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2020年02月20日15:56

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●アッツ島●キスカ島●樺太●占守島

●アッツ島 キスカ島
◆アッツ島の戦い - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島の戦い
アッツ島の戦い(アッツとうのたたかい、Battle of Attu)は、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘である。
 
◆アッツ島- Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島
アッツ島(アッツとう、英: Attu Island)は、アラスカ州・アリューシャン列島のニア諸島最西部にあるアメリカ領の島。東西70km、南北30kmの大きさ。
かつて日本軍によって熱田島(あつたとう)と命名された。
2015年現在、厳しい上陸規制があるため無人であり、アメリカ沿岸警備隊の巡回以外に上陸者はいない。
島内に存在する飛行場の滑走路は、老朽化が進み大型機の着陸は不可能とされている。重機を運び込むことも難しく補修計画は立てられていない。
 
◆日本軍によるアッツ島の占領 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本軍によるアッツ島の占領
日本軍によるアッツ島の占領は、太平洋戦争中のアリューシャン方面の戦いにおけるAL作戦の一環として、日本軍により占領された。アメリカ合衆国本土が外国軍隊により占領されたのは1812年の米英戦争以来初めてのことであった。アッツ島の戦いでアメリカ軍が島を奪還して日本軍による占領は終了した
 
◆アッツ島沖海戦 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島沖海戦
アッツ島沖海戦(アッツとうおきかいせん)は、第二次世界大戦中にコマンドルスキー諸島近海で起きた日本海軍とアメリカ海軍との間の海戦。連合国軍側の呼称はコマンドルスキー諸島海戦(Battle of the Komandorski Islands)。
細萱戊子郎中将 森友一少将‎: ‎チャールズ・マクモス少将
大日本帝国‎: ‎アメリカ合衆国
重巡洋艦2 軽巡洋艦2 駆逐艦4 輸送船3‎: 重巡洋艦1 軽巡洋艦1 駆逐艦4
重巡洋艦1小破戦死14、負傷26‎: ‎重巡洋艦1小破 駆逐艦2小破 戦死7
 
◆アッツ島血戦勇士顕彰国民歌  https://youtu.be/MsNo-Y6qjA8 2015/03/28
 
◆アニメンタリー『決断』 第16話 キスカ島撤退 2013/11/14
https://youtu.be/aeuVSMxP_ag
 
◆キスカ島 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/キスカ島
キスカ島(キスカとう、英語: Kiska)は、アリューシャン列島西部のラット諸島に位置し、アメリカ合衆国アラスカ州に属する島である。 “キスカ”の名は、この地方に居住していた先住民族であるアレウト族がこの島の呼称として用いていたアレウト語(英字転化:Qisxa)に由来する。
 
◆キスカ島撤退作戦 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/キスカ島撤退作戦
キスカ島撤退作戦(キスカとうてったいさくせん)は、1943年(昭和18年)5月27日から7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦のことである。正式名称はケ号作戦。
北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊艦隊司令長官が総指揮をとる。
5月下旬から実施された潜水艦による第一期撤収作戦は成果の割には損害が多く、また効率も悪かったため6月下旬をもって打ち切られ、水上艦艇による撤退作戦に切り替えられた。
第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が収容部隊を指揮した第二期撤収作戦において、同艦隊がキスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。
大日本帝国‎: ‎アメリカ合衆国
潜水艦3‎: ‎戦死2
河瀬四郎中将 古宇田武郎少将 木村昌福少将‎: ‎トーマス・C・キンケイド中将
 
◆コテージ作戦 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/コテージ作戦
コテージ作戦(コテージさくせん、Operation Cottage)は、太平洋戦争中の1943年8月に行われた、アメリカ軍などによるアリューシャン諸島のキスカ島への上陸作戦である。本作戦は、大日本帝国陸軍のキスカ島守備隊が撤退した後に実行された。
なし(軍用犬3匹)‎: ‎34,426; 戦艦3隻; 巡洋艦2隻など
なし‎: ‎同士討ちにより戦死122; 行方不明191; 駆逐1隻大破
 
◆キスカ島の奇跡について調べてみた - 草の実堂
https://kusanomido.com/study/life/military/25303/
2018/02/10
1942年6月、大日本帝国海軍はアラスカ半島に近いアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を攻略し、ここに守備隊を配備した。
しかし、アラスカ半島に近い両島はアメリカ軍にとっては目障りな存在であり、日本に対する反攻作戦が開始されると、両島も攻略目標となったのである。
目次
アッツ島の玉砕
守備隊を救出せよ!
キスカ島突入!
キスカ島の奇跡
日本では活躍できなかった「日本製アンテナ」
最後に
 
