『信長公記』首巻にたびたび登場する坂井氏。
信長に仕えた坂井政尚(右近)が知られているが、政尚の出自を含めて坂井氏の血縁関係などは不明点が多い。
まず『信長公記』首巻に登場する坂井氏を列挙してみる。
・清洲織田家の重臣 坂井大膳
・同上 坂井甚助
・清洲織田家の部将 坂井彦左衛門
・織田孫十郎(信次)の重臣 坂井七郎左衛門
・織田孫十郎の筆頭家老 坂井喜左衛門
・喜左衛門の子 坂井孫平次
なお首巻以降は以下の通り。
・坂井右近(政尚) 巻一、三
・坂井与右衛門 巻二 ※『信長記』では坂井三右衛門
・坂井右近 巻五 ※坂井政尚とは別人or誤表記
・坂井文介 巻八
・坂井越中守 巻十五
※「坂井左衛門尉」がたびたび登場するが、これは酒井の誤記で酒井忠次のこと。
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『美濃国諸家系譜』には、河尻与一(左馬丞)と並んで活動した坂井氏の系図も収められている。
なお『寛政重修諸家譜』の坂井系図を見ると、坂井氏は平氏ないし藤原氏とあるが、同氏は別の氏から坂井氏に改姓した一族であって参考になるかわからない。
太田亮の『姓氏家系大辞典』では越前の武士で、平氏ではないかとしているが、根拠については書かれていない。
「美濃系譜」による坂井氏は美濃源氏で、浅野氏の支族としている。
尾張坂井氏の初代は坂井尚常(勘解由)という人という。
父は各務郡の武士で、長男はなぜか上総へ移住、次男は家督を継いで土岐氏・斎藤氏に仕えたらしい。
三男の尚常は浅野氏とともに尾張へ移住し、すぐ川向かいの丹羽郡に土着。
斯波氏に仕えた後、当時は犬山城主だったという清洲織田家に仕えたらしい。
尚常の子には定尚と直家のふたりがいたが、それぞれ大膳助・甚助といった。
『信長公記』には坂井大膳・甚助が、河尻与一と並んで清洲織田家の家老として登場するが、実際にこの系図には定尚(大膳)は織田彦五郎の重臣と記述がある。
ただ二人は後に織田信秀に仕えたことになっており、大膳は天文13年に没してしまっている。
『信長公記』には、大膳は弘治元年に尾張から駿河へと落ち延びたと記述があるため、この記述は信じることはできない。
ただ信秀に従ったかどうかについては、そういう時期があった可能性についてはゼロではないと思われる。
また坂井大膳について、『信長記』では坂井大膳大夫とある。
また大膳の妻は、別記の「河尻氏系図」で河尻与一の父とされている河尻実重の娘としている。
清洲織田家で同僚だった河尻与一が坂井大膳の義兄弟だったというのは納得がいく説明だ。
それと定尚(大膳)には義弟(養子)がおり、その子を下総守といった。
坂井下総守とは、後に幕臣となった坂井氏の初代・坂井成利のことで、父は赤川景弘という人物である。
つまりこの系図を信用すると、赤川景弘は坂井大膳・甚助の義兄弟にあたることになる。
なお景弘にあたる人物の実父は小幡城主の岡田氏とされている。
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大膳の子には、坂井正尚(政尚)がいたとある。
世代的には坂井大膳の子が坂井政尚である可能性は十分にある。
このころの信長は反抗勢力を許しているケースが多いので、あり得る話なのかもしれない。
坂井政尚は信長の武将としてそれなりに高名だったらしく、後世の史書にしばしば記述がみられる。
特に『信長公記』の引用が多く、『太閤記』『明智軍記』『浅井三代記』にも記述がある。
坂井政尚父子は元亀元年の浅井・朝倉氏との合戦で相次いで戦死しているので、かえって潤色は少ない。
『系図綜覧』所収の「佐々系譜」に、佐々氏の一族として坂井政尚の名前がみられる。
それによれば佐々氏は近江の武家で、元は菅原氏だったが後に源氏に改めたとある。
父は三河衣城(拳母城?)主で、後に信長に仕えた余語盛政という人物。
盛政には男子が5人いたようで、長男が家督を継承。
次男盛種が美濃の坂井下総守の婿養子となって坂井氏を継いだとあり、これが坂井政尚らしい。
なお弟が3人いるが、すぐ下の弟は信長の命で佐々氏と改めて佐々成政と名乗ったという。
残りの弟2人はいずれも坂井氏を称していて、長男家から衣城主を継承している。
坂井政尚(盛種)と佐々成政が兄弟とする奇抜な系図ではあるが、経歴の表記に大きな誤りはみられない。
注目すべき点は、坂井下総守という人物を養父としている点と(前述)、坂井越中守を政尚の次男としている点である(後述)。
