10年前、一つの区切りだと思っていた年を過ぎて、気力というものが衰退していったような気がする。漠然と大き過ぎた夢だったり目的が具体的な形で、自分の手中に収めることができなかったからだ。
無力な自分。
無駄に足掻いて、苦しむよりさっぱり諦めた方が楽なんじゃないかって・・・。
で、今は別の意味で無力さを痛感しているけれど・・・。
報道機関が報道しない事実に自分を含めて憤慨しているが、何も変わらない政治。
これを含めると2度目の無力を感じる・・・と思う。
夢が破れてから10年。
人は何のために生きるんだろうなって、これは誰もが通り感じることだと思う。
ほとんどの人は今日の飯を食って生活のために金を稼ぎに仕事に出る。
家に帰ってきたら何か見て、飯を食って寝る。
その日常の繰り返し。
退屈かと言えば、贅沢とも言える。
日本だからこそ言える言葉があって、自由や人権のない国にいれば、その「退屈」な日々が幸福に変身するわけだ。
ただ、そういう発想も当然、大事なのだが、人の欲望には限りがなく、そのために「退屈」を感じるのだろう。
欲に塗れるのも欲を抑える理性が効き過ぎるのも問題とも言える。
いろんな言い訳をしながら、夢から背ける。
自分をも騙して生きているんだろう。
無難や妥協、いくらでも言い逃れようとする言葉は尽きない。
自分にはそんな力なんて持ち合わせてなかったと言ったり、生まれた場所や時代が悪かったとどうしようもないことに責任を転嫁する。
それは無力が見せる幻想で、自分が無力のまま過ごすことの理由にしてしまう。
たった70億分の1の人生だ、とね。
さて、卑下し続けるとそれにも飽きてしまうことがある。
それはどういう心境なのだろうな。
また、歩き出せということなのか?
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