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2020年05月17日22:24

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継ぐのは誰か? 志村けん×沢田研二

■沢田研二が志村けんさん代役で14年ぶり映画主演
(日刊スポーツ - 2020年05月16日 05:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=6083941

■沢田研二が志村けんさんの「最高の代役」と言われる理由
(web女性自身 - 2020年05月17日 11:02)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=145&from=diary&id=6085062

 最近、Twitterまとめに「『ニセモノが、演じていくうちに「ホンモノ」になっていく物語』いろいろ」ってスレッドが立って、『水戸黄門』に始まって、『仮面ライダー』『ポストマン』『サボテンブラザース』『ギャラクシークエスト』『天使にラブソングを』なんかが紹介されていた。
 山田洋次監督『キネマの神様』に主演するはずだった志村けんの代役が沢田研二になったというのも、かつて「鏡のコント」で志村けんの「ニセモノ」を演じていた沢田研二がホンモノに「昇格」したっていうことで「最高の代役」と言われているようである。



 記事中にも、「ブレイクの時期が重なる2人は当時、風貌も似ていると話題でした。それを活かし、沢田さんが志村さんの鏡に写された姿を演じるというコントもありました」と説明されているが、それが「最高の代役」とされる理由だとしたら、根拠としては「弱い」のではないか。
 ジュリーがスターになったのは1960年代後半、ザ・タイガース時代からだし、ソロになって『危険なふたり』でオリコン1位の大ヒットを飛ばしたのは1973年、志村けんが東村山音頭でブレイクしたのは1976年だから、実際には沢田研二の方が大先輩だった。年齢も沢田研二の方が二歳ほど年上である。
 件の「鏡コント」が『ドリフ大爆笑』などで演じられるようになった1970年代後半は、まさしく沢田研二の絶頂期で、まさかこんなふざけた役をジュリーにやらせるとは! と、その驚きが爆笑を呼んでいたのだ。ジュリーファンの女性に「鏡コントのジュリーっていいよね」と言ったら苦虫を潰したような顔をされたから、必ずしも喜んでいたファンばかりではなかったのである。
 冴えない顔立ちの志村に対して、凜々しいイケメンの沢田とでは、明らかに「風貌のギャップ」があるにも関わらず、「鏡だからソックリ」だってムリヤリなギャグ、それがナンセンスな笑いを生んでいたのである。だから、記事にあるような「風貌も似ていると話題」になってたということはない。せいぜい「似ているように思えなくもない」程度だろう。
 二人を持ち上げてヨイショするために、名も知れぬ「芸能関係者」の談話として紹介しているが、本当に「最高の代役」であると言いたいのであれば、二人の「演技力」について言及すべきではないのか。

 正直なことを言えば、志村けんの代役を沢田研二が務められるかどうかは、「完成した映画を観てみなければ分からない」。

 まず、志村けんの「シリアスな演技」については、『鉄道員(ぽっぽや)』『エール』くらいしかないが、喜劇役者から性格俳優に転向していった森繁久弥や伴淳三郎を彷彿とさせるものがあった。ご本人が自身をあくまで「コメディアン(&ミュージシャン)」と規定していたが故に出演作は少ないが、決して演技力に自信がなかったわけではないことが分かる。舞台では松竹新喜劇の再演に挑んでいたのだから、しっかり演技力の裏打ちはあったのだ。

 対して、俳優としても出演作が多い沢田だけれども、そんなに巧い役者だという印象はない。ただ、「鏡コント」でも分かるとおり、沢田研二は決して「スター」の地位にあぐらを掻いてふんぞり返っている人ではない。例のコンサートドタキャンの件で、傲慢だなんだと叩かれはしたが(私も中止にまですることはないと思ったが)、基本的には、「自分に求められた役には真摯に取り組む」俳優である。たとえ「スター」のイメージを損ないかねない役でも、納得ずくで演じてきた経緯がある。危険思想を持ってはいても本質的には臆病な小心者も、放蕩無頼だが腺病質な芸術家も、優柔不断で権威のない父親も、何の衒いもなく演じてきた。それは沢田研二の強みであると思う。

