小さい時、夜が怖かった。
布団に入れば、周囲は闇の中。
そこで、時間のマイナス方向とプラス方向を考える。
マイナス、自分の生まれる前はどうだったのだろうか?
自分はいない世界。
プラス、自分が死んだ後はどうなるのだろうか?
自分はどこにいるのだろうか?
天国?地獄?
あの世?
生まれ変わり?
自分がいない「世界」を想像するのができない。
自分がいないのが怖い。
でも、生まれる前には自分はこの世界にはいなかった。
いなかったけど、生まれた後は存在した。
「今」は世界の中に自分を認識できて、存在している。
時間軸を引いて、自分が存在している範囲に印を付けてみる。
そして、その範囲外の部分を想像しようと思っても、どうにもできない。
自分が存在しないことを想像できない。
想像できないことが非常に不安で恐怖で心が満たされる。
だが、それも寝てしまう間までの苦痛。
朝起きれば、闇は晴れて、不安や恐怖は元々なかったような雰囲気となる。
しかし、闇は毎日やってくる。
想像できない恐怖は繰り返される。
自分が存在しない時間へタイムマシンで行ったらどうだろうか?
アニメやテレビのフィクションを見た記憶が一つの解決策を与えてくれる。
存在しないならそこへ行けばいい。
想像はできる。
何か乗り物に乗って、時間の中を移動するのだ。
それこそ、アニメの中の世界と同じように・・・。
でも、それでも想像できないことはある。
自分が死んだ後の世界。
自分が存在する世界とは異なる。
しかし、基準を変えて、自分の最期の前後は何ら世界にとって異なることは何もない。
でも、本人からすれば、異なる。
存在しているときは、世界を感じることができるのだが、存在しないと、それができない。
だから、想像ができない。
「分からない」ことが怖い。
見えないことが怖い。聞こえないことが怖い。感じられないことが怖い。考えられないことが怖い。
そんな恐怖も年とともに変化する。
恐怖を克服するというよりは、恐怖の感じ方に麻痺が生じる。
それは単に経験から来るもので、闇に怯えている子が眠りに落ちて、朝、目を覚まし光を感じる。それが日々の繰り返しとなる。
夜、怖い体験をする。
でも、その体験とは逆に「必ず」明日がやってくる。
自分が存在しない明日が来ない。
その体験を重ねることで、子供は「闇」の恐怖を忘れてしまう。
大人にも近づき、大人の時間に移行すれば、より鮮明にその「限定の不死性」を感じることになる。
単に死から遠くにいるだけで決して、死を克服したわけじゃない。
だが、死が近くにないだけで、その存在自体を忘れているだけ。
もし、思い起こすことがあるとすれば・・・
死に近づく何か出来事が発生した時となる。
病気だったり、事故だったり、戦争だったり、・・・と。
何も自分が死に近いから、その事実を思い出すだけではなく、自分以外の人間が死に近付いていて、それを見ることで思い出すことだってあるだろう。
そして、ある事実を収集する。
人が例外なく死を迎えることを。
反例はなく、命の長さに差異はあるものの等しくその存在は消えていく。
死後の世界があったとしても生前と死後との境界は必ずあり、分けられている。
次に思うこと。
存在しなくなった時に存在していた時の何か自分であったものの証明や証拠は残るのだろうか?いわゆる生きた証とでもいうのだろうか?
ある人たちは、それを求めて名声や名誉を得ようとしているのかもしれない。
世の中には天才たちの偉業が今日まで残されている。
それをやった人の名前とともにいろんな形で、理論だったり法則だったり芸術だったり、石碑だったり、後世に残っている。
しかし、そんなものに果たしてどのくらいの価値があるというのだろうか?
もっと長い時間の後も残っているのだろうか?
無形物は人が絶滅したら残らないだろう。
有形物はこの大地がこの星がなくなれば残らないだろう。
「永遠」には続かない。
有限であることに意味はあるのだろうか?
限られた命だからこそ大切なのだ。一度きりなのだから、大事にしよう。
その言葉は果たして真理なのか?
おそらくは有限である虚しさを紛らわせるための方便なのだろう。
本当は永遠が良いに決まっている。
だが、永遠などなく、目を逸らさせるためにレッテル貼りをした。
その方が悩まずに済むから。
しかし、世の中にはその有限性に無力を感じる人たちもいる。
楽に生きられる考え方を受け入れられない。
全ては来るべき最期の瞬間に何もかも失うことにある。
その瞬間がいくら伸びたとしても全てを失うことには変わりない。
だから、今持っているものに価値があるのだろうか?と考える。
今無くすのと、少し先に無くすのとで何か違うだろうか?
同じ無くすだが、その機会が少しズレるだけなのだ。
そのことが少し先に延ばさせたことにより何か得になることがあるだろうか?
結果として、無くなる事実は変わらない。
何か自分であったものが一部でも「残る」のであれば、無力を感じなくなるのだろうか?
でも、遺骨が墓に入り残っていくのがそれに当たるとは思えない。
まだ自分の考え方が残る方がそれに近いのだろうが、それでも、まだ違う。
あくまで自分の意識が残るかどうかにあると思う。
それを焦点に当てれば、間違いなく有限からの脱却は不可能となる。
現時点で意識の永続性はない。
今後も可能性としてありえるのか?
意識の電子化が可能となれば、それを宿す機械が故障しない限りは疑似的に可能なのか?
この宇宙の「死」というはるか遠くの未来まで移動できたら、そこにあるすべての無とともに無になってもいいのか?
そもそも意識が生まれた瞬間を境として、存在しなかった領域から存在する領域のことを考えることも重要なのかもしれない。
元々、時間軸があって、その途中から突然生まれている点で永遠性は問えないだろう。
生まれる前には過去がない。
当然だ。
時間軸のある境を対称にすれば、生まれてない領域と消えた領域は鏡合わせのようになる。
消える運命に嘆くならば、どうして生まれる前の存在しない過去を嘆かないのか?
という新たな問題も出てくるように思う。
そこは意識がどうやって発生するのか、という問題に置き換わるのだろう。
人は物質で構成されている。
化学物質が脳に影響を与える。つまり、意識にも影響が及ぶ。
気分が薬で大きく変化するのは意識に介入できるから。
意識は自分独自のものであると思っている節は多分にある。
しかし、それに影響を与える外からの物質がある。
自分独自のものだと思っていたものが実は外部要因の影響をかなり受けている・・・ということは十分考えられる。
自分が判断していたと思っていたが、実は外部から誘導されていた・・・ということだったりする可能性がある。
悪い環境に漬かれば悪い意識が芽生えるし、逆に良い環境に漬かれば良い意識が芽生える。
無力を感じる環境に漬かっているから無力に陥ってるだけで、それを感じさせない環境に漬かれば人は活力を取り戻すこともできるのだろう。
自分が感じていることに問題があるならば、それを無くす方法は何か?
と考える。
ただ、人はちっぽけな存在だから、その方法が見つかるかは分からないということだ。
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