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2020年05月13日17:46

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◆豊臣秀吉最後の城、幻の「京都新城」

◆豊臣秀吉最後の城、幻の「京都新城」跡が京都仙洞御所から初出土 石垣や金箔瓦も
https://www.sankei.com/west/news/200512/wst2005120015-n1.html
2020/5/12(火) 17:00配信  産経WEST
 豊臣秀吉が最晩年の16世紀末に築いた城郭「京都新城(しんじょう)」のものとみられる石垣の一部が京都御苑(京都市上京区)内の京都仙洞御所から出土したと12日、市埋蔵文化財研究所が発表した。秀吉が生涯最後に築いた城として知られるが、正式名もなく、関連遺構が出土したのは今回が初めて。同研究所は「実態解明に向けて、ようやく定点を得た」と評価している。
 同城は慶長2(1597)年、御所の南東に、東西400メートル、南北800メートルにわたって築かれたとされている。秀吉の死後は正室、高台院(北政所)の屋敷となり、高台院が寛永元(1624)年に亡くなると徳川幕府が解体、同所に後水尾上皇の仙洞御所を造営した。
 今回、消火設備の設置に伴い、仙洞御所の一部125平方メートルを調査したところ、石垣が南北8メートルにわたり出土した。加工していない石を積み上げる野面(のづら)積みと呼ばれる工法で3、4段積まれた石垣の周辺からは、豊臣家の家紋「桐」などが入った大量の金箔瓦(きんぱくがわら)の破片が出土した。
 調査の結果、石垣は京都新城の堀の一部だったと断定。金箔瓦の出土量から城を囲う堀の西側の側壁とみられる。堀の幅が推定20メートルになることも確認された。
 日本の城郭に詳しい中井均・滋賀県立大教授(日本考古学)は「単なる屋敷か本格的な城なのかもわからなかったが大規模な堀と天守を持つ城の可能性が高いことがわかった。高松塚古墳級の発見ではないか」としている。
・滋賀県立大の中井均教授(日本城郭史)の話
書き残された文献が少ない幻の城だけに、発掘調査で立地を確定的にできた意義は大きい。まだ片りんが見えたにすぎないが、豊臣秀吉が平安宮跡でかつて築いた関白の城「聚楽第(じゅらくてい)」に匹敵する規模や構造だった可能性がある。息子・秀頼への後継に向け、新城を藤原道長の土御門第跡にあえて築き、関白に就く豊臣家の家柄や権勢を象徴的に示そうとしたのではないか。
 
◆ 秀吉の幻の城「京都新城」って、知らなかった。
って言うか、聞いたこともなかった。
そんなのあったんだ。
文献も少なく、まだ発掘も始まったばっかり
これから色々出てきて、色々な事が分かってくると
もしかして歴史が変わるかもね。
教科書の中身も変わるかも。
  
都市がアップデートされていく過程が辿れるのって面白いですね。
地下鉄を掘る時は掘るたびに遺跡で大変だったと聞きます。
  
戦国小説を読んでいた時に金の装飾で絢爛豪華なこの城のことが書かれていて、その金ピカの茶室に要人を招いて持て成す秀吉を記憶しているが、本当にあったとは。
財力、資力を見せつける為のものだったのでしょう。
この他にも秀吉の土木工事力の凄さを感じさせる逸話はいろいろあり、やはりスケールの大きな人だったんだな、と思います。
 
◆全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/
4/15(水) 15:07配信  nippon.com  河合 敦
前回の織田信長に続き、今回は豊臣秀吉に焦点を当てる。主君信長のあだを奉じ16世紀末、ついに全国統一を実現した秀吉は、度量衡を統一し、全国に役人を派遣して土地の生産力を石高(米の生産量)で算出、税収の安定徴収化を図った。また、農民から武器を取り上げ農耕に専念させることで一揆を防ぎ、武士と農民の身分を明確にするなど、戦国の世の中から安定した社会を築くために構造改革を行った。
 
◆秀吉最後の城、京都で見つかる 「今世紀最大の発見」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9f8b064a4253d7676011c68e643072d76b7abf5b
2020/5/12(火) 17:00配信  朝日新聞デジタル
 豊臣秀吉が死去する前年の慶長2(1597)年に築いた「京都新城(しんじょう)」の遺構とされる石垣と堀の跡が初めて、京都御苑(京都市)の一角で見つかった。京都市埋蔵文化財研究所が12日発表した。新城に関する史料はほとんどなく、どのような建物だったかを示す物証もなかったため、専門家は極めて貴重な発見だとしている。
 新城は、大坂城(大阪市)や聚楽第(じゅらくだい)(京都市)などの城を作った秀吉が最後に作ったとされる。
 当時の公家の日記などによると正式名称はなく、「太閤御屋敷」などと呼ばれていた。京都御所の南東にあり、屋敷の範囲に触れた日記の記述をもとにすると、敷地面積は甲子園球場約8個分にあたる約32ヘクタール。息子の秀頼が官位を授けられる際に滞在したほか、秀吉が1598年に死去した後は正室の北政所(きたのまんどころ)(高台院(こうだいいん))が利用した。敷地は徐々に縮小し、1624年に北政所が死去した後に完全に壊されたとされる。
 
◆京都新城 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/京都新城
京都新城(きょうとしんじょう)は、太閤豊臣秀吉が関白豊臣秀次の聚楽第を
破却した後、豊臣関白家の正式な邸宅として京都御所(禁裏)東南に
構えた豊臣秀頼のための城郭風邸宅である。
ただしその後は豊臣家から関白に任命された者はなく、秀頼が短期間利用した後は、
秀吉の正室である高台院(北政所)が隠居屋敷として用いたのみであった。
なお、「京都新城」は現代になってからの呼称であり、
当初は太閤御屋敷、
太閤御所、
太閤上京屋敷などと呼ばれており、
やがて新城、秀頼卿御城、京の城と呼ばれた。
しかしかつての「聚楽(第)」のような名はこの新第には与えられなかった。
 
◆聚楽第 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/聚楽第
聚楽第(じゅらくてい、じゅらくだい)は、安土桃山時代、
豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に
建てた政庁・邸宅・城郭。竣工後8年で取り壊されたため、不明な点が多い。
 
◆豊臣秀吉 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉
豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体:豐臣 秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。
初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。
皇胤説があり、諸系図に源氏や平氏を称したように書かれているが、
近衛家の猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を
賜姓されて本姓とした。





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