mixiユーザー(id:21004658)

2019年10月11日17:32

45 view

『天寿国の末裔』707《平城遷都》

707《平城遷都》

元明天皇は、慶雲四年正月(707)に遷都を詔する。

 <(略)昔、殷の諸王は五回遷都して、国を中興したと称えられ、周の諸王は三度都を定めて、太平の誉れを残した。安んじてその久安の住居を遷そう。正に今平城の地は、青竜・朱雀・白虎・玄武(四禽図)の四つの動物が、陰陽の吉相に配され、三つの山が鎮護の働きをなし亀甲や筮竹による占いもかなっている。ここに都邑を建てるべきである。(略)>
<続日本記 宇治谷孟 (上)p.99>

文武天皇の死は元明天皇の決意を促した。

新たな時代精神が「都」を必要としたのだ。飛鳥の地は、(難波?)近江朝をのぞいて歴代天皇ゆかりの地であり、しかし、もとは蘇我氏の勢力圏である。しがらみに巻かれ旧都を再編するより、新天地を開拓する方が能率が良いのだ。それは現代でも旧市街の再開発・再構築より、ニュータウン建設のほうが遥かにスピーディーであるのと似る。
そして明日香川の、行く度かの氾濫が有った。明日香川は平素は恵みの川であっても、上流域で豪雨が有れば暴れ川となり果てた。また地政学的にそれは度々藤原京を直撃したようである。よって古寺の廃墟は下流方向・西側に全て倒されている。地形と水利の咬み合わせが上手く機能しなかったのだ。

新天地に理想郷を建設すること、藤原不比等はこの時に右大臣に任命される。有力氏族に囲まれて戦々恐々であったのかもしれない。しかし他者からは藤原氏の野望と目されようとも、妥協無く帝都建設を推進する。彼は新たな世界を夢見ていた。彼は水利を良く考えていた。平城京の北に水上池の在るのはその為である。

慶雲四年(707)
首皇子七歳の時、文武天皇は崩御せらる。首皇子は幼少であるため皇位継承は見送られ、祖母の阿閃皇女が元明天皇となる。四十七歳。このことは近く前例がある。
阿閇皇女(元明天皇)は天智天皇の第四皇女である。天武天皇の皇太子、草壁の皇子の后となる。天武十二年(684)に軽皇子(文武天皇)を出産せられ、元正天皇、吉備内親王を産せらる。しかし天武天皇は朱鳥元年(686)に崩ぜらる。皇子が誕生し、二年後のことである。まだ壬申の乱の余燼がのこり、(大津の皇子の謀反もあった)人心安定のため幼い王子に変り、天武天皇の皇后(鵜野皇女、高天原広野姫)が、持統天皇となる。
政治の空白期間を避けるためと、同族による内乱を避ける為でもあるだろう。



(C)1998 Fuutarou Ashihara.
コメント

3 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する