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2020年03月24日10:08

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18950112 NO3782 日清戦争清国側講和勅使に関する情報通報

第8巻巻頭
18950112 NO3782 日清戦争清国側講和勅使に関する情報通報
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駐韓日本公使館記録 8巻 一. 諸方往復 (1) [日清戦争清国側講和勅使に関する情報通報]
文書題目 (1) [日清戦争清国側講和勅使に関する情報通報]
文書番号
発信日 明治二十八年一月十二日 ( 1895年 01月 12日 )
発信者 陸軍次官 児玉
受信者 井上 特命全権公使

(1) [日清戦争清国側講和勅使に関する情報通報]

(前文欠) 在上海某氏より来翰の写しを御送付致します。

明治二十八年一月十二日
児玉 陸軍次官
井上 特命全権公使 殿





[別紙 一号]
文書題目 [講和勅使のうち総督・張之洞の動静]

講和勅使のうち総督・張之洞の動静]
1894年12月22日付、上海の某よりの来柬

拝啓 陳者、総督・張之洞は上海兵器製造所及び同所からおよそ参哩(マイル)ばかりのところにある龍華(リューファ)の火薬製造所を巡検した後呉淞(ウースン哩 *上海市宝山区)に帰港致しました。
呉淞より同総督を乗せた砲艦はこの兵器製造所近辺の河中に碇泊し、総督は甲板上に出て四方を見渡しただけで船内に入りました。それから龍華に進航し再び投錨致しました。
火薬製造場はこの河(*呉淞江)よりおよそ一マイルも離れているはずですので総督はただその煙突を見ることができただけです。
同総督は上海に上陸することを恐怖しているように見受けられました。しかし呉淞にその陣を構えております。
昨夜同総督は「マンドル」商会の清人書記長に電報致しました。きっと同総督は軍事公債の事及び当地方において「探り取策」が実施できるかどうかについて同人と協議をしようと欲していたのでしょう。 敬具





[別紙 二号]
文書題目 [講和勅使・張蔭桓と邵友濂などの人的事項 通報]

[講和勅使・張蔭桓と邵友濂などの人的事項 通報]
1894年12月26日付上海来信

拝啓 陳者 前便以来清国政府は総理衙門の張蔭桓および前台湾巡撫・邵友濂の二人を講和勅使に任命したことを公然と告示致しました。
私は天津より右の趣の電報に接しましたので、直ちに貴下へ転電致しました。これは私がこれを斬新の報道と考えたからではなく、この報道が清国において公然と発表されたことを貴下に御通知するためです、私が接受した電報には、その人名記載がありませんでしたので、その節にこれらの人名を御報せできませんでしたが、清国人が言うには、その二人は即ち前記の二人でありまして、張蔭桓(チョウインカン Zhang Yinhuan)は広東人で、にして既に好年輩であり、かつて合衆国駐箚公使として在勤していたものであり、前便に記載しておきましたように、同人は七月頃に主戦党の一人であり、また在北京の私の通信者に向って「今は講和、そして後(のち)準備」と語っていた者です。
邵友濂(ショウユウレン Shao Youlian)とは私は十余年来熱懇の間柄にあり、同人は六十前後の年齢の筈で、謹重・細心で清国官吏中の優等者に数えられますが、果断に乏しい人であり、既に前便にも申し述べたように、同人は目下上海の「テンプルヲフヘウン」天府廟に住居し恐怖戦慄の中で日を送っております。
邵友濂は日本人を怖れ、北京より来るべき命令がどうなるかを甚だ気遣っております。同人はかつて外交官補として露京(*モスクワ)に在勤の際、この地で締結した条約書を護送してこれを清国皇帝に差し出す予定になっていましたが、この条約書を呉淞と上海の間において紛失しその罪は斬首に当るべきところ、幸にしてこれを見出しました。清仏戦争の際には、同人は上海道台の職にあってかなり才幹を顕わしました。その後香港における鴉片厘金*委員会員の職を務め、次いで済江(*済水の流れは済源市を発し済南市で黄河に交わる)の按察司、及び淅川(シーチュアン)の藩台の職にあったと思われます。
彼が台湾巡撫の職にあった四、五年間にあっては、同人は賞金を掛けて日本人及び日本船舶の捕獲の布令を発したとのことです。
以上のとおり張蔭桓および邵友濂両名の地位及び位階は清国人をして講和談判は最重要事件たることを感想させることのできないものです。
もしその使命を私が考えるように極めて重要なものだとするときは、総督以下の地位にいるものはその何人たるを問わず、これに任ずることができるかどうかは甚だ疑わしく存じます。もっともこれはただ清国人の視点より申し述べるだけのことです。
邵友濂は条約書護送者、厘金委員及び外藩の一孤島台湾の巡撫であったものでありこれらの地位は一つとして清国人の注意を惹くに足らざるものです。
張蔭桓はかつてイギリス国・ドイツ国へ公使として派遣され、今は総理衙門の役員に列しております。しかし総理衙門というのは支那人の目より見るときは、単に憎むべき外国人を取り扱うために便宜上組織したる贅物(ぜいぶつ *役に立たない余計なもの)に過ぎません。
張之洞は南京に帰りました。同人は清国の敗を認知するだけの感覚は持っていると思います。私が南京に派遣した通信人はまだ張が北京からどのような特命を得ているのかを確知できていません。ただ張は専ら集金に汲々たる様子ですが、一向にはかばかしい效果を見ていないとのことです。
清国官吏は目下既に講和は確定しているものと見なすほうに傾いており、僅か一月前頃までは償金等とは思いもよらぬことと見下しておりましが、彼らも今はその幾百万の金額で済むのだろうかと推測に余念ないところです。
昨日英国人一名及び米国人一名が上海の市外において清兵に出合い暴行を受け、この米国人はその手から指環を抜き取られましたが、同人は清国海関の雇いであるのでこれについてはなんともできない次第です。 敬具


