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2019年10月08日20:56

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『天寿国の末裔』「藤原氏の野望」 書きかけ

『天寿国の末裔』「藤原氏の野望」

 天智・天武が「天皇」となった。「王の中の王―大王」として諸豪族の王が競合する存在ではなくなった。

 天皇は指導者として「諸豪族の王や、国民全体に号令する」存在となったのである。

 それは持統・文武・元明・元正・聖武と、続けられる事になった。

 ここに不比等は一計を試みる。我が娘ー光明子を皇統譜に位置付ける事である。



 この事は他氏族にも「見え見え」であるから、「そうはさせまい」との反動も生まれれば、「勝手にやっとれ」との物見たちもいるだろう。

 その反動の筆頭が「長屋王」に見られるのも「無理なからぬ」事でもある。



 後年「長屋王邸跡地」より「長屋皇宮」の木簡が発見される。(日本の歴史04―平城京と木簡の世紀 渡辺晃宏 講談社学術文庫 P.113)

 長屋王は、天武の直系・武市皇子の子息である。母は天智の娘・御名部皇女であり、持統の意思の無ければ「次期天皇」は彼を指していたであろうか。

 また側室は吉備内親王であり武市皇子のように母親が豪族の出身ではない(宗像氏・尼子娘・あまこのいらつめ)。父母共に皇族・皇親である。

 両者の対立は下記に表面だった。後に言われる「大夫人称号事件」である。



【神亀元年】(724)

・『二月四日 皇太子即位、詔して天下に大赦し、文武の職掌・高齢・孝子・節婦等を表彰し給ふ。』
・『是日 舎人・新田部、両親王に封戸・位階を増進し、長屋王を左大臣とす。』

・『二月六日 勅して、御母藤原宮子夫人を大夫人(おおきさき)と称せしめ給ふ。又、内親王及王等に叙位し給ふ。』

・『三月二十二日 長屋王等の奏言により、皇太夫人・大夫人の用語を正さしめ給ふ。』 


 長屋王『うやうやしく今年二月四日の勅を拝見しますと、藤原夫人を天下の人々はみな大夫人と称せよとあります。しかし、私ども謹んで公式令を調べますと皇大夫人と称することになっています。

 先頃の勅号に依ろうとすれば、皇の字を失うことになり、令の文を用いようとすれば、違勅となることを恐れます。いかに定めればよいかわかりませんので、伏してお指図を仰ぎたいと思います」

 聖武天皇「文書に記す場合には皇太夫人とし、口頭では大御祖(おおみおや)とし、先勅での大夫人の号を撤回し、後の名号を天下に通用させよ」

( 日本書紀 上 宇治谷猛 講談社学術文庫 p.260 )


 上記の事は暗に「藤原宮子」が皇親でないことを示す。それを聖武天皇は「文書に記す場合には皇太夫人とし、口頭では大御祖とし、先勅での大夫人の号を撤回…」するとしたのである。

 天皇と議上官としての記録上の問題でもある。文書に記すにあたって「皇」の文字のあることは藤原氏にとっても「名誉ある事象」として受けるべきである。

 しかし「先勅での大夫人の号を撤回…」するとなると「長屋王がケチをつけた」と見る向きもある。ここで長屋王は「目をつけられた」のであろう。しかしこの事は後に大事件として発生してしまう。

 それは聖武天皇の歩む道も必ずしも平淡ではない事を示す。


 年表を追ってつぶさに見てゆきたい。


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