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2019年10月05日11:40

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◎ 公私混同 ◎  

「若さ」第507号
※ 四方山話 ※

◎ 公私混同 ◎

   豊かで平穏な生活を求めない人はいないでしょう。
 ところが有史以来、人類の生活の中で争い事の無かった時代は皆無と言えます。 
 個々の人間が個々の環境で個々の考え・行動をするように、家族、地域、国などそれぞれの考え方・方針で動きます。
 その究極の指揮者は一人です。
 国民が選んだ代表者でも、多数を得たというだけで(多くの反対者もいる)、代表者と云えども個人としての考え・方針は基本にあります。
 公私を弁えることは当然のことながら、私を捨てて国家・国民のために命を懸けて政局に当たるといった政治家がいるだろうか。

 開国当時、明治のリーダー・政治家には、国家・国民のために(私が1日、勉強を休めば、日本の進歩が1日遅れると言った政府派遣の留学生。
 「井戸塀」といわれた政治活動に私財を使い果たした政治家)憂国の士がいました。 

 一党独裁の基盤の上にある指導者が、終身国を掌握することにどれだけ公正が期待できるか。  
 民主主義とは云うものの、米トランプさんの国内・経済優先も政権維持、目先の選挙戦対策としか思えません。
 「公私混同」、最も重視しなければならないのは、権力者・社会のリーダーとされる人でしょう。 

   
本 日本の文豪 本 (第3回)
   石川啄木を書こうとした時に、ハテ啄木を「文豪」と称して良いものか?と思って調べてみると、  『「文豪」と称することに疑念がありますが、明治時代の歌人、詩人です 』とあり、  別の解釈では『非常にすぐれた文学者。大作家。 』、  『著名な文学者に対する一種の敬称』との考え方もありました。 
 第1回の「松尾 芭蕉」も歌人であったことから、大きく文学関係者として、啄木を掲載します。 

 石川 啄木  いしかわ たくぼく 
                      明治19年(1886)2月20日 〜     
                      明治45年(1912)4月13日  26歳・没。   

 岩手県南岩手郡日戸村(現・盛岡市日戸・ヒノト)生まれ。 
 戸籍名:工藤一。 父:石川一禎・曹洞宗日照山常光寺住職。 母:カツの長男として出生。   姉2人と妹1人。  
 明治20年3月、父が渋民村(現・盛岡市渋民)宝徳寺住職に転任。                  明治24年(1891)5歳で渋民尋常小学校入学。   28年盛岡高等小学校入学。         31年(1898)盛岡尋常中学校(現・盛岡一高)入学。
 3年先輩に金田一京助、10年後輩に宮沢賢治がいる。

 34年(1901)「岩手日報」に短歌を発表し、「翠江」の筆名で掲載された。
 雑誌「明星」への投稿で新詩社の集まりに参加、11月に与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねる。
 36年2月、結核の発病もあり(17歳)、父に迎えられて盛岡へ帰る。
 5月から「岩手日報」に評論を掲載、12月には「啄木」の筆名で「明星」に長詩「愁調」を掲載し、歌壇で注目される。
 37年1月、堀合節子と婚約、9月〜10月に単身で青森、小樽を旅行し、義兄の小樽駅長宅に宿泊。  31日、詩集出版を目的に再び東京に出る。  
 38年1月、新詩社の新年会に参加。
 3月、渋民村では宗費滞納のため一家が宝徳寺を退去。
 5月3日、第一詩集「あこがれ」を小田島書房から自費出版。 上田敏の序詩、 与謝野鉄幹の跋文がよせられた。
 5月12日、啄木不在の中で、堀合節子との婚姻届を父親が盛岡市役所に提出。
 親戚が集まった結婚式にも出席しなかった。啄木は満19歳。  
 6月4日、盛岡に帰り、父母、妹光子との同居で新婚生活を送る。
 39年2月、函館駅長の義兄を訪ねて、一家の窮状を相談するも解決できず。
 2月25日、長姉田村サダが結婚先の秋田県鹿角郡にて肺結核で死亡。
 3月4日、妻と母を連れて渋民村に戻る。
 4月14日、渋民尋常高等小学校の代用教員として勤務。
 同月に徴兵検査を受けたが筋肉薄弱で徴兵免除。6月、小説を書き始める。
 12月29日、長女京子が生まれる。

 40年1月、北海道・函館の文芸結社・苜蓿社の原稿依頼があり、4月1日、新生活を北海道で開こうと教職の辞表を出し、5月5日に苜蓿社の松岡蕗堂の下宿に身を寄せる。
 妻子は盛岡の妻の実家。  妹は小樽駅長の義兄に託してのスタートであった。
 5月、函館商工会議所の臨時雇い、  6月、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となり、7月〜8月に家族を北海道に呼び寄せる。
 8月25日、函館の大火で失職。 札幌、小樽、釧路(釧路新聞・編集長)を経て、41年3月、東京での創作活動への憧れが募り、上京を決意した。

 41年4月28日、東京・千駄ケ谷の新詩社に滞在。
 5月2日、与謝野鉄幹に連れられ森鴎外宅での観潮楼歌会に出席(参会者8人)。
 中学で一学年上だった金田一京助の援助で、本郷区菊坂町赤心館に止宿し、  6月に「東海の小島・・・」「たはむれに母を背負ひて・・・」など、後になって広く知られることになった歌を作り、7