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2020年05月13日03:32

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忘れていた朝

「赤い鳥」は好きだった。代表曲は「翼をください」で音楽の教科書に出てからも久しい。いや、もうすでにそれも遠い過去の話かもしれない。ヤマハリゾート「合歓の里」のCMに起用された「忘れていた朝」のほうが好きだ。「忘れた朝を ふたり ここで見つけたよ」、歌詞が印象的だ。

世間が新型コロナウイルスに翻弄されていたせいかはわからないが、日記を書くことを忘れていた。70歳を超えた今、生存証明のための日記は本当に終活になってきている。息子にも「その時」が来たら困るから、必要なことを書き留めておくよう言われている。

この日記にはずいぶん本音を書いてきた。それでも誰にも知られたくないことは非公開設定にしている。それは数えるほどしかないが。この日記を書き始めたころには、妻の病状からくるストレス解消の場にもした。今、妻は施設に入所し、記憶障害も「得て」夫婦の間柄は平穏である。

彼女の妄想には大変な目にあった。他の人なら離婚しているかもしれない。冷静な判断をすればそのほうが良かったと思う。それ以前、難病患者なのに出産を選んだことも冷静な判断と言えないだろう。それ以前、難病患者と知りながら結婚に踏み切った。

私はあまりにも楽天的である。そのために結局は妻に苦労をかけ、障碍者に生まれた息子からも非難され、この年になっても胸がつぶれる思いを続けている。

今は母親が入院中だ。大正生まれの高齢で、今度の胆嚢炎にも耐えられるかわからない。母と妻と息子の3人が私の世話になっている形なので、私が急死したら大変だろう。私はとても元気である。今のところは。

父親は生前に言っていた。「よか人生じゃった」と。幼いころから口減らしに親戚の店に丁稚奉公に出され、戦争に翻弄されたが、母と見合い結婚。一人息子の私とむつまじく暮らした。私が社会人になった後は、いつでも私を支持し遠くから見守ってくれた。良い父親だった。

私はまだ良い父親になれていない。妻に対してはできる限り支えたつもりである。彼女の病気はかなりやっかいで、精神症状にはことに苦労した。われながらよく耐えたと思う。しかし、息子には十分目配りができなかった。そのことを言われるのが一番つらいことである。

私はもっと誰かに救いを求めるべきだったが、家族がそれを望まなかった。冷静に判断すればそれを押し切るべきであった。その結果作った借金の返済には最後までかかりそうである。

仮に3人を残して急逝したところで、後はどうにか処理されていくと思う。息子が自立できるのかが気がかりにはなるが。下半身まひ、母親が難病患者で施設入所。自分の立場であったらと思うと鬱にならないのがおかしいのかもしれない。

私がこれまで楽天的に生きてこれたのは、ひとえに音楽の力である。大変な生活を送る中でも、何かしら音楽にしがみついていたので生きてこれた。九州に戻ってからはバンド活動もできて、生活費もどうにか得られている。ほかに何も贅沢はできないが、歌って弾ける日々は私を元気にしてくれる。

曲を書く元気さえもある。今ここで命を絶たれても自身に不満はない。所詮、家族全員を幸せにするなどは望外のことだと思うようになってきている。私にそれほどの力はない。世の中の多くの人々もそうではないかと思う。

最後にやり残しているのは、「伝える」ことである。人はなぜ生きるのか、人生の意味とは何かと、よく言われたりするが、答えは無い。あるいは、答えは決まっていない。私が70年生きてきて感じているのは、なぜ人が生きているのかの意味はわからずとも、「人は何かを伝えるべきである」ということである。

私の息子はひとりだし、彼は40近い今でも自立できていない。息子は結婚できそうにないし、仮にできても子供が作れそうにない。私の「血」はたぶん途絶える。そのことは悲観していない。私は、必要であれば「伝える」ことで私のDNAのようなものを死後に残せると思っている。

そして、それこそが誰もがなすべきことではないかと思い始めている。だから、私は死ぬ日までに伝えるべき人に伝えておきたい。

「心のアルバムに 残した思い出 誰にも知られずに 物語は続く」・・最近書いた曲の歌詞。誰にも知られないままのほうが良いこともあるが、相手に知らせて自分の物語を誰かの物語に挿入したい。誰かの物語の劇中人物になって死後も生きられたら、私の「血」はそこに受け継がれる。

私に足りなかったのは伝えることであった。遅きに失したのだが、人生のラストスパート、伝えられるだけ伝える。

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