■長嶋茂雄さん「ノムさん、底知れぬ野球愛は永遠に」
(朝日新聞デジタル - 02月11日 17:28)
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サッチーに携帯電話を5個も折られて……野村克也さんが阿川佐和子さんに語った夫婦の話
野村克也氏が2月11日、虚血性心不全により84歳で亡くなった。
野村氏は1935年京都府生まれ。54年に南海ホークスに入団、65年には戦後初の三冠王を獲得した。70年には選手兼監督に就任、その後ロッテオリオンズ、西武ライオンズでのプレーを経て現役引退。引退後はヤクルトスワローズ、阪神タイガース、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を歴任。ヤクルトではチームを3度の日本一に導いている。
昨年4月に「週刊文春」の名物連載「阿川佐和子のこの人に会いたい」に登場。妻・沙知代さんへの思い、家族の思い出などを語った対談記事を、追悼ともに再掲載する。なお、記事中の年齢、日付、肩書などは掲載時のまま。
(出典:「週刊文春」2019年4月25日号)
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一昨年末に急逝した、妻・沙知代さんへの赤裸々な思いに加え、これまでの野球生活について綴った新著『
ありがとうを言えなくて』を上梓した野村さん。数多くの“嘘”をつかれても愛しぬいた心境を語っていただきました。
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阿川 このたび、新著『ありがとうを言えなくて』(講談社)を読ませていただきました。2017年の12月にお亡くなりになった、奥様の野村沙知代さんへの思いを中心に、監督の人生について、かなり赤裸々に綴ってらっしゃいましたね。どうしてこのタイミングで本をお出しになったんですか?
野村 怖い人がいなくなったせいもあるのかな。川上(哲治)さんや西本(幸雄)さんなど、この人のことは言えないな、って先輩がもういなくなった。気を遣わなきゃいけない人がゼロになったんです。
野村克也氏
阿川 ああ、野球の世界の話ですね。おうちの中の怖い人って意味じゃなく。
野村 もちろん、夫婦においても奥さんの言いなりでしたよ(笑)。うちは典型的なかかあ天下。いまはもう私をリードしてくれる人はいないんだ。人間、やっぱり怖い人は、いたほうがいいですよ。
「僕はほんとに女性に縁がないんですよ」
阿川 ご本では、サッチーさんは急に亡くなられたとありましたが。
野村 ほんとにあっけない。具合が悪そうだなと思ってから5分くらいでした。最初は家のテーブルにおでこをつけて、じーっとしてたんです。僕は隣の部屋にいて、お手伝いさんが「ちょっと奥さんの様子がおかしいですよ」と教えてくれた。で、見に行って「大丈夫か?」と聞いたら「大丈夫よ」と返してくれたんです。
阿川 そのときはちゃんと返事をなさった。
野村 でも、それが最後の言葉になりました。これはちょっと普通じゃないと思って救急車を呼びましたが、担架に乗せたときはもう息がなかった。死因は虚血性心不全ということですが、それまでまったく健康状態に問題はなかった。まさに急死というほかありません。
福島県で開催されたトークショーにで、妻・沙知代さんとともに登壇した野村氏(2002年撮影)
阿川 お亡くなりになった瞬間、どう思われましたか?
野村 もうあっけにとられて言葉も出ませんでした。「俺一人で生きていかなきゃいかんのかな」と思ったら、急に寂しくなっちゃって……。僕は女性に縁がないんですかねえ?
