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2019年11月25日00:29

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11月25日の日記

今日の出来事:1554年−新宮党事件、1587年−新発田重家の乱:新発田城落城、1876年−福澤諭吉の「学問のすゝめ」最終刊・第17篇が刊行、1970年−三島事件:三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊・東部方面総監部で割腹自決

今日は、新宮党事件です。新宮党は、出雲の戦国大名・尼子氏の軍勢の中で、精鋭として知られた一党の事です。尼子経久の次男・尼子国久が率いて、数々の合戦で多くの戦功を挙げました。尼子国久は館を月山富田城の北麓・新宮谷に構えていたため、「新宮党」と称しました。この「新宮党」は尼子国久の養子先、吉田氏が有する出雲東部、弟・塩冶興久の遺領を引き継いでいた為、出雲西部塩冶にも勢力を及ぼして出雲一国に影響力を持っていました。「新宮党」が尼子軍の中心勢力であった事から、尼子国久と息子・誠久は、尼子氏当主・尼子晴久や他の重臣たちとの間に確執が生じていました。1554年11月25日、尼子晴久は家中の統一を図るため、尼子国久、誠久の親子ら「新宮党」幹部を粛清しました。こうして「新宮党」は滅亡しました。以下が「新宮党」構成員です。尼子久幸:尼子清定の次男、「吉田郡山城の戦い」で討死、尼子国久:尼子経久の次男、尼子氏の先頭に立って戦い、尼子氏の勢力拡大に貢献する。尼子晴久の正室である尼子国久の娘が死去すると、これを契機として「新宮党事件」が起こり、誅殺される、尼子誠久:尼子国久の嫡男、新宮党の一員として数多の武功を挙げて尼子氏の勢力拡大に貢献した。父・国久と共に誅殺される。誠久の五男は家臣の手で京に逃れ、僧籍に入りますが、後に還俗して尼子勝久と名乗ります。尼子豊久:尼子国久の次男、「橋津川の戦い」で討死、尼子敬久:尼子国久の3男、新宮党壊滅の翌日に自害、尼子氏久:尼子誠久の嫡男、新宮党の後継者という立場にあったものの、祖父・尼子国久が次第に氏久の叔父・尼子敬久を偏愛し、家督を譲ろうとしたため、尼子晴久にその不当を訴えました。新宮党を危険視していた尼子晴久は、これをきっかけとして「新宮党」を滅ぼしました。「上月城の戦い」で自刃、尼子吉久:尼子誠久の次男、祖父・国久、父・誠久と共に誅殺される、尼子勝久:京に逃れ、僧籍に入りますが尼子氏滅亡後、尼子家の再興を図る山中鹿之助・立原久綱らに擁立されて還俗し、尼子家最後の当主になる。「上月城の戦い」で自害して尼子氏は滅亡しました。

