コロナウイルス対策として児童らの密集を避けた形で開かれました。
那覇市の識名小学校では、これまで全校児童を集めて平和講演会を開いてきましたが、19日は、新型コロナウイルス対策として中学年以上に絞ったうえで2回に分けるなどして開催しました。
講演会では、75年前の沖縄戦で多くが犠牲になった「ひめゆり学徒隊」の資料館で学芸員をしている前泊克美さんが講師を務め、元学徒が当時の体験を語った動画を子どもたちに紹介しました。
この中で、元学徒が、爆弾が直撃して助かる見込みのない友人を壕に残してきた自分を責め続けていることを説明しました。
そのうえで、前泊さんは「戦争について知ることが戦争を起こさないことにつながります」と話し、沖縄戦を世代を超えて語り継いでいく大切さを子どもたちに伝えていました。
参加した6年生の女子児童は「戦後も苦しんでいる元学徒のことを知り、そうした悲しみをもたらす戦争は絶対にしてはいけないと思いました」と話していました。
講師を務めた前泊克美さんは「2回連続の講話は大変でしたが、授業時間の確保が難しい中、平和学習を開催し、そこに招いてくれたことに感謝しています」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200619/5090010559.html
「全学徒隊の碑」で元学徒が追悼
06月18日 17時59分
沖縄戦などの戦没者を追悼する今月23日の「慰霊の日」を前に、沖縄戦で犠牲となった学徒らの追悼式が18日開かれ、参加した元学徒などが若くして命を奪われた仲間らの霊を慰めました。
75年前の沖縄戦では、県内21の学校からおよそ2000人が動員されてその半数近くが命を落とし、糸満市摩文仁の平和祈念公園には、学徒隊について伝える「全学徒隊の碑」が設置されています。
この碑の前で、18日、沖縄戦で犠牲となった学徒らの追悼式が開かれ、はじめに参加した元学徒などおよそ20人が犠牲者に黙とうをささげました。
そして、献花台に花束を供え、若くして命を奪われた仲間らの霊を慰めました。
この後、元学徒を代表して與座章健さんが平和宣言を読み上げ、「再び戦争の無い平和な島を築くために努力して欲しい」と若い世代に呼びかけました。
参加した元女子学徒の中山きくさんは「碑が残ることで私の思いは伝わると思う。若い人たちには戦争があった場所などを訪れて学んで欲しい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200618/5090010551.html
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