阿川 どうされたんですか!? 縁は充分あったじゃないですか。
野村 先に死んじゃったらダメですよ。サッチーとは二度目の結婚なんですが、前の奥さんももう死んじゃって。おふくろももちろん亡くなってますし、ほんとに女性に縁がないですよ。
阿川 いや、誰だって死から逃れることはできないですよ……。
野村 死ぬゆうたって、タイミングがあるでしょう。みんな私より先に逝ってしまって、自分に疫病神でも憑いてるんじゃないかって疑いますよ。
阿川 そんなに自分を責めないでくださいませ……。
「もう女性は相手にしちゃいけないなあ」
野村 だから、もう女性は相手にしちゃいけないなあ、と。
阿川 これから相手にしようと思ってらしたんですか(笑)。
野村 そんなことをフッと考えますよ。いまは毎日テレビを観て時間を潰してますけど、男って弱いなあってつくづく思うんです。
阿川 奥様に先立たれると、ダンナさまはほんとにショボ〜ンとされちゃうんですねえ。やっぱり女性のほうが強いんでしょうか。
野村 ああ。私の母親はダンナさんに早く死なれて。父は僕が3つのときに戦死したんです。
阿川 じゃあ、お父様の記憶は?
野村 まったくないです。3歳上の兄も、「なんとなく憶えている」くらいで。だから僕らが小さいときから、家は貧乏で、母親は苦労ばかりしていました。おふくろが息を引き取ったあと、「何しに生まれてきたんだよ」と声をかけてしまったくらい。不幸な女の代表みたいな一生だったんじゃないでしょうか。
ヤクルトスワローズ監督時代。1990年〜1998年まで9シーズン務めた
「どうやったら金持ちになれるか、ばっかり考えてました」
阿川 でも、そのお母様を楽にしてさし上げようと思って、野球選手になられたんですよね?
野村 そうですね。京都府丹後のド田舎の出身ですから、お金が稼げる職業といえば、歌手か俳優か野球選手くらいしか思いつかなかった。中学生時代からどうやったら金持ちになれるかということばっかり考えてましたよ。どうしてそのとき、社長になるという選択肢が浮かばなかったのか(笑)。
阿川 フフフ。そんなことおっしゃいますが、野球選手のみならず、監督としても超一流の結果を残されたじゃないですか。
野村 まさかまさかの人生ですね。野球は中学2年生で始めたんです。というのも、野球は他の球技に比べて、バットやグローブなどお金がかかる。それまではバスケットボールやバレーボールをやってたんです。
阿川 その中でも野球が一番得意だったんですか?
野村 全部得意でしたよ。
阿川 あら、失礼いたしました(笑)。
「プロになって毎月1000円仕送りしてました」
野村 ただ、バスケはプロがなかったからねえ。中学2年生で野球を始めたら、野球部の連中がみんな褒めてくれるんですよ。「うまいなあ。以前からやってただろ?」って。でも、おふくろは「中学を出たら働いて助けてくれないと、この家はどうしようもない」と、野球を続けることに反対していました。野球なんて遊びだろうと。なんとか兄貴と野球部の顧問の先生がおふくろを説得してくれました。特に兄貴は「大学に行くつもりだったけど、働く」と言ってくれて。おかげで高校に進学して野球を続けることができたんです。
1997年の日本シリーズ、西武ライオンズを4勝1敗でくだし3度目の日本一。胴上げされる野村氏
阿川 お兄ちゃん、優しい〜。
野村 兄貴のおかげです。野球部の試合と家の畑仕事が重なったときには、「俺がやっておくから、行ってこい」と助けてくれたり。後年、兄貴に「俺の野球の素質を見抜いとったのか?」と聞いたことがあるんです。そうしたら、「プロの選手になるとは思わなかったけど、社会人野球なら行けるだろうと思っていた」と言ってました。母親もプロに入った後は「あれだけ、お母さんが反対した野球で、職業野球に入るって分からんもんやなあ」と驚いてましたね。
阿川 プロになってからは仕送りをされたり?
野村 ええ。初任給は7000円でしたけど、毎月1000円仕送りしてました。その後、バリバリ稼げるようになってからは月に何万円も送れるようになったんですが、「今の何万円より、苦しい中から送ってくれた1000円のほうがお母ちゃんは嬉しかった」と言ってましたね。
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文字数制限により【後半】日記に記載しております。
申し訳ございませんが、【後半】日記をご覧頂きたいと
お願い致しますm(__)m
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