次に、新発田重家の乱:新発田城落城です。新発田重家は揚北衆佐々木党の一人です。当初は五十公野家を継いで五十公野治長と称していました。上杉謙信に仕え、「川中島の戦い」で諸角虎定を討ち取り、関東出兵などに参加しました。上杉謙信の死後に起こった「御館の乱」では安田顕元の誘いに応じて上杉景勝を支持し、上杉景虎方についた同族の加地秀綱を降し、三条城の神余親綱を討ち、乱に介入した蘆名盛氏・伊達輝宗の兵を退けるなどの活躍をしました。1580年、兄の死により新発田家に戻って家督を相続し、新発田重家と名乗りました。三条攻略・蘆名撃退など数々の武功を挙げた新発田重家は、新発田勢の活躍に相応する恩賞を期待していました。しかし、恩賞のほとんどは、上杉景勝が子飼いの上田衆の手に渡り、亡くなった兄・新発田長敦の功績は軽んじられ、重家に対する恩賞も新発田家の家督相続保障のみに終わりました。新発田重家を上杉景勝陣営に引き入れた安田顕元は、重家に謝罪する意味合いで自刃して果てました。1581年、蘆名盛氏の後を継いだ蘆名盛隆と伊達輝宗は、新発田重家が上杉景勝に対して不満を募らせている状況を見て、上杉に対して反乱を起こさせるべく工作を行いました。こうして新発田重家は一門衆のほか、加地秀綱ら加地衆や、上杉景虎を支持していた豪族を味方に引き入れて新潟津を奪取し、新潟城を築城して独立しました。1582年、上杉景勝は最初の攻勢を発動しましたが、撃退されてしまいました。上杉景勝は蘆名盛隆に背後から新発田重家を襲うよう依頼しましたが、蘆名盛隆は応じずに重臣の津川城主・金上盛備に重家を援護させ、赤谷城に小田切盛昭を入れて強化しました。4月になり雪解けになると、上杉景勝は再び新発田攻めに着手しましたが、西から柴田勝家、南から森長可・滝川一益らが侵攻したため、本庄繁長・色部長実に任せました。「本能寺の変」で織田信長が死ぬと、織田軍は撤退しました。しかし、織田の旧領をめぐって信濃で北条氏直と対陣となりました。1583年、上杉景勝は再び出陣しましたが、豪雨と湿地帯のせいで大混乱に陥り、間隙を突いた新発田勢に散々に打ち据えられ、危うく討ち取られそうになりました(放生橋の戦い)。この猛反撃で、新発田重家の勢力範囲が広がる結果となりました。上杉景勝は蘆名家中の撹乱を狙い、直江兼続に命じて富田氏実・新国貞通などの蘆名盛隆に反抗的な重臣達を調略しました。1584年、上杉景勝は水原城奪還のため出陣しました。上杉勢は新発田重家が率いる本隊を水原城下に引き付けて戦い、その間に迂回していた上杉景勝が八幡砦を奪取して水原城を孤立させました。このため、新発田軍は水原城を放棄して退却しました(八幡表の戦い)。ところが上杉軍は、直江兼続の陣が新発田重家の攻勢を受けて崩壊して大損害を蒙ったため、それ以上の進軍が出来ずに水原城を奪還されました。そのため新発田軍の士気が揚がり、佐々成政と共に上杉景勝の挟撃を目論みました。しかしこの後、蘆名盛隆が家臣に殺害された事で、状況が暗転します。1585年、伊達輝宗に家督を譲られた政宗が蘆名と開戦しました。さらに、伊達輝宗が死んだ事で、伊達・蘆名両家による新発田支援体制は崩れ、新発田重家は後ろ盾を失いました。そして、新潟城と沼垂城が藤田信吉の調略によって上杉軍の手に落ちると、新発田軍は新潟港から塩の津潟を経由して新発田に至る水利権を失い、物資の大量輸送が困難になりました。1586年、上杉景勝は上洛して羽柴秀吉に臣従しました。これによって強力な後ろ盾を得た上杉景勝は、新発田攻めに全力を傾けましたが、決着をつける事は出来ませんでした。1587年、秀吉の支援を受けた上杉景勝は1万余の大軍で新発田城を取り囲みました。周囲の諸城は上杉勢に次々と攻略され、金上盛備が赤谷城の救援に向かいましたが、藤田信吉に阻まれて撤退しました。その後、赤谷城が攻略された事により補給路は陸路・水路共に完全に寸断され、新発田城は義弟・五十公野信宗らが籠る五十公野城と共に孤立しました。藤田信吉らが五十公野城を陥落させて五十公野信宗を討死させると、残る城は新発田城のみとなりました。厳重に包囲された新発田城内で新発田重家は最期の宴を催し、それが終わるや否や城を打って出ました。新発田重家が自ら率いる一隊は色部長実の陣に突入し、「親戚のよしみをもって、我が首を与えるぞ。誰かある。首をとれ」と甲冑を脱ぎ捨て真一文字に腹を掻き切って自刃しました。これに応えて色部の家臣・嶺岸佐左衛門が走りより、新発田重家の首を取って本陣に赴き、上杉景勝から感状をもらいました。最後まで抵抗を続けた池ノ端城も陥落し、7年にも及んだ「新発田重家の乱」は終結しました。

その次に、福澤諭吉の「学問のすゝめ」最終刊・第17篇が刊行です。「学問のすゝめ」は福澤諭吉の著書で、初編から十七編の17の分冊でした。1872年2月に初編が出版され、1876年11月25日の十七編出版を以って完成しました。その後、1880年に「合本學問之勸序」という前書きを加え、一冊の本に合本されました。初出版以来、8年間で合計約70万冊が売れました。最終的には300万部以上売れました。当時の日本の人口が3000万人であった事から実に10人に1人が読んだ事になります。現在のような大規模な流通販路の確保や広告宣伝が難しかった時代において、驚異的ベストセラーでした。「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずと言えり」という一節はあまりにも有名ですが、アメリカ合衆国の独立宣言からの引用です。学問の有無が人生に与える影響を説いており、日本国民の行くべき道を指し示しました。したがって「学問のすゝめ」なのです。彼は「攘夷」の気分が蔓延していた当時に「攘夷」を否定し、「政治は国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律も国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分の欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」と、「大政奉還」から約4年半後の世相としては、かなり先進的な内容でした。更に漢文・古文などを「よきものではあるがそこまでして勉強するものではない」として、世間で扱われている程の価値があるものではない、と言って儒学者や朱子学者が言う様な難しい字句のある漢文や古文を学ぶより、まず日常的に利用価値のある「読み書き」、「計算」、「基本的な道徳」などの「実学」を身につけるべきだと書かれています。現在、大分県中津市の福沢諭吉旧居記念館内に初版本が展示されています。

