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2020年01月12日08:52

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津久井やまゆり園事件でこの所色々考えを巡らせていました。

やまゆり園で25人に虐待の疑い
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_’津久井やまゆり園」は1964年県立県営の施設として作られた重度の知的障碍者施設です。昭和42年から福祉事務所で働き昭和51年には県の第三セクターの障碍者総合センターに転職した私に取っても関わりの深い施設です。
 当時の神奈川県は「福祉県」と言われる位福祉に重点を置いた施策が沢山取られていました。これは当時の津田文吾知事の考えが反映された物で、福祉を担当する「民生部」にはエリートが集まっていました。途中から知事が変わり施策の転換。衛生部と民生部が統合される様になりました。この頃から県内の施設等では様々な問題が生じる事になりました。民生と衛生は何故か「水と油」色々制度を作っても上手く稼働しない状況。民生関連でいえば、施設職員と行政(福祉事務所等)の職員の人事異動が積極的に行われる様になりました。
 私の印象ではこの頃より「福祉の質」が低下した様に思えます。
 全国に先駆けて津田文吾知事が描いた昭和48年にオープンした「障碍者総合施設」も職員を多く集めなくてはならず、県内の現職からの引き抜きはダメという事で、管理職な県職員が配置され、後は県外等から色々な職種の「寄せ集め」と言う印象でした。
 福祉事務所で生活保護のワーカーを5年担当し「お金が介在してのケースワーク」に限界を感じ転職を考えていた時、偶々生活保護のワーカーをしていた時に監査に来ていた県職員は総合施設の人事課長。話を聞きに行った所「数は揃ったが質に問題があり悩んでいる」と言う話で私の転職が決まった経過があります(勿論正式に試験を受けました)
 しかしオープンして未だ3年の間に職員に入れ替えの多さ。仕事内容が大変だったのでしょうか?給与的には県職員と同等の扱い(市よりは下がりました)
 欠員補充と言う事で10月に急遽転職する事になりましたが、始めの7カ月は知的障害者施設に指導員を担当しました。
 そこで見た光景に唖然。当時県内で知的障害関係を牛耳っていた人が指導課長。この方の考えは「殴る事が出来なければ一人前では無い」と言う考えです。竹刀を振り回す職員の姿。固定トイレに縛り付けての排泄。眠ってしまうと足を抓る。その人の腿には抓られた多くの傷跡。胸が痛みました。見ていられませんでした。
 私は「トイレ掛かり」を買って出て、利用者と一緒にしゃがみ、私の足が痺れたら立ち上がり、少し休んで又座ると言う方法を取りました。
 しかし、施設には時間で決められた日課があり、この時間通りに進まないと職員の仕事に影響が出てしまいます。通常でも規則正しい生活はかなり厳しいのに、重度の障害を持つ方が時間通りに進めるのは到底困難です。
 この「日課」や粗暴行為を抑える為の「暴力」。粗暴行為を抑える為には職員が身を守る為にやむを得ないと思わないとやっていけない現状。心ある親は施設から引き取ります。
 しかし一度入所したら「既得権」で面倒を看られる状況になっても引き取らない家族。
60歳を過ぎれば「老人施設」への措置変更になりますが、それをも拒む家族。
 7カ月後にはワーカーとして知的障害者施設を担当する立場になりましたが、私が担当していた2年間だけでも暴力事件は起きました。一人は職員が殴り「膵臓破裂」←これは新聞にも掲載されました。又もう一件は職員の言う事を聞かない利用者を投げ飛ばし、直後から歩行不能。このケースは心因的に問題があると推測されたので、私が毎日一緒に過ごす様にして歩行可能になりました。しかし両親は激怒して職員を訴えると大きな騒ぎになりました。
 この時に私は家庭訪問して原因は歩行可能となったプロセスを話一応訴訟は無くなりましたが、何故か指導員から私へのパッシング。
 思えば「知的障害の支援方法」は未だ確立されておらず、一人一人対応が異なる事。日課の流れが職員にプレッシャーを掛けている等々様々な要素が考えられます。
 7カ月の指導員体験は私のその後の仕事にとって有益な経験でした。
多動性の利用者や暴力的行動の利用者への対応は「綺麗事」では行きませんが、少しでも早く指導方法を確立し、更に職員の処遇の改善を求めています。
(虐待を肯定はしませんが厳しい職場の現状も理解する必要があると思われます)id=2&from=diary&id=5932476
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