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2020年02月06日11:32

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ヨーロッパ型近代国家の成立過程にあって、検疫が国家防衛の基礎的装置として制度化されていったことを意味している。完成された制度としての国境は、外側から順に検疫、入国管理、税関によって、それぞれ>>

>身体的・法律的・経済的に規定されるべきものとなっていったのである。このような版図、領域としての国家に対して、交通、流通、通商などは本質的に越境的であらざるをえないものであったので、経済の自律に基づく資本主義国家は国境線においてその構造的ジレンマをもっともよく表現することになった≪


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説


検疫
けんえき
quarantine英語
quarantaineフランス語



原語のquarantineは、伝染性の疾患にかかったおそれのある人間その他の動植物、またはそれを媒介するおそれのある物品などについて、その無害性が納得されるまで特定の地域においてその交通、移動を制限または禁止して隔離、停留するとともに、それらの無害化のために治療、消毒、廃棄などを含む防疫措置一般を施行する衛生上の危機管理をさす。日本では明治政府による「検疫所quarantine station」の創設とともに一般化したことばであるため、国内に常在しない伝染病(感染症)の国外からの侵入を防止する目的で、検疫法に基づいて海港、空港において旅客や貨物などに対して検疫所また検疫官が行う、診察、検査、隔離、廃棄などの法制度上の措置のことに限って使われることがほとんどである。ヒト以外の動物や植物を対象とするものとして、それぞれ家畜伝染病予防法、および植物防疫法に基づく動物検疫、植物検疫がある。[西澤光義]

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病気が伝染するものであるかもしれないというおそれから、病者との接触を忌避するために極端な方策がとられることがしばしばあったことは、『旧約聖書』「レビ記」の記述などによっても知られる。
 ヨーロッパでは、中世以来繰り返されたペストの大流行時における過酷なまでの検疫、隔離の例が、14世紀のフィレンツェについてG・ボッカチオにより、また比較的遅くは18世紀のロンドンについてD・デフォーにより記録されているのがよく知られている。
 これらの記録例でもわかるように、伝染病がいったん都市社会に侵入してしまうと、検疫、隔離の措置は対象も多く熾烈(しれつ)なものになりやすいにもかかわらず、効果はかえって疑わしいものであったから、人口密集地への侵入以前に、それを阻止できるような制度としての検疫が必要であると考えられるようになった。
 ヨーロッパにおけるペスト(黒死病)の最盛期であった14世紀には、それがしばしば東方よりもたらされることが多かったため、モンゴル族侵入の記憶とも結び付き、黒海沿岸や地中海東岸地方からの交易船に対する警戒意識が、イタリア、フランスの地中海沿岸港で高まった。1348年ベネチアは、交易船監視を行う公衆衛生保護官を置いた。さらに1423年には市外に恒常的な検疫、係留施設をつくった。ベネチアでは、初め30日、後に40日間、船を港外に係留して、公衆衛生保護官の監視下に置くこととし、この間に疫病の発生をみた場合には退去させた。この「40日quarantina」が「検疫quarantine」の語源である。
 この検疫のベネチア方式はジェノバ(1467)、マルセイユ(1476)などでも取り入れられ、やがてヨーロッパ全域で踏襲されていったが、これはヨーロッパ型近代国家の成立過程にあって、検疫が国家防衛の基礎的装置として制度化されていったことを意味している。完成された制度としての国境は、外側から順に検疫、入国管理、税関によって、それぞれ身体的・法律的・経済的に規定されるべきものとなっていったのである。このような版図、領域としての国家に対して、交通、流通、通商などは本質的に越境的であらざるをえないものであったので、経済の自律に基づく資本主義国家は国境線においてその構造的ジレンマをもっともよく表現することになった。
 すなわち検疫制度においては、一律的な40日間の入港延期処置に対して早くから異議申し立てが行われたが、16世紀には最終寄港地当局による衛生証明書の発行が慣例化され、この証明書を携行している船は、臨検時に伝染病が発見されない限りただちに港湾の使用が許可されるようになった。一方、17、18世紀を通じてアメリカ大陸との通商拡大に伴う黄熱病、イスラムのメッカ巡礼に伴うコレラなど、検疫の対象は次々に拡張されていった。このような新たな脅威に対する厳格な対応への要請と、一般的な措置の能率化の要求とは、ときに矛盾をはらみつつも、現在に至るまでその時々の制度改革の基底をなす二つの流れとなって続いている。
 前記のような検疫措置の方式や対象の多様化は、各港湾ごと、また各監督官ごとの恣意(しい)的な対応を許す温床ともなり、19世紀に入ると制度の構造的腐敗はもはや耐えがたいものとなっていた。1851年パリで初めての国際衛生会議が開かれた。当時、政治的対立が
海洋貿易国家と農工業生産国家

   ★海洋国家と大陸国家

との間にあり、医学的対立が病原感染論と環境汚染論との間にあって根深いものであったが、この会議以降少なくとも西洋先進諸国間では、検疫制度の協調的運用への道が模索されることになった。しかし、条約や規則による実体的な国際協調の気運は、結局20世紀に入って、1920年の国際連盟の成立を待たねばならなかった。1926年の国際衛生条約、1933年の国際航空衛生条約、1948年の世界保健機関(WHO)発足、1951年の国際衛生規則を経て、1969年の国際保健規則(IHR)のWHO総会での採択によって、ほぼ世界的な規模において加盟各国がこれに基づいて国内法を整備し検疫措置をとることができるような国際的な基準が整った。その後、現在に至るこの規則の改定は、より医学的・科学的根拠に基づくものであるように努力されているといえる。一方、対テロ対策を強化するというような視点が導入されるときは欧米主導型の価値観が優先する(アラブ世界からの主張)という批判もありえる。このように、合理的な全地球的国際協調に対する反対要因として、歴史文化的差異、南北間格差があり、潜在的に鋭い対立をはらんでいる。また、ヨーロッパ連合(EU)にみられるような国家から広域共同体への移行は、必然的に国境機能としての検疫を解消していくものと思われる。[西澤光義]