*厘金(りきん) 「清代の厘金収入は、光緒十三年間では一千六百余万両。宣統参年間では四千参百余万両で当年の総収入二億九千六百余万両の百分の十四,清国の財政の中で相当重要な地位を占めていたと思われる。」https://baike.so.com/doc/6667078-6880910.html
*淅川県(せつせん-けん シイーチュアン)は中華人民共和国河南省南陽市





[別紙 参号]
文書題目 [日清戦争の最終戦況と清国側講和の動きについての情報]

[日清戦争の最終戦況と清国側講和の動きについての情報]

一八九四年十二月二十一日上海来信

拝啓 陳者 北方においては寒気が甚しく且つ暴風があるとのことで、これが太沽*及び山海関付近への日本軍上陸に関しては一向に前進がない理由だと思われます。
日本軍太沽付近へ上陸の事は「 デットリング」を経て聞き込んだだけでありますが、これはただ我が軍の探偵隊が現われたのに過ぎないことと伝え聞いています。それでも山海関、または少なくともその付近に日本兵がいることは了解しているところです。
目下協議中の講和交渉の件に関し、慶親王が李鴻章に協議したことはないのですが、しかし李鴻章は大いにその模様を知ろうと思い、二参日前その属僚の某を在天津米国領事の許に遣わし、同領事の知っているところ、並びに彼がデンビー公使から聞き込んでいる所を問い合わさせました。
総理衙門の張蔭桓 (前在米公使 *チョウインカン Zhang Yinhuan) は再び天津へ来ました。同人は講和使に任命されると言う事です。同人は去る七月には「主戦党」中最も激烈なものです。私の想像する所では、清国官吏は何れも日本人を嫌っておりますが、私が北京滞在中に聞き込んだところによれば、この張蔭桓は普通よりは一層甚だしく日本人を忌み嫌っているとのことです。
清帝はついに、在旅順口の清官を全て非難譴責するという諭示を発し、この諭示は清国諸新聞かその当時まで旅順口はまだ堕ちてはいないと主張していたのですがその紙上に掲載されました。
盛道台は当地・上海におり、過罰の為め上京を命じられたので恐慌逃竄(とうざん *逃げて姿を隠すこと)中であります。同人は旅順口において所有していた公金・四百万両を持ち逃げしたとの風聞がありましたが、これはどうみても大げさな言い方だと存じます。
南京総督・張之洞は本日呉淞(ウースン)に到着し兵器製造所に入りました。同人は砲塁及び兵士巡撫を名目としておりますが、その実は金銭を手に入れようとしているためなのです。
江南兵器製造所の官吏は外国人居留地へ移転し、支那市街の人民は多く他の地へ散出中にて、当地本土人中には頗る驚恐の模様があり、フランス国領事は在港諸領事と道台とにおいて、何等かの方法をもってその恐怖する必要がないことを保證すべきだ、と勧告致しております。
日本人はいよいよ上海へ進軍するだろうか、との問いは私の日々聞くところですが、他の外国人も多く同様の問いを掛けられていると愚察致します。
ロンドン「タイムス」通信者トムソン氏が昨夜天津より来着致ししばらく談話致しておりましたところ、同氏は相変らすひどく日本贔屓(びいき)であります。御存じの通り同氏は数ヵ月間天津に滞在しています。同氏は滑稽な老人でありまして、また同氏は均しく同新聞社の通信者であるミッチーの支那贔負的意見を大いに非難しております、と伝えられております。同ミッチーの子は目下ハンネゲンの書記をしています。
李鴻章はこの十日以来やや精神を回復し、身体の健康もすこぶる改まりましたように見受けられます。
盛道台はこれまで招商局勤務の黄という者がその代任となっています。李と盛とは従前通り上海 (以下 欠文)
清国人は宋蒙将軍に内々を期待しています(*?)。同将軍は旅順口内その他の所々を回復し、実際支那・芝罘(チーフー)の大人物として残余のため残せられたる如候(*13字不明)。しかし清人は敗剣を視ること猶「マニラ」富閭におけるが如く(*この一文?)、一度失敗しても次回には好運にめぐりあうだろう、と諦念的に考えています。
哥老会は別にいらいらした様子はありません。
昨日楊子江上の楊州(*「揚子江(江水)を中心に、北は淮水から南は南嶺山脈までの地域のことである。」)より来たものに面談致しましたところ、その言う所によれば、同所近傍には多数の兵がいる。人民は甚だこれを恐れています。「シオニズム」というユダヤ人再建団のためにロンドンにおいて募債を計画致しているとの風説があります。同人は李鴻章傘下の者であり、またその将軍の一人と対立をしているものです。よってこの風説が事実であるからには、その清国の金を迂回の方法でもって貸し付けようとするようなことがあっても決して驚くには足りません。
「デットリング」に関する北清日報の報道切り抜きを封入致しました。この機関新聞は排日本的の報道を掲載するために金をもらっているに相違なく、また確かな筋より聞くところによれば「デットリング」は自らこの報道、及びその他日本を非とする目的を有する多くの報道の原稿を寄送している者です。
もし私のほうでもこれらの虚報を排斥することが必要なのでそれに必要な報道材料を御送付頂きたく、また旅順口陥落に関する清帝の諭告の訳文を封入致します。 敬具
十月二十一日
杉村濬 頓



*太沽(*「中華人民共和国天津市浜海新区<旧塘沽区>にある地名。天津から海河に沿って南東に下って渤海に至った河口(大沽口)地域である。」)
https://www.weblio.jp/content/太沽

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