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2020年05月21日00:39

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夢を生きる

 こんな夢をみた。

 知らない内に、カルチャースクールの「遺跡・史跡」の講師になっていた。私は確かに、世界の遺跡に興味があるが、講師になるほど詳しいわけではない。しかも、もう30分もすると講座が始まるので、役目上やらなくてはならぬ。講座用の資料に目を通そうと思ったら、事務局から何も渡されていないことに気がついた。講師控室から、ちょっとのぞいてみると、この講座は大変な人気で、受講希望者があとを絶たず、受付は大変なことになっている。そんな、人を押しのけてでも聞きたいと思えるほど、私の授業に価値があるとも思えぬ。それにしても資料がない。私は、受付を済ませた受講生に、「ちょっと資料を見せてくれませんか」とお願いし、コピーさせてもらった。講師が受講生に、資料を貸してもらう。そんなおかしな話があるものか・・・・

 「こんな夢を見た」と、「夢十夜」の出だしで、私が先日見た夢を夏目漱石風に書いてみました。講義の内容を覚えていないところをみると、幸い始まる前に目が覚めたのでしょう(笑)。


 それにしても夢というのは不思議なものですね。人間は寝ている間に、夢の中で、世界中を自由に訪れたり、もう亡くなった方と話をしたり、また、新しいインスピテーションを得たり、人生の岐路において夢の中でお告げが与えられる。そういうこともあります。医学的に、なぜ夢を見るのかというのは、完全には解明されてはないのだそうです。

 夢というのは寝ている間に魂が肉体を抜け出し、霊界を遊んでいる姿そのものだという方もいらっしゃいます。先ほどの、私の夢もそうですが、夢の中では奇想天外なことが起こりますが、それは霊界の特長そのものです。
特に、空を飛ぶ夢、追いかけられている夢など、空間を移動している夢は、間違いなく「霊夢」であることが多いようです。シャガールの絵には、人が飛んでいる様子を描いたものが結構ありますが、彼は本人が知ってか知らずか霊能力者だったと言われています。寝ている間に、自らの魂が肉体を抜け出して、霊界を遊んだ記憶が、あのような絵となって現れているのでしょう。

 世の中には、この一説を更に応用して、「夢」を自由自在に利用している人もいらっしゃいます。寝る前に自分の悩んでいることを、頭に思い浮かべて、「この問題を解決させたまえ」と念じてから寝るのです。すると、夢の中で様々なお告げを受けるような形で、何らかの答えが与えられるのです。
 答えてくれるのは、必ずしも神様、仏さまではなく、学校の先生だったり、あるいは両親、友人がでてきて指針を与えてくれたり、いろいろなパターンがあります。
私も、これをよくやるのですが、毎回とはいいませんが、かなりの確率で、何らかの答えをいただいています。

この夢の指導を、うまく使いこなして大をなしたのが、鎌倉時代の僧侶であった明恵(みょうえ)という方です。

明恵は、九歳のときに京都の神護寺に入り、一生懸命修行をします。そして、12歳になったとき、彼は山をおりて更なる修行の場を求めようとしました。ところが、下山を決行しようとした前の日の晩、明恵は夢を見ました。

 明恵が山を下りていくと、路に大蛇が横たわっているのです。明恵の姿に気がつくと、大蛇は鎌首を持ち上げて向かってきました。肝をつぶした明恵のもとに、八幡大菩薩の御使いの大きなハチが飛んできて「汝、この山を去るべからず。その時期にあらず。」と明恵に告げたのです。

 目をさました明恵は、これはまだ山にいなさいという、仏のお導き、と感じいり、山を出るのを中止しました。

 時が過ぎ、明恵は立派な青年僧に成長し、熱心に教学に励んでいました。明恵の学才は群を抜いており、彼の質問には先輩はもちろん、長老でさえも答えられる者がいなくなっていました。解決できない疑問点にすっきりしない明恵でしたが、ある晩に夢を見ました。
 
 夢の中に、金色に輝くインドの僧侶が出てきました。僧は明恵に言いました。「お前は、この点について疑問を持っているであろう。それは、こういうことなのだ・・・」と、明恵が疑問に思っていたことを、すらすらと説明してくれたのです。
 この僧は、明恵の一生を通じて彼の夢に現れ、彼を諭し、導きました。そして、更に圧巻なことは、明恵が24歳になったときのことでした。

 青年明恵は、釈迦を慕うこと両親のごとく、仏道に励んでいました。けれども、純粋に仏の道を求める明恵にとって我慢ならなかったことは、世俗の生活にどっぷりと浸かった高位高官の僧侶たちの姿でありました。
 本来、僧侶の剃髪や染衣は、俗世間から身を離し、清らかな心を保つためのものだったのですが、当時の僧侶たちは、競ってきらびやかな僧衣をまとい、お金にまみれ、権力におもねり、女性問題も多数と、俗人以上に俗世にまみれ、明恵が、その著書「行状」の中で、「怒りも重なって火も吹かんばかり」と憤るほど、当時の僧侶のモラルはひどかったと言います。

 剃髪や染衣の意味が失われているならば、自分は何らかの違う形で自分の姿を変え、「俗世から離れて、真の仏道に生きる決意」を世に示したい。明恵は、そう考えました。
 しかし、目をつぶしてはお経が読めなくなる。鼻をそいでは鼻水がたれて経典を汚す。手がなくなれば印を結ぶことができない。耳を切れば・・不自由はないので耳をきることを決意します。そこで、明恵は母を知らぬ彼が、母親のように慕っていた、女性のような如来さまの掛け軸の前で、右の耳を切ってしまうのです。血しぶきが飛び、掛け軸にも明恵の血潮が飛び散りました。
 
 明恵が、その前で自分の右耳を切った、如来さまの掛け軸の実物を、私はみたことがあります。それは、縦2メートル近い大型画面いっぱいに描かれた、全身白色の如来像で、明恵が母のように慕ったというだけあって、すべてをいつくしむ女性的な慈愛に満ちた微笑みをたたえる、そのお姿は「仏眼仏母(ぶつげんぶつも)」と言われています。
 掛け軸の右端には明恵の書き込みがありました。

   もろともに あわれとおぼせ 御仏よ
   きみよりほかに しるひともなし

母とも頼む「仏眼仏母」の如来の前で、明恵は万感の思いで、その行為を行ったのでありましょう。その夜、明恵はまた夢を見ました。

 再びインドの僧が現れて明恵に言いました。「私は、頭、目、手足などを仏のために惜しまずに捧げたことを記録する者である。このたび、仏のために身命を捨て、耳を切って如来に供養したことを私は記し、留めておく。」と言って大きな帳面に書きこんだのです。
 耳を切ってまで、自分の仏への純粋な思いを伝えようとした明恵の心を、母なる如来が認めた瞬間でした。


 明恵は、なんと19歳から60歳まで、40年間もの自分が見た夢を「夢記(ゆめのき)」として書き留め、今でもそれが現存しています。
 後の世の人に「夢を生きる」と言われたほど明恵は、夢の内容を考え、そのことが自分に何を教えているのかを悟り、それを自らの人生に生かしていった人でした。そして、その夢に対する態度は、生涯にわたって、変わることはなかったのです。
 
 たかが夢、されど夢。
 私たちも、様々な夢の中で人生の糧を見つけていくような、そんな生き方をしたいものですね。


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