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2020年04月26日00:22

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4月26日の日記

今日の出来事:1489年−長享・延徳の乱(鈎の陣):足利義尚死去、1585年−油川城の戦い、1890年−日本で「商法」公布、1937年−スペイン内戦:ゲルニカ爆撃、非戦闘員2000人以上が死傷、1942年−満州国・本渓湖炭鉱で粉塵爆発、坑夫1549人が死亡、1986年−チェルノブイリ原子力発電所事故

今日は、長享・延徳の乱(鈎の陣):足利義尚死去です。「長享・延徳の乱」は、1487年(長享元年)と1491年(延徳3年)の2度、室町幕府が行った近江守護・六角高頼に対する親征です。「六角征伐」とも称されています。1度目の出陣は、近江国栗太郡鈎(まがり)に在陣したため、「鈎の陣」とも称されています。「応仁の乱」が終息した後、各地の「守護」や「国人」らが寺社領などを押領して勢力を拡大していきました。山名宗全が率いる西軍に属した近江守護・六角氏は、荘園や将軍・足利義尚の近臣の所領を押領するなど、反抗的態度を表していました。このため、室町幕府は威信回復を企図して、六角氏を討伐する事にしました。1487年(長享元年)、9代将軍・足利義尚は六角高頼を征伐するために奉公衆を中心とした軍を率いて、近江坂本へ出陣しました。管領・細川政元をはじめ、若狭守護・武田国信や加賀守護・富樫政親を近江に召集すると、六角高頼を攻撃しました。六角高頼は観音寺城を放棄して撤退しますが、甲賀郡の山間部でゲリラ戦を展開したため、戦闘は膠着状態に陥りました。翌年には、幕府が頼みとする富樫政親が「加賀一向一揆」の激化によって加賀へ帰還し、一揆勢に敗れて討たれました。さらに足利義尚は、本願寺や一揆勢を討伐する意向を示しましたが、六角氏討伐を理由とする細川政元から反対されて断念しました。足利義尚は側近・結城尚豊を近江守護に任命しました。一方、越前守護・朝倉貞景と美濃守護・土岐成頼は、一揆勢の次の標的とされる事を危惧して動きませんでした。朝倉貞景は自らは本国越前に留まりながらも、一門の朝倉景冬を近江坂本に派兵し、土岐成頼は美濃で挙兵しました。1489年4月26日、足利義尚が近江・鈎の陣中で死去しました。享年25でした。このため、六角討伐は中断となりました。側近であった結城尚豊は近江を出奔し、六角高頼は一時的に赦免されました。足利義尚の従弟・足利義材が第10代将軍となりました。足利義材は足利義尚の遺志を継ぎ、1491年(延徳3年)に細川政元の反対を押し切って六角高頼征伐を再開し、六角高頼に替えて細川政元を近江守護に任じました。「第二次六角征伐」では、斯波義寛、赤松政則の両軍が六角一族の山内政綱を討ち取りました。六角高頼は甲賀郡から伊勢国へ逃れました。細川政元に替えて六角虎千代を守護に任命して、近江から撤退しました。

次に、油川城の戦いです。南部氏支族の大浦為信(後の津軽為信)は、南部晴政に対して謀反を起こしました。石川城を攻めて、南部晴政の叔父・石川高信を自害に追い込みました。その後、城代・滝本重行の大光寺城を攻め落とし、浪岡城を攻めて浪岡御所・北畠顕村を自害させました。1582年に、南部氏最盛期を築いて「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われた南部晴政が没すると、南部家は後継者問題で分裂しました。当主を継いだ14歳の南部晴継は、父の葬儀を終わらせて三戸城に帰城する途上で、夜陰に乗じた暴漢に襲われて殺害されました。この暴漢は、家督を狙っていた石川信直が指揮していたと言う説があります。南部家家督は石川信直が相続し、南部信直となりました。南部信直は九戸氏へ津軽を侵蝕する大浦為信の討伐を命じました。しかし、南部晴政の次女が正室の弟・九戸実親を差し置いて、信直が当主に迎えられた事に不満を抱いた九戸政実は応じませんでした。そのため、津軽は大浦為信に切り取られていきました。1585年、大浦為信は外ヶ浜(東津軽郡)の攻略に乗り出し、油川城の奥瀬善九郎を攻撃しました。奥瀬善九郎は、北畠顕村の縁戚でした。大浦為信に急襲された奥瀬善九郎は、一戦も交えずに油川城を開城し、船で田名部へ落ち延びました。これを見た外ヶ浜の国衆は降伏しました。こうして、大浦為信は外ヶ浜一帯を制圧しました。

