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2019年10月11日17:37

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『天寿国の末裔』710《 奈良の都 》

710《 奈良の都 》
「青丹よし奈良の寧楽の京師は咲く花の匂ふがごとく今さかりなり」小野朝臣老 
世界一の巨大木造建築物である大仏殿と青銅の大仏様。それを作り上げたのは「天平時代」約1250年ほどの前のこと。平城京はこの快挙により世界都市の一つとなる。大陸文化も日本の天平文化に一目を置かざるをえない。 

★平城遷都和同三年(710)
<三月十日 初めて平城京に遷都した。左大臣・正二位の石上朝臣麻呂を藤原京の留守司とした。>
<続日本記 宇治谷孟 上 p.118>

「奈良の奥山」は平城京の東、太陽と月の昇る山々、高円山・春日山・御蓋山より若草山(三笠山)、花山の春日山原生林を含む一帯の総称であろう。「春日の杜」春日大社はそれらの山を借景として麓に鎮座する。

平城京に流れる佐保川はおよそこれらの山々より流れ出す。吉城川・能登川・率川は春日山原生林より清水を集め、佐保川水系として奈良の都の庶民の生活に恵みと潤いを与えてきた。そして大和川へと注ぎ出す。

不比等は平城京建設にあたり、ここに春日社を建て、自然の恵みに感謝している。清水の重要性を理解していた。御蓋山はカムナビの山でもある。 後に奥山には聖多林・大慈山・忍辱山とインドの聖地にちなんだ名が残っており、かつてここは修行僧たちの道場でもあった。道場とすることにより里人の進入を防ぎ、後代に水源を確保したのだろう。

不比等はまず平城京の東の景勝地に四大寺の一つとして興福寺を建て、後に薬師寺・元興寺・大安寺を招致する。奈良盆地の高台に位置するこの場所は眼下に平城京を一望する。

蘇我氏・馬子の桎梏を越え、藤原京の精神を遥かに越えた平城京を建設すること。大陸を、世界を意識した世界都市の一つとして、或いは中心として「奈良の都」を建設すること。

 
人の手による仕事は、「本質が存在に先んずる」のだ。彼は彼の理想を実現すべく生涯を尽くす。律令編纂の思想を、国家建設として体躯となす。そして現実としてどのような世界が自身の目前に展開してくるのか。彼は新しい世界を見てみたい。彼はそれを創り始めた。

不比等は山階寺を平城に移し興福寺とする。
「元興寺」は飛鳥寺・法興寺のことではあるが、蘇我氏一門のこの寺は藤原氏の遷都の野望に組みすることはなかった。いや、いま興福寺の南下の元興寺であることを拒否した。
『去る、和銅三年、(710)帝都平城へ遷るの日、諸寺随って移る。件の寺のみ独り留まる。朝廷更に新寺を造りて、其の移らざるの蕨を備う。いわゆる元興寺なり』とある。

「和銅四年、(711)辛亥、代官等寺並、藤原宮焼亡」とある。

新都の建設に、旧都の存在はじゃまだったのだろう。妥協なき意志と兵法をそこに見る。
後に元興寺も奈良の都に移る。奈良に移ることでしか再建されない。
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