◆昭和18年のキスカ島撤退作戦は、適切な霧予報で成功した奇跡の作戦
https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20160729-00060070/
2016/07/29
昭和18年7月29日、アルーシャン列島ほぼ中央部のキスカ島守備隊5183名が撤退をしています。5月中〜下旬には、連合軍上陸作戦によって近くのアッツ島守備隊2600名のほとんどが戦死するなか、入念な準備と時期を待つ忍耐力、適切な霧予報で無血撤退でした。
同年の2月のソロモン諸島・ガダルカナル島撤退で多数の犠牲者を出すなど、太平洋戦争初期に太平洋の島々に展開した日本軍は、連合軍の反攻のまえに、多大な犠牲が相次いでいますので、奇跡の作戦でした。
 
◆アッツ島玉砕の悲劇が導いた、キスカ島撤退の奇跡 | WEB歴史街道
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4103
2017/07/14
「断乎反撃せよ!」 アッツ島玉砕から奇跡のキスカ島撤退へ。後世に伝えたい誇り高き日本人たちの知られざる戦記。
 
◆キスカ島の奇跡、占守島の真実、ムルデカ独立の約束… 「断乎反撃せよ!」
2017/07/13   https://youtu.be/Gx03SZNKFVA
奇跡のキスカ島撤退、ソ連軍を撃退した終戦後の占守島、インドネシア独立を助けた残留日本兵たち……。後世に伝えたい誇り高き日本人。
https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-83655-3
 
◆占守島の戦い 昭和20年8月18日 ソ連による日本の分割占領を断固阻止した史実  2017/01/23   https://youtu.be/9oNT1fjsQ3c
スターリンの野望、ソ連による日本の分割占領を断固 阻止した将軍・樋口季一郎の決断。ソ連が、日ソ不可侵条約を破って非道な軍事侵攻を行う中で、北海道と日本を救った占守島の戦い。樋口季一郎の決断こそが、ソ連の日本分割占領を食い止めた。映像:企画・制作 株式会社 ACC
 
◆占守島〔シュムシュ〕 日本以外の国は卑怯者ばかり 嘘つき 特に ...
blogs.yahoo.co.jp › ...
2012/08/20 - 占守島〔シュムシュ〕○日本以外の国は卑怯者ばかり 嘘つき 特に大陸の国は ☆ねずさんの ひとりごと 占守島の戦い http://p.tl/3q0s 今日、8月20日は、樺太の真岡市で、郵便局の電信局の職員の女性9人が、集団自決をされ...
 
◆●ソ連対日宣戦布告 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ソ連対日宣戦布告
ソ連対日宣戦布告(ソれんたいにちせんせんふこく 英語: Soviet Declaration of War on Japan)
1945年(昭和20年)8月8日に、ソ連が日本に対して行った宣戦布告を言う。
この布告では、連合国が発表したポツダム宣言を黙殺した日本に対し、
世界平和を早急に回復するために「武力攻撃を行うこと」が宣言されている。
これに先立ち、1945年(昭和20年)4月5日に、
ソ連は日ソ中立条約の不延長(事実上の破棄)を通告していた。
ソ連軍は連合国の要請により対日参戦し、
満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島への侵攻を開始し、
日本軍と各地で戦闘になった。
既に太平洋戦線の各地でアメリカ軍に敗退していた日本軍には、
ソ連軍の進撃を防ぐ手段は無く、日本の降伏を決定付けた。
布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、
ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣から日本の佐藤尚武駐ソ連大使に
知らされた。
事態を知った佐藤大使は、東京の政府へ連絡しようとした。
モロトフ外相は暗号を使用して東京へ連絡する事を許可した。
そして佐藤大使はモスクワ中央電信局から日本の外務省本省に打電した。
しかしモスクワ中央電信局は受理したにもかかわらず、
日本電信局に送信しなかった。
なお、ソ連の宣戦布告に対する日本側の措置であるが本来対ソ宣戦を
決定すべき最高戦争指導会議がポツダム宣言受諾問題で紛糾していたため、
対ソ宣戦問題を討議する余裕が無く、結局日本側からの対ソ宣戦は行われなかった。
よって、日本側の対ソ戦闘は、国家としての意思決定された戦闘ではなく、
ソ連軍の攻撃に直面する現場での防衛行動という色合いが強い。
ソ連軍の攻撃は8月9日午前零時を以って開始されている。
 