その次に、日本で「商法」公布です。江戸時代には幕府が、儒教的な重農抑商政策を進め、諸藩が自藩の産業保護を優先した事によって、商業の全国的な発展は抑え込まれました。会社形態の組織が生まれる事はなく、個人又は同族経営による商店のみが存在しました。そのため、商取引は商慣習に従って行われました。大坂などの大都市を中心に高度な為替システムが成立しました。明治に入ると、近代的な会社・企業組織などの考えが日本にも伝わりました。政府も欧米の巨大な資本に対抗するには、日本でも企業を起こす必要性があると考えました。そこで士農工商的な職業の制限を廃して、会社設立を容認する政策を採りました。しかし、会社の設立のルールが存在しなかったため、その組織形態もバラバラですぐに倒産する会社も少なくありませんでした。また、為替などに対する統一した基準と法的根拠を求める声も高まりました。そこで1881年4月、外務省嘱託でドイツの法学者で経済学者でもあったヘルマン・ロエスレルに、商法起草を依頼しました。彼はドイツの商法を基(破産法などはフランスによる)にした草案を完成させました。この草案を基にして成立したのが、旧商法と称される「商法」です。この商法は「商ノ通則」、「海商」、「破産」の3部で構成されています。その後、改定を重ねて現在は、「商法総則」、「会社法」、「商行為法」、「保険法」、「海商法」、「有価証券法」で構成されています。

その次の次に、スペイン内戦:ゲルニカ爆撃です。ドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」がスペインの町ゲルニカを無差別攻撃しました。この爆撃は、フランコ反乱軍によるバスク地方攻撃の一環として実施されました。フランコ反乱軍のモラ将軍は1937年3月末からゲルニカ地方の攻略にかかり、コンドル軍団(ドイツ空軍遠征隊)の爆撃隊がその支援として空襲を行いました。ゲルニカには共和国政府軍は存在しませんでしたが通信所などの軍事目標があり、バスク地方に展開する共和国軍の補給路の要として極めて戦略的価値の高い後方の要衝でした。しかし、この日の爆撃は都市そのものに対する無警告の恐怖爆撃となりました。これは都市と街路そのものを破壊し、共和国軍の移動、補給を妨げる目的を持っていました。また、この爆撃には3機のイタリア爆撃機が参加していました。4月26日、「ハインケル」、「ユンカース」などの爆撃機が相次いで来襲し、約3時間にわたって爆弾約200トンを投下し、機銃掃射を加えました。対空砲火の反撃を受けなかった爆撃隊は低空に降りて市街地に銃爆撃を加え、市に集まっていた住民や家畜を殺傷しました。この日殺害された市民は全住民7000人中1654人に上り、負傷者は899人と言われています。「ゲルニカ爆撃」が米、英、仏などの報道機関によって伝えられると、フランコ反乱軍を非難する声が世界的に巻き起こりました。この反響を危惧したフランコ将軍やコンドル軍団指揮官フォン・シュペルレらは「ゲルニカで都市を破壊し、子供や尼僧までを殺傷したのは、我々に敵対するバスク民族主義者やアナーキストの犯行である。ゲルニカ爆撃は捏造である」という謀略宣伝を行いました。その結果、相当数の人々がこの宣伝を信じる事になりました。現在ではドイツ爆撃隊(イタリア軍含む)による攻撃である事が確認されており、「ゲルニカ爆撃」は都市恐怖爆撃の先例とされています。都市は破壊されましたが、「ビスカヤ議会」と「オークの木」は生き残りました。パリ博覧会のため壁画を依頼されていたパブロ・ピカソが爆撃を知り、憤怒をこめて描きあげたものが、あの有名なピカソの代表作「ゲルニカ」です。この作品は大きな反響を呼び、爆撃に対して国際的な非難が浴びせられる事となりました。ピカソは共和国政府を支持しており、「ゲルニカ」の前身といえる銅版画「フランコの夢と嘘」も製作していました。この都市の象徴的な地位のために、現在のバスク自治憲章は、1936年の自治憲章の継承者であるバスク亡命政府の支持のもと、1978年12月29日にゲルニカで承認されました。現在のバスク自治州首相も「オークの木」の前で宣誓を行いました。