山鹿素行の『武家事紀』では、子の久蔵とともに立項されている。
元は斎藤氏の家臣で、後に信長に仕えたとされている。
なお飯田忠彦の『野史』にも立項があるが、出身は未詳と記述がある。
なお『尾張志』の政尚の項では、坂井氏は尾張守護代の一族だったとある。
後述の『宗長手記』でも同様の記述がある箇所があるが、これも「小守護代」に誤りだろうか。
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その他の坂井氏についても触れておく。
「美濃系譜」には『信長公記』に登場する坂井越中守と坂井与右衛門の記載もある。
坂井越中守は本能寺の変で戦死した人物。
『信長公記』には天正10年の巻にのみ登場するが、天正6年の信長文書に毛利秀頼の与力として名前が見える。
「美濃系譜」では坂井政尚の弟として記載があるが、本文中に「実は坂井甚助の子」と特記がある。
しかし前述のとおり、『系図綜覧』には坂井政尚の息子とあり、生年を永禄2年としている。
坂井甚助は天文年間に戦死しているため、両説はあらゆる意味で並立しない。
『系図綜覧』説の疑問点としては、坂井氏がいかに織田家の功臣だったとはいえ、20歳で官途名乗りをするだろうか。
参考までに、同世代かつ似た境遇の森長可は、信長生前は勝三の名乗りのままである。
ただし『系図綜覧』では、上司だった毛利秀頼の妻が越中守の叔母(政尚の姉妹)とあるので、捨てきれない説ではある。
坂井与右衛門は信長が初上洛から岐阜へ戻った後、京都に残留した人物。
系図によれば美濃に残った坂井氏本流の人物で、実名は直政。
元斎藤龍興の家臣で、後に丹羽長秀の家臣とある。
『当代記』によれば当時は「美濃の牢人」だったとのことだ。
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小瀬甫庵『信長記』や林羅山『織田信長譜』、『清須合戦記』には、坂井大膳とともに「坂井大炊助」という人物が登場するが、「美濃系譜」に該当人物の記載はない。
なお『清須合戦記』『総見記』では、坂井大炊助は坂井大膳の兄としている。
『信長記』『三壺聞書』『名古屋合戦記』などに、織田孫三郎(信光)の家臣として「坂井孫八郎」という人物が登場する。
『信長記』によれば信光の近習で、後に信光を殺害したことになっている。
なお『信長公記』での信光の死因は「不慮の仕合」とあり、具体的な内容は書かれていない。
また「美濃系譜」には該当人物の記載はない。
駿河に在国していた宗長が残した『宗長手記』に、比較的早い坂井氏の記述がある、
大永6年宗長は尾張を訪れて句会に参加しているが、その時の参加者に坂井摂津守がいる。
摂津守は尾張の小守護代だったらしく、これは『信長公記』に坂井大膳と同様である(単に守護代と書く箇所もあるが、脱字だろう)。
宗長は清洲に滞在するにあたって、宿を摂津守の世話になった。
摂津守は同年に宗長が近江まで出た際に連絡を取っているので、宗長とは親しかったのだろう。
翌年に再び早朝は清洲を訪れるが、その際にも宗長の宿を摂津守が手配している。
なお一部の論著で実名を村盛とするものを見かけるが、これは「亭主村盛」を摂津守の実名と解釈したものだろう。
この時の摂津守は宗長と親しく交流した様子が記されている。
「美濃系譜」には同名の人物は見当たらないが、大膳の父にあたる坂井尚常(享禄元年没)のみが候補になる。
坂井摂津守は間違いなく実在した人物だが、「信長公記」にその名は見えない。
ただし「総見記」では摂津守・内膳の親子が守護家の重臣だったと見える。
坂井内膳という人物の活動内容は不明だが、あるいは坂井大膳の誤記かもしれない。
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最後に『美濃国諸家系譜』の内容をまとめてみる。
┬与左衛門―――直忠――直政(与右衛門)
|
|河尻実重┬――与一
| └――女子
| ||―― 政尚――久蔵
└―尚常┬―――定尚(大膳)
|
├―――直家――越中守
| (甚助)
└…赤川景弘――成利
|
岡田重賢┴―掃部――重善――重孝
河尻氏と坂井氏に姻戚関係があることには納得がいくのと、坂井氏と岡田氏が親しいことも他に例がある。
肝心の坂井大膳の事績については信用できないのが難点だが、おおむねの系譜は参考になるのかもしれない。
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