●占守島の戦い - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/占守島の戦い
占守島の戦い(しむしゅとうのたたかい)は、大東亜戦争終戦後(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の1945年(昭和20年)8月18日 - 21日に、千島列島 ... 千島列島のほぼ最北端にあり、北東は千島海峡(ロシア名「第1クリル海峡」)を挟んでカムチャツカ半島ロパトカ岬に面する。南には幌筵 .... 15日、日本軍のポツダム宣言受諾が公表され、正午にはソ連軍を除く連合国軍は積極的な行動を停止し、大部分の戦線で停戦状態となった。
 
●日本を救った「占守島」の真実 - iRONNA
https://ironna.jp/theme/435
終戦直後、祖国を分断から救うべくソ連軍に敢然と立ち向かった日本兵がいた。昭和20年8月17日、千島列島北東端の島・占守島にソ連軍が突如侵攻し、樺太のみならず北海道の領有までも目論む熾烈な戦いが始まった。北方の島で死闘を演じた誇り高き男たちの覚悟とその思いとは。
敵の無法に敢然として起つ
1945年、占守島…日本を分断から救った男たち
『歴史街道』 2015年12月号
早坂隆(ノンフィクション作家)
終戦後の「忘れられた戦い」
 日本は昭和20年(1945)の何月何日に戦争を終えたのか――。
 この問いに「8月15日」と答えない日本人はまずいないと思います。
 一方、大東亜戦争(太平洋戦争)におけ
 る「地上戦が行なわれた日本の領土」といえば、
 多くの方が「沖縄」を連想することでしょう。
 しかし、「終戦の日」の2日後、昭和20年8月17日の深夜、
 紛れもない日本の領土で始まった戦いが存在したことについては、
 知る人が少ないように思えます。
 日本領千島列島の北東端・占守島(しゅむしゅとう)に不法侵攻してきた
 ソ連軍に対し、日本軍が祖国を守るべく戦った「占守島の戦い」です。
 現在の北方領土問題へとつながる出来事でもありました。
 
●池上彰も「驚くべき史実」と語る占守島の戦い | WEB歴史街道
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2654
2015/11/20
「まさに教科書に載っていない歴史」(池上彰)
 今年の夏以降、にわかに話題を集め続けている太平洋戦争期の「秘史」がある。
 1945年8月の「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」だ。
 占守島の戦いとは、太平洋戦争が「終戦」した2日後の
 1945年8月17日深夜(18日未明とも)、日本領だった
 千島列島北東端・占守島に、ソ連軍が攻め込んだ出来事だ。
 当時、日本とソ連は中立条約を締結していたが、ソ連は千島列島、樺太、
 さらには北海道の北部を日本から奪い取ろうと「不法侵攻」を仕掛けた。
 この時、ソ連軍の侵攻を食い止めたのが、占守島に残っていた日本軍将兵だった。
 この史実は、戦後の日本においては、作家の浅田次郎氏が小説『終わらざる夏』
 で題材にしたことはあったが、語られることは多くはなかった。
「8月15日、皆が無事に帰れたわけじゃない」(宮崎美子)
 「終戦って、いつなのか。1945年8月15日じゃなかったのではないか。どこで区切りつけるのか。占守島の戦いは、まさにその話。8月15日に玉音放送があって、その場で全部戦闘は終わり、皆、無事に帰れたわけじゃなかった。そこから始まった戦いがあって、その結果が、今の北方領土問題にもつながっています。
 今回、ロシアでの取材で現地の方の話を聞きました。千島列島は、もともとは平和的にロシアと日本で条約が結ばれて、平和裏に日本の領土になったのですが、そうじゃないように現地では教えられていました。『日露戦争の時に奪い取られた千島列島を、我々が血で購って取り返した』と。
 『だから北方領土も自分たちのものだ、当然だろう』って怒られたこともありました。そうした点は、実際に取材を行なわないと分からないことです」(宮崎美子氏)
 ロシアの教科書には、占守島の戦いでは「正義の戦いとして載っている」(池上氏)という。その一方で、日本においては宮崎氏が「正直、私もこれまでは知らなかった」と語るように、ほとんど語られることはなかった。
 
