mixiユーザー(id:48382454)

2019年11月04日00:10

71 view

11月04日の日記

今日の出来事:1598年−慶長の役:第二次蔚山城の戦い、1600年−関ヶ原の戦い:長谷堂城の戦い、1600年−津野親忠暗殺、1921年−原敬暗殺事件

今日は、慶長の役:第二次蔚山城の戦いです。「第一次蔚山城の戦い」で敗戦後、明軍は本国からの増援を得て兵力は約10万となりました。明・朝鮮連合軍は、東路軍、中路軍、西路軍、水軍の4軍に分かれて南下を開始しました。東路軍は蔚山を、中路軍は泗川を、西路軍と水軍は順天を同時に攻撃する戦略でした。麻貴総兵が指揮する東路軍29500人(明軍24000人、朝鮮軍5514人)は、加藤清正が守備する蔚山倭城を攻撃しました。しかし、今回は籠城準備がなされており、城中の加藤清正は守りを固めて出て来ないため、麻貴は挑発を行いました。日本軍は偽りの退却をして麻貴の明軍を誘引し、明軍が空塁に入った時に伏兵が起こり、明軍は敗北しました。麻貴の明軍は蔚山倭城より撤退し、慶州へ帰還しました。「第二次蔚山城の戦い」では加藤清正が守りに徹したため、泗川倭城を攻撃して島津義弘の逆襲を受けて潰走した中路軍や、小西行長の順天倭城に水陸から総攻撃を実施した後に兵糧を投棄しながら退却した、西路軍と水軍のような混乱を東路軍では起こす事なく撤退しました。この戦いに先立ち、既に豊臣秀吉は死去していました。その死は秘匿されたまま帰国命令が発せられ、加藤清正は蔚山倭城より撤退して帰国しました。慶州に撤退していた麻貴は日本軍の撤退後の蔚山倭城を接収し、これを自らの戦功として報告しました。このため、明では陳璘、劉綎に続いて3番目に麻貴の功績が評価されています。

次に、関ヶ原の戦い:長谷堂城の戦いです。上杉景勝に呼応して、最上義光と対立していた小野寺義道が、最上氏の属城・湯沢城を包囲して攻撃を始めました。しかし、城将・楯岡満茂が善戦し、小野寺軍の侵攻は遅滞しました。一方、直江兼続は畑谷城を落とした後に長谷堂城近くの菅沢山に陣を取り、長谷堂城を包囲しました。長谷堂城は山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側に位置し、山形城からは南西約8キロのあたりに位置する、山形城防衛において最も重要な支城でした。この時、長谷堂城は最上氏の重臣・志村光安以下1000名が守備していました。直江兼続が率いる上杉軍1万8000人が攻撃を行いました。しかし、志村光安は巧みに防戦し、200名の決死隊を率いて上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛けました。これにより上杉勢は同士討ちを起こすほどの大混乱に陥りました。志村光安は直江兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げました。この時の鮭延秀綱の戦いぶりは、直江兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日、直江兼続から褒美が遣わされました。直江兼続は春日元忠に命じ、さらに城を激しく攻め立てました。しかし、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられて迅速に行動ができませんでした。そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせて、上杉軍を散々に撃ち付けました。業を煮やした直江兼続は、長谷堂城付近で刈田狼藉を行て城兵を挑発しましたが、志村光安は挑発には乗らず、逆に直江兼続に対して「笑止」という返礼を送りました。ここで最上義光の甥・伊達政宗は、援軍として留守政景を将とした約3000の軍勢を遣わし、白石から笹谷峠を越えて山形城の東方に布陣しました。長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し、上杉軍の武将・上泉泰綱を討ち取りました。しかし、「関ヶ原本戦」で石田三成が率いる西軍が、徳川家康が率いる東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされました。敗戦を知った直江兼続は自害しようとしましたが、前田慶次に諫められて撤退を決断しました。これにより攻守は逆転し、撤退する上杉軍を最上・伊達連合軍が追撃しました。陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど大激戦となり、両軍多くの死傷者を出しました。前田慶次や水原親憲などの善戦もあり、直江兼続は鉄砲隊で最上軍を防ぎながら追撃を振り切り、米沢城に帰還しました。この撤退戦は後世まで語り草になりました。最上義光は直江兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江兼続少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」と評しました。徳川家康も直江兼続が駿府を訪れた時、この武功を賞賛しました。また、最上軍は反攻に転じ、庄内地方を上杉氏から奪還しました。この戦いで最上軍は少ないながらも善戦した事により、家康はその功績を賞賛し、最上義光が切り取った庄内地方と由利郡の支配を公認し、出羽山形57万石を与えました。伊達政宗も自力で旧領の回復を目指して南下し、上杉領の白石城を落とし、さらに伊達・信夫に進攻しました。しかし、南部領で一揆を扇動した事が露見し、家康の不信を招きました。これによって世に言う「百万石のお墨付き」は反故にされ、自力で落とした白石城をそのまま追認されたのみでした。上杉景勝は庄内、会津などを没収され、米沢30万石のみ安堵されました。小野寺義道は改易され、弟・康道とともに石見国津和野に追放されました。

その次に、津野親忠暗殺です。津野親忠は、長宗我部元親の三男です。長宗我部元親が土佐国の豪族・津野氏を降し、津野勝興の養子として送り込んだ事により、津野氏の当主となりました。1585年の「四国征伐」で敗れると、豊臣秀吉の元へ人質として送られました。1586年、長兄・長宗我部信親が「戸次川の戦い」で戦死すると、家督相続争いに巻き込まれました。家臣・久武親直の讒言と、人質時代に藤堂高虎と親しかったため父に嫌われ、家督は弟・盛親が継ぐ事となりました。1599年には父・元親によって幽閉されました。1600年の「関ヶ原の戦い」で、長宗我部盛親が西軍に与して敗れた後、井伊直政を通じて徳川家康に謝罪し、本領安堵を取り付けようとしました。しかし、久武親直が「津野親忠が藤堂高虎と謀って土佐の半国を支配しようとしている」と讒言したために、長宗我部盛親によって11月4日に香美郡岩村・霊厳寺で殺害されました。享年29でした。津野親忠を殺した事により、長宗我部盛親は「兄殺し」として徳川家康に咎められた事が長宗我部氏改易の一因となりました。

最後に、原敬暗殺事件です。当時の内閣総理大臣・原敬が、山手線大塚駅職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺された事件です。大塚駅の転轍手であった中岡艮一は、以前から原敬首相に対して批判的な意識を持っていました。中岡艮一の供述によれば、原敬が政商や財閥中心の政治を行った事、野党の提出した「普通選挙法」に反対した事、「尼港事件」が起こった事とされています。その他、一連の疑獄事件が起きた事や、反政府的な意見の持ち主であった上司・橋本栄五郎の影響を受けた事などもあって、中岡艮一は原暗殺を考えるようになりました。1921年11月4日、原敬は京都で開かれる立憲政友会京都支部大会へ向かうために、東京駅乗車口の改札口へと向かっていました。午後7時25分頃、突進してきた中岡艮一に短刀を右胸に突き刺されました。原敬はその場に倒れ、駅長室に運ばれて手当てを受けましたが、死亡しました。突き刺された傷は右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態でした。逮捕された中岡艮一は死刑の求刑に対して、東京地裁で無期懲役の判決を受けました。その後の東京控訴院・大審院でも判決は維持され、確定しました。この裁判は異例の速さで進められ、また調書などもほとんど残されていない謎の多い裁判となりました。その後の中岡艮一の特別な処遇(3度の大赦で1934年に早くも釈放され、戦時中には比較的安全な軍司令部付の兵となっていたなど)とあいまって、本事件に関する政治的背景の存在が推測されています。

今日の誕生日:泉鏡花、小松方正、池内淳子、西田敏行、アレクサンドル・トカチェフ、NOKKO(元レベッカ)、リリー・フランキー、高杉亘、PATA(X JAPAN)、浅倉大介(access)、名倉潤(ネプチューン)、池津祥子、ルイス・フィーゴ、山本未來、尾野真千子、村主千香、上田次郎、アムロ・レイ、糸色望

今日の記念日:ユネスコ憲章記念日、かき揚げの日、文化放送の日、いいよの日、いい刺しゅうの日、いい推しの日

今日の「今日訓」:本日は、1946年11月4日にユネスコ憲章が発効し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が発足した事で「ユネスコ憲章記念日」、11月11日の「めんの日」の上で同じ曜日となる11月4日で「かき揚げの日」、周波数が1134キロヘルツである事から「11月3日」と「4日」が「文化放送の日」、「い(1)い(1)よ(4)」の語呂合わせで「いいよの日」、「いい(11)刺(4)しゅう」の語呂合わせで「いい刺しゅうの日」、「いい(11)推し(04)」の語呂合わせで「いい推しの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する