最後に、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊・東部方面総監部で割腹自決(三島事件)です。三島事件は1970年11月25日に、日本の作家・三島由紀夫が憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に、割腹自殺をした事件です。三島由紀夫と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加した事から、その団体の名前をとって「楯の会事件」とも呼ばれています。午前10時58分頃、三島由紀夫は楯の会のメンバー4名(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)と共に、東京都新宿区市ヶ谷の自衛隊駐屯地(通称・市ヶ谷駐屯地)、陸上自衛隊東部方面総監部二階の総監室を訪問しました。名目は「優秀な隊員の表彰紹介」でした。玄関で沢本三佐に出迎えられた三島由紀夫らは正面階段を昇り、原一佐に案内されて総監室に通されました。応接セットにいざなわれた三島由紀夫は益田兼利東部方面総監(陸将)に、森田必勝ら4名を一人一人名前を呼んで紹介しました。その後、東部方面総監を監禁し、その際に幕僚数名を負傷させました。“七生報国”と書かれた日の丸の鉢巻をし、日本刀「関孫六」の抜身を持った三島由紀夫が、正午きっかりにバルコニーに立ちました。バルコニーで演説し、クーデターを促しました。演説を終えた三島由紀夫は、側らにいた森田必勝と共に「天皇陛下万歳」を三唱した後、総監室に戻りました。そして、「益田総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と総監に話しかけました。その後、恩賜煙草を吸い、上半身裸になり、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ちました。そして、自身の左脇腹に短刀を突き立てました。総監が「やめなさい」、「介錯するな、とどめを刺すな」と叫びました。介錯人の森田必勝は介錯を三度失敗し、剣道有段者の古賀浩靖が代わって、一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断しました。最後に小賀正義が短刀で首の皮を胴体から切り離しました。続いて森田必勝も切腹し、古賀浩靖が一太刀で介錯しました。そして、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の3名は、三島由紀夫、森田必勝の両遺体を仰向けに直して制服をかけ、両名の首を並べて合掌し、総監の拘束を解きました。3名の涙を見て総監は、「もっと思いきり泣け…」と言い、「私にも冥福を祈らせてくれ」と正座して瞑目合掌しました。午後0時20分過ぎ、3名は総監室正面入口から総監を連れ出て、日本刀を自衛官に渡して警察に逮捕されました。この一件は世間に大きな衝撃を与えました。

今日の誕生日:ルドルフ・フェルディナント・ヘス、市川準、大地康雄、結城しのぶ、岡田彰布、赤坂泰彦(元東京JAP)、寺門ジモン(ダチョウ倶楽部)、真琴つばさ、小澤正澄(元PAMELAH)、高津臣吾、高橋美鈴、塚地武雅(ドランクドラゴン)、伊藤俊吾(元キンモクセイ)、椎名林檎(元東京事変)、村本大輔(ウーマンラッシュアワー)、伊藤淳史、太田雄貴、武藤十夢(AKB48)

今日の記念日:女性に対する暴力廃絶のための国際デー、OLの日、ハイビジョンの日、憂国忌、先生ありがとうの日、いいえがおの日

今日の「今日訓」:1999年12月17日の国連総会で制定された国際デー「女性に対する暴力廃絶のための国際デー」、1963年、初めて「OL(Office Lady)」という言葉が女性週刊誌「女性自身」11月25日号に載った事に由来し「OLの日」、作家・三島由紀夫の忌日で小説作品「憂国」から付けられた「憂国忌」、ハイビジョンの走査線の数が1125本である事から、1987年に郵政省とNHKが制定しました。この日とは別に、9月16日が通商産業省の制定した「ハイビジョンの日」、「1(先生)」と「1(親・子供)」が向かい合って先生に感謝を伝え、お互いが「25(ニッコリ)」する日との意味合いから「先生ありがとうの日」、「いい(11)にっこり(25)」の語呂合わせで「いいえがおの日」となりました。
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