そのまた次に、満州国・本渓湖炭鉱で粉塵爆発です。本溪湖炭鉱は、満州国にあった40〜50万トン級の炭鉱です。現在の中国遼寧省本渓に位置します。大倉財閥の投資による日中合弁事業で、1905年に採掘が開始されました。1942年4月26日14時5分、鉱山内の可燃性ガスと石炭の粉塵による爆発が起こり、当日働いていた坑夫の34%にあたる1549人が死亡しました。現在に至るまで最も多くの犠牲者を出した炭鉱事故となっています。戦争後、ソ連により行われた捜査によると、死亡の主原因は爆発自体ではなく、直後に換気装置が閉じられてからの酸化炭素中毒でした。跡地には中国政府により「肉丘墳」が建てられました。

最後に、チェルノブイリ原子力発電所事故です。ソビエト連邦(現・ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故です。放射性降下物がウクライナ、ベラルーシ、ロシアなどを汚染した史上最悪の原子力事故とされています。当初、ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れ、この事故を内外に公表しませんでした。施設周辺住民の避難措置も取られなかったため、彼らは数日間、事実を知らぬまま通常の生活を送り、高線量の放射性物質を浴びて被曝しました。原発事故の発生に最初に気づいたのはスウェーデンです。翌4月27日にチェルノブイリ原発からおよそ1100kmにあるスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にて特定核種、高線量の放射性物質が検出されました。フィンランド政府からも同様の事例があったとスウェーデン政府が通報を受け、詳細に当時の気象や風向きなどから発生源の特定調査を行った結果、西ソ連ベラルーシ付近で大きな原子力災害が起こっている疑いが強まりました。これを追求されたソ連政府は自国で原発事故が発生した事を4月29日に公表し、事故が世界中に発覚しました。事故直後、消防士が消火活動のために到着しましたが、彼らは放射性物質による煙や残骸等がどれほど危険であるかを告げられていませんでした。火災は5時までには消火しましたが、その間に多くの消防士が高い放射線量に曝されました。大惨事の拡大を止めるために、ソ連政府は清掃作業にあたる労働者を現地に送り込みました。多くの「解体作業者」が清掃スタッフとして送り込まれましたが、大部分がその危険について何も知らされておらず、保護具は利用されませんでした。放射性の残骸のうち最悪のものは、原子炉の残骸の中に集められました。原子炉自身は事故の翌週にヘリコプターから投下された砂嚢(およそ5000t)で覆われました。コンクリート製の石棺が、原子炉とその中身を封じ込めるために早急に建てられました。ロシアの事故処理従事者86万人中5万5000人が、2000年までに死亡しています。正式発表されていない為、実人数は何十万とも言われています。石棺の耐用年数は30年と言われていますので、後2年です。現在は分離独立したウクライナに処理義務があります。この事故がソ連崩壊のきっかけの一つになりました。

今日の誕生日:ウィリアム・シェイクスピア、ルドルフ・ヘス、胡桃沢耕史、風間杜夫、大木こだま(大木こだま・ひびき)、新井宏昌、大橋純子、琴風豪規、高橋克也、有栖川有栖、ロジャー・テイラー(デュラン・デュラン)、西原俊次(元オメガトライブ)、河口純之助(元THE BLUE HEARTS)、島本和彦、栗山英樹、伊秩弘将、加藤浩次(極楽とんぼ)、田中直樹(ココリコ)、品川祐(品川庄司)、安田裕己団長(安田大サーカス)、綾小路翔(氣志團・DJ OZMA)、福留孝介、テソン(D−LITE・BIGBANG)、竹内涼真、光宗薫(元AKB48)、浜浦彩乃(こぶしファクトリー)、セイウンスカイ、ハットトリック

今日の記念日:世界知的所有権の日、リメンバー・チェルノブイリ・デー、よい風呂の日、オンライン麻雀の日

今日の「今日訓」:本日は、ゴールデンウィークの始まりの日です。1970年に「世界知的所有権機関を設立する条約」が発効し、「世界知的所有権機関」が発足した事で「世界知的所有権の日」、1986年に「チェルノブイリ原子力発電所事故」が起こった事で「リメンバー・チェルノブイリ・デー 」、「よい(4)ふ(2)ろ(6)」の語呂合わせで「よい風呂の日」、「4人(4)でつる(26)む」、「for(4)ツモ(26)」、「四副露(スー(4)フー(2)ロー(6))」などの語呂合わせとオンライン麻雀ゲーム“Maru−Jan”が2004年4月26日にリリースされた事により「オンライン麻雀の日」となりました。
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