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2020年04月04日16:32

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童話「やぎさんゆうびん」における考察

しろやぎさんから おてがみ ついた
くろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの てがみの ごようじ なあに

くろやぎさんから おてがみ ついた
しろやぎさんたら よまずに たべた
しかたがないので おてがみ かいた
さっきの てがみの ごようじ なあに
 
 
最初にお手紙を出したのはシロヤギさん。果たしてご用事とは何だったのか。察するに、クロヤギさんからお返事が来たにも関わらず、読まずに食べてしまっている時点で大したご用事ではなかったのではないだろうか。

或いは、これは可能性の話だが、シロヤギさんの周囲では、何らかの生態系の乱れによって食糧となる草が減少し、貧しい思いをしていたということも考えられる。空腹を堪え、やっとの思いでクロヤギさんに助力を求める手紙を出したシロヤギさんだが、クロヤギさんからのお返事を待つ間、或いはクロヤギさんにお手紙を出した時点で、既に空腹は限界を迎えており、クロヤギさんから返ってきた《一縷の望み》であるはずのお手紙ですら、我を忘れて食べてしまったのではないだろうか。空腹、いや飢饉の前にはお手紙ですら貴重な食糧となるのだから。

仮にこの説を是とするならば、お手紙の相手であるクロヤギさんもまた、途方もない飢餓感に苦しんでいたという可能性が考えられる。仮にそうだとすれば、そもそもお手紙を出す前に、両者とも同様の「お手紙」を何通も何通も何通も何通も、食べてしまっているのかもしれない。書いては食べ、書いては食べて、そうして飢えを凌ぎながらも、身を切る思いで出したお手紙だったはずだ。だがしかし、シロヤギさんもクロヤギさんも飢えには勝てず、やはりお手紙を食べてしまっている。余りにも、救われない話ではないか。

また、シロヤギさんにおいては、「さっきの手紙のご用事なあに?」と発言していることから察するに、必死の思いで出した“助力を乞うお手紙”に対するクロヤギさんからの“お返事”どころか、自ら助力を乞うて出した手紙のことすら、もはや認識出来なくなっているのではないだろうか。
飢えに勝てず、我を忘れ、それを食べてしまっている以上、詳細が分からないのは仕方がない。だとしても、自ら身を切る思いで書いた“助力を乞うお手紙”に対するクロヤギさんからのお返事なのだ。“それ”はある種の希望なのだ。にも関わらず「さっきの手紙のご用事なあに?」と頓珍漢なことを呟いている。その点から察するに、既に、少なくともシロヤギさんにおいては、思考に回すブドウ糖やビタミンB群が著しく欠乏している状態であると推測できる。語尾の「なあに?」という気怠げなニュアンスからも、飢餓感またはそれに準ずる無気力感のようなものが窺える。つまりはもう、手遅れなのだ。

言うまでもなく、その後に待つのは 餓死 の二文字であり、シロヤギさんには、或いはクロヤギさんにも、救いの瞬間は訪れないのであろう。両者とも最期の時を迎えるまで飢えに苦しみ、息絶え、そうして自然の循環の輪へと帰結していくのだ。或いはそれこそが、神の御手による救いなのかもしれないが、それはまた、別の話。

得てしてこれは、そういう 詩(うた) だ。

そうだとすれば、余りにもやり切れないではないか。

私は願う。そして祈ろう、この推論が私の虚妄であり、杞憂であることを。私達は二度と、シロヤギさんとクロヤギさんのような過ちを犯してはならない。私達は元来、自らの目の前に生える一本の草ですら、隣りにいる誰かと分かち合うことが出来るのだ。誰もがそういった選択の自由を持ち合わせている。そしてその《和》こそが、私達を明日へと運ぶ大きな“可能性”であり“希望”なのではないだろうか
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