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2019年11月23日11:58

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国語で考える5 体罰


 教育を論じるとき、性悪説に触れることはタブーとされています。どうやら性善説に基づいてしか意見を言わせてもらえないようですが、私個人の考え方を言わせてもらえば、ヒトが生まれてから人間になるまでの期間、私たちはみな単なる本能に基づいて行動する動物に過ぎないと思っています。理性に欠けるヒトはまだ人間になりきっていない存在です。
これはすなわち保育園、幼稚園、小中学校レベルまでは体罰無しに教育はできない、ということです。子供は3歳にもなると言葉を覚えてしゃべり始めます。そこで大人たちは勘違いするのです。子供も言葉によってすでに考える力を持っているはずだと。これは実は大きな間違いなのです。
子供は、大人と同様に自分で考える力を持っているのではありません。言葉を真似ているに過ぎないのです。お盆やお彼岸に子供をお寺や墓地に連れて行ったとき、子供に「なんまんだぶ」と唱えさせることがあります。この「なまんだぶ」「なんまんだ」「南無阿弥陀仏」が何を意味するのかは子供にはまったく分かりません。
考える力なしに言葉だけを操るというのはそういうことです。幼児だけではありません。大人になっていないというのは、考える力も判断力もまだ十分ではないということです。年齢的には大人になっても頭脳は大人になっていないという人も結構います。本人も考え違いしているのです。
人間はそれほど高級な生き物ではありません。「言って聞かせて納得させればわかる」というのは大きな間違いだということを、教育界は十分に認識していないのではないかと言っているのです。
わが国で体罰を否定して1世代以上の時間を経てきた今日、教師や親に体罰のやりかたを教える必要もあると思われます。子供に禁忌を教えるには痛い目にあわせることが必要です。ですが、それが後遺症を伴ってはいけないからです。暴力を否定するといって、何事も「全否定」してはならないのです。
治安が大切だからといって警察国家を作ってしまっては、そこは国民にとって生きにくいものでしょう。あまりいい例ではありませんが、暴力団が勢力を持っている地域では、無鉄砲な若者の犯罪はかえって減るものなのです。
教育者は子供には無限の可能性があると言います。子供は誰もがその個人に固有の才能・能力を持っている、という主張も良く聞きます。言っている本人でさえ建前だとわかっていてもそう言います。おかげでその断片を聴いて育った学生たちの中には、大人たちはみな自分に合った、やりたい仕事をして生きているのだ、と錯覚しているものさえ出てきました。
理想国家は、国民の誰もが平和に仲良く余裕を持って暮らしてゆける国家です。個人としての国民は決して国家や社会よりも大切なものではないことは誰もが知っている事実です。自分の命より国家が大切だと考える兵士なしに国は守れないというのは戦争の歴史である人類の歴史が証明しています。
人間が知恵や知識を得ることによって戦争ばかりする動物から脱却することができるものに進化することは決してありません。理性を持った人間による社会。それは大人が理性や自尊心や世間体といったものに制約されながら、恥辱を恐れ、仲間はずれを恐れて自らが社会的に非常識な言動をしないように自らを律していることを見ればよくわかることです。
普通は見ようとしていないようですが。

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