 俳優変更があると、どうしても「最初のキャスティングだったら」と「if」で物事を判断したくなるものだが(『影武者』が勝新太郎だったらとか『ゴーストバスターズ』がジョン・ベルーシだったらとか)、同時にその想像がいかに詮無いことかも実感せざるを得ない。「最高の代役」という感想は、比較すべきでない両者を比較してしまっている点ではそうした「もしあの人だったら」という「ないものねだり」と大して違いはない。映画単体としての評価を初めから否定してしまっているのだ。
 『キネマの神様』は初めから沢田研二主演作として観た方が余計な偏見を差し挟まずに観られるのではないかと思う。

 ネットでは、この鏡のコントについて、志村けんをディスりたいのか、元ネタがあるぞと訳知り顔で紹介しているTweetが散見している。
 ドリフや志村けんのギャグはハリウッド・コメディにいくらでも元ネタを発見することが出来るし、そんなことは今までにも散々指摘されてきたことだから、何を今さらそんなことでマウント取ろうとしてるのかと首を傾げてしまう。

 みなさんが紹介しているのは、マルクス兄弟『吾輩はカモである』(1933年)のこのシーン。
 姿見をうっかり割ってしまったハーポが、グルーチョの真似をして「鏡のふりをする」。マルクス兄弟は、素顔はみんなソックリなので、差別化を図るためにグルーチョは眉毛にヒゲメイクをしていた。そこでハーポがグルーチョと同じメイクをするとやっぱりソックリになってしまうというギャグである。



 このギャグは大いに受けたので、TV『アイ・ラブ・ルーシー』(1955年)で、ルシル・ボールがハーポ・マルクスをゲストに招いて、鏡のコントを披露した。志村けんが真似をしたのは、こちらのバージョンではないか。ギャグのディテールはこちらの方が似ているのである。



 しかし、この「割れた鏡のコント」はマルクス兄弟がオリジナルではなく、さらに元ネタがあることが知られている。
 マックス・ランデー主演のサイレント喜劇『ライオンと征服将軍(『七年の不運』)』(1921年)だ。



 ではオリジナルはこれか、と断言することはできない。当時の喜劇は舞台で演じられたものを映画化するケースが多く、ランデー以外でも、鏡のコントを舞台で演じていたヴォードビリアンがいた可能性を否定できないのである。『ライオンと制服将軍』の段階で、ディテールはかなり洗練されているし、さらに元ネタがあった可能性はあると思うが、そこまでの調査は困難であるし、オリジナルが分かったからと言って、後続の喜劇役者たちがパクり野郎だということにもならない。

 ギャグとは、ある特定のコメディアンの専売特許ではなく、笑いの伝統として継続されてしかるべきものなのだ。
 ドリフと志村けんのギャグの多くは元ネタがあると先述した。マルクス兄弟以外にも、バスター・キートン、チャーリー・チャップリン、ハロルド・ロイド、ハリー・ラングドン、ローレル&ハーディー、アボット&コステロ、マーティン&ルイス、彼らの映画からインスパイアされたギャグが、これでもかというくらいに炸裂していたのが往年の『8時だヨ! 全員集合』だった。
 何が凄いかって、それを毎週「生中継」していたことである。ギャグの中には、倒壊した建物の中に、志村さんが一人、キョトンとして立っている、なんてのもあったから、マジで志村さんは身体を張って、命を懸けてコントに臨んでいたのだ。到底、先達の真似すればいいやって安易な気持ちで出来ることではない。

 映画が古くなれば、それらのギャグを人々が目にする機会も少なくなる。志村さんがやってきたこと、そしてこれからもやろうとしていたことは、ギャグの「歴史」を作ることだった。コントの歴史を途絶えさせないことだった。過去作と比較するなら、そのことも指摘しておかなければウソだろう。
 今、ハリウッド・コメディの数々を現代にリメイクしているコメディアンがどれだけいるか。そこから新しい笑いを生み出している芸人がどれだけいるのか。そう考えると、志村さんを失ったことは、あまりにも大きすぎる損失だったと嘆息せざるを得ないのである。

 沢田さん、どうせならコンサートの合間でもいいから「鏡のコント」も復活させてくれないかな。相方は「似てない人」でもいいんだよ。女性ゲストでもいいし、研ナオコさんとやってくれたら、多分、笑いと涙とで顔がぐしゃぐしゃになっちゃうと思う(背丈が合わないと思うから、研さんにはシークレットブーツを履いてもらって)。
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