 
侵略戦争と色んな方面から洗脳されて育った終戦以後 生まれの人間が今一度歴史の書を解いて見てはどうかな。
侵略戦争をしたと一方的な意見を押しつけられている。


戦争というモノはしてはいけない事では有る。
平和が一番。
平和だから良いだけでは済まない。
今現実に平和ボケし過ぎて世の中変になって居る。

物事総て行う時には何らかの理由が有り決行している。

今回の戦争も裏に色んなモノが絡んでいるのは間違いない。

人の持っているモノが欲しいだけで侵略していったのだろうか。

も一度原点に立ち振り返って見るのも大事では無いだろうか。
 
「アメリカ人も原爆について複雑な思いがある」スタンフォード大の研究者、戦争を語る【終戦の日】
https://www.huffingtonpost.jp/interveiw-dan-sensei_n_17747496
2017/08/14
なんども過去を思い出し、記憶し続けないといけません。オバマ前大統領がリスクを取って広島をたずね、戦争の記憶を蘇らせたことは貴重なことなのです。
竹下隆一郎
太平洋戦争が「終わり」を迎えてから、2017年8月15日で、72年がたった。今となっては遠い昔のことのように思えてしまうが、2016年5月、アメリカのオバマ大統領が現職として初めて広島を訪問した。
その直前、ハフポスト日本版はスタンフォード大学アジア太平洋研究所(APARC)のダニエル・スナイダー研究副主幹を取材した。
アメリカでは、広島と長崎への原爆投下が戦争を早く終わらせた「必要な手段だった」と考える意見も強い。スナイダーさんは、小さいころに日本に住み、記者として日本に滞在経験もある。戦争に対する日本人の心情に思いを寄せつつ、複雑なアメリカ人の「胸のうち」も語った。「8・15」に改めてスナイダーさんの言葉を紹介したい。

オバマ前大統領がリスクを取って広島をたずね、戦争の記憶を蘇らせたことは貴重なことなのです。 ... アメリカ人も原爆について複雑な思いがある」スタンフォード大の研究者、戦争を語る【終戦の日】 ..... 宇宙から見た光の街、いくつわかる?
 
◆【士魂】しこん 士魂部隊 侍
https://plaza.rakuten.co.jp/shibaracu/diary/201211130001/
2012/11/13
★しこん 2 0 【士魂】
武士のたましい。
★昇平夜話(しょうへいやわ)
江戸時代の武士の教訓書。上下2編、10巻。無苗氏著。1796年(寛政8)成立。無苗氏は、越後(えちご)(新潟県)長岡藩の儒者高野常道。... おもに諸侯に関する雑話を記し、下編は、風俗・賞罰・武備・文武・節倹・士魂・俸禄(ほうろく)・諸役人・衣服・飲食・家居・雑事の12章に分かれ諸士の心得となるべきことを述べる。
 
◆1946年 2月20日 ロシアは押し込み強盗 千島・南樺太の領土編入を正式に宣言
https://shibaracu.blogspot.com/2013/02/1946-220.html
★ソ連が千島列島・南樺太の領土編入を正式に宣言(1946年)
所在地 ロシアの旗 ロシア (北樺太)
※現在も日本とロシアの間で平和条約が未締結であり、国際法上北緯50度以南(南樺太)は帰属未定地である。
★樺太 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/樺太
1945年までは北緯50度線を境にして、南半分(南樺太、南サハリン)を「樺太(カラフト)」として日本国、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン(ロシア語: Сахалин)」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。
 
現在はロシア連邦が北樺太の領有に加え、南樺太をも実効支配している[1][2]。南樺太については、日本はサンフランシスコ講和条約によって放棄させられた(しかし、一部の日本人が領有権を主張している)。一方で、ロシア(ソビエト連邦)は、日本との間に南樺太に関する条約は結んでおらず、サンフランシスコ講和条約にも調印していない。従って、国際法上は日本の土地ともロシアの土地とも認められていない(帰属未定地域)とするのが日本政府の立場であるが、日本の他にロシアの領有権を否定する国はない。この問題は北方領土問題との関係も深い。
 
ただし、日本政府はロシアの実効支配について「異議を唱える立場にはない」としている。南部のユジノサハリンスクには日本国の総領事館が置かれており、島全体(サハリン州)をその管轄とし、所在地も「ロシア・サハリン州・ユジノサハリンスク」としている。
 
第二次世界大戦における日本本土最後の地上戦が行われた地でもある。
 
◆占守島(しむしゅとう)https://ja.wikipedia.org/wiki/占守島
占守島(しむしゅとう)は、千島列島北東端の島。ロシア名はシュムシュ島(о.Шумшу)、英語表記はShumshu。サンフランシスコ条約締結以来、領有権の帰属は未確定であるが、ロシアの実効支配下にある。

元禄御国絵図にある地名「しいもし」や鳥居龍蔵の記録にある「シュモチ」はこの島に当たるとされる。

島の名前の由来は、アイヌ語の「シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」からとする説があるものの、この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説や、占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「シュム・ウシ(南西にある、入る)」とする説もあり、山田秀三は「判断がつかない地名」としている。

現在この島の住民は灯台守だけで民間人はいない。また島への上陸はロシア連邦軍の許可が必要で、ペトロパブロフスク・カムチャツキーからヘリコプターで約2時間かかる。




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