日本における検疫の概念と制度目次を見る
「えやみ」「ときのけ」などとよばれた伝染性の疾患は、日本では、下痢症状を特徴とする「痢」と、皮膚の発疹(ほっしん)を特徴とする「疹」または「瘡(そう)」がおもなものであった。「痢」において、病者の糞便(ふんべん)や病床に接することを戒めることは古くから知られていたが、それ以上に厳格な隔離、検疫に相当する処置は、元来風土病として存在していたと思われる「痢」「疹」については記載がない。これに対して、朝鮮半島経由の外来性疾患と考えられる痘瘡(とうそう)(天然痘(てんねんとう))については、厳重な衛生措置の記録があるのは注目される。12世紀、藤原通憲(みちのり)(信西(しんぜい))編の『本朝世紀』残巻には、この病を「異病」と称して、別居をつくり病者を「喪にあるもののごとくに」隔離したという記述がある。下って1806年(文化3)、池田錦橋(きんきょう)著の『国字痘疹(とうしん)戒草』にも「肥後(ひご)国天草(あまくさ)、熊本、周防(すおう)国岩国、紀伊国熊野、信濃(しなの)国木曽山中、御嶽(おんたけ)山の辺等において、痘瘡患ふものあれば、一郷一村を隔て、人家を去ること一二里にして、山野深谷に小屋をしつらひ、或(あるい)は農家を借りて傍人を附け置きて、食物など、始(はじめ)に運ばせ、一家親類たりとも出入りを止めて、医を迎へて薬を用ふることも少なし」とある。この記述は、疾患伝播(でんぱ)の方向性、山岳民族(山人(やまびと))中心の検疫措置情報の伝達経路などを示唆していてまことに興味深い。
 19世紀(江戸後期)になると外来性伝染病の主役はインド由来のコレラにとってかわられ、1822年(文政5)には第一次大流行をみた。1855年(安政2)、長崎に開設された海軍伝習所では、当初から「カランテーレン(オランダ語で検疫所の意)」に関する言及がなされていたことは勝海舟(かつかいしゅう)の証言がある。1862年(文久2)、幕府は洋書調所に命じて虎列刺(コレラ)病に対する予防、疫学、治療などの要件を諸書にあたって編訳せしめ、杉田玄端(げんたん)、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、坪井信良、子安鉄五郎などによって『疫毒予防説』が刊行された。このなかで「quarantine(キュアランタイネ)」が初めて検疫法と訳されて、当時のヨーロッパにおける措置、方策が詳細に紹介されている。しかしながら、日米和親条約以降、不平等条約下にある幕府にはそのような施策を実行に移す意志も力もなかった。
 1879年(明治12)、太政官(だじょうかん)布告により「海港虎列刺病伝染予防規則」が制定されたが、これはいわゆる不平等条約の対象外の清(しん)や朝鮮との間の便船を想定対象として、これらの地域でのコレラ流行時における臨時的措置を定めたものにすぎなかった。これに基づいて、横須賀(のちに移転して横浜郊外長浜)に消毒所(のち検疫所)が設けられたが、これは鹿鳴館(ろくめいかん)時代を反映して、想定対象とは別に諸外国の目を意識して完備された施設を整えようとしたものであり、当時の日本の水準をこえた新奇ハイカラなものであった。一方、このような浮薄な動向に対して、
<<細菌学、公衆衛生学それぞれの歴史的背景にまで目をやりながら、輸入されつつある衛生概念を的確に整理し、防疫、検疫、建築、都市計画などに対する基礎概念の一つとして位置づけたのが森鴎外であった。この概念の普及を図るとともに、伝染病危機管理のための実行部隊としての「消毒隊」の設置などを提起した鴎外の明治20年代初頭の活動は注目に値する。>>

1894年以降、ようやく順次条約改正に成功した明治政府は、1899年それらの条約の実施にあたって、海港検疫法に基づく検疫所の設置、裁判管轄権の議定、関税法の公布による関税率の引上げなどを次々に行って、近代独立国家としての形態を国境線において整えることができた。なお、1899年9月、横浜検疫所では検疫医官補として勤務していた野口英世がペスト患者を発見し、菌の同定、船の停船命令など初の検疫措置発動に関与している。
 海港検疫所は当初は内務大臣の管理下にあり、1927年(昭和2)航空検疫規則により始まった航空機を対象とする検疫もこれに準じたが、1938年、内務省より分離独立した厚生省の所管となった。第二次世界大戦敗戦により、検疫は1945年からは一時、連合国最高司令官総司令部(GHQ)指揮下に入った。1950年には検疫主体は日本政府に戻されたが、

<<在日駐留軍に関する検疫は除外され、この名残(なごり)は現在も日米地位協定による特例措置として存続している。>>

1951年、日本はWHOに加盟、国際衛生規則に準拠する形で検疫法が制定され、これが日本の海・空港における検疫の法的根拠となった。以後その施行令の改正は、人権や通商の円滑を重視し、医学常識の変化や新たに防疫を必要とする疾患に対応するべく頻回に行われながら現在に至っている。[西澤光義]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ーー
https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E7%96%AB-60272


■クルーズ船、新たに10人感染=食料補給のため着岸―乗客ら検査続く・新型肺炎
(時事通信社 - 02月06日 09:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=5963121
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