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2019年10月26日03:14

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リヒャルト・シュトラウス メモリアルイヤー?

大阪フィルハーモニー交響楽団
第532回定期演奏会
2019年10月25日(金)
フェスティバルホール

<出演>
指揮:尾高忠明
オーボエ:フィリップ・トーンドゥル
ソプラノ:ゲニア・キューマイヤー

<曲目>
R.シュトラウス/13管楽器のためのセレナード 変ホ長調 作品7
R.シュトラウス/オーボエ協奏曲 ニ長調
R.シュトラウス/交響詩「死と変容」 作品24
R.シュトラウス/四つの最後の歌

ウィンナワルツでないほうのシュトラウスって言われてわかる人はいったい人口の何割いるんだろう、でも「ツァラトゥストラはかく語りき」なんてみんな聴いたことあるんだよなあと思いつつ、今日はそんなリヒャルト・シュトラウスの没後70周年として組まれたプログラムなのかどうかわからないが(来月行く関西フィルのチラシにはそう書いてある)、ちょっと演奏機会少なめの渋め選曲なので、嬉しがってのこのことでかけた。
前半の2曲は編成の小さな曲で、シュトラウスがただ単にど派手な曲を書くだけの作曲家ではなく、ドイツ・オーストリアの音楽の伝統をきちんと受け継いでいて、サロンなんかで演奏したりできるような感じ。後半の2曲は、まさにコンサートホールで聴くのにふさわしい、オーケストラを聴く醍醐味に溢れている。そして前半後半とも1曲目が初期の作品、2曲目が晩年の作品という組み合わせ。これは指揮者の尾高さんさすがって感じで、シュトラウスは若いうちからすごい作品書いてるんだけど、晩年の円熟味というか、やっぱりシュトラウスは外面だけの作曲家ではないっていうのがよくわかる構成だ。
「セレナード」は今回、コントラファゴットのパートはコントラバスで演奏されたが、これは作曲家公認の代用。コンサートの耳慣らしにちょうどいい感じの曲。
「オーボエ協奏曲」はソロのトーンドゥルさんが素晴らしく、オーボエがこんなにきれいに響いたのは聴いたことがない。トーンドゥルさん、なんとぴたっとした黒の長Tシャツ一枚という衣装で、まあオーボエって吹いてるの見てたら酸欠しそうだから楽な格好で全然OK。いやトーンドゥルさんは結構楽々吹いているように見えた。そう見えただけで本当は大変なんだろうけど。やっぱり会場も素晴らしいオーボエに拍手鳴り止まず、アンコールにブリテンの「オヴィディウス(オウディウス)による6つの変容」(無伴奏オーボエのための)から第1曲が演奏された。初めて聴く曲だったが、ブリテンらしいモノフォニックな曲。ググってみるとまだそんなにCDも出ていないようだが、これからオーボエ吹きにとっては重要なアンコールピースになっていくのでは。
休憩を挟んで後半。「死と浄化」はシュトラウスの交響詩の中では珍しく観念的な作品。ティースプーンを手に取り、このティースプーンでさえも描写できると豪語したという逸話のあるシュトラウスだか、「ドンファン」や「ドン・キホーテ」「アルプス交響曲」の描写性はともかく、「ツァラトゥストラ」のような哲学書を読んだ印象とも違う、もうちょっと抽象的な感覚の作品。この曲を知ったのはあのカラヤンの録音で、「メタモルフォーゼン」とカップリングになったやつ。「メタモルフォーゼン」から通して聴くと、暗→明という流れになっていたのだが、ベルリン・フィルの一糸乱れぬアンサンブルと適度なテンポ感、クライマックスの苛烈極まりないティンパニのロールにやられてしまった。それと較べても仕方ないのだが、今回の演奏会で一番音響的に音が大きい曲であるがゆえに、一番出来が気になった曲だ。今日の席は前から2列目で、細かい弦の音がよく聴き取れる場所なのだが、音が大きくなると反響板からの反射が強すぎるのか、ガビガビとした感じになってしまう。低音はしっかり鳴り響くのだが、ハイカットフィルターがかかったような感じになるのは前回2階の奥で聴いたときと同じ印象。前回気になった金管のやかましい感じはなかった。でもまあ大フィルらしい力強い演奏でした。
で、最後の「四つの最後の歌」。これもカラヤンの名盤があるのだか、今回生で聴くことができて、やはり名曲だなと思った。文字通りシュトラウス最後の作品で、シュトラウスのすべてが詰まっているといってもいいだろう。オーケストラの編成は「死と浄化」と変わらないのだが、音量は声楽つきということもあって半分もないか。しかし見事な色彩感に溢れている。多彩ではあるがどぎつくはなく、歌詞の内容を描写的に表現するも、ただの描写ではなく、象徴的な意味を感じとることができる。第3曲「眠りにつくとき(ヘッセの詩)」のヴァイオリン独奏のある間奏の後の、「そして魂は解き放たれ…」と歌われるところ、音色がまさにほんの少し明るくなって、魂の飛翔が描写されるところ、これほど魂の解放を感じることがあるだろうか。また第4曲「夕映えに(アイヒェンドルフの詩)」は、陽の落ちていくところに人生の終焉を重ね合わせた詩なのだが、冒頭の壮大なオーケストラは夕日だろうか。「もうさすらうのをやめ…」と今までの旅、つまり人生を振り返ると、やがて静かに闇が訪れるように、死もひっそりと顔を出してくる。黄昏、ひばり、さびしさ、静けさ、死などの言葉に合わせてそれらを描写する音楽が出てくるが、徐々に暗闇に包まれていくかのような全体の流れの中に自然と織り込まれている。死に対する恐れやおののき、苦闘は「死と浄化」で描かれたが、ここでの死は毎日やってくる夕映えのようなものだし、曲の最後では、ひばりはそんなことお構いなしに鳴いているのだ。
ソプラノのキューマイヤーさんはオケと一体になった滋味溢れる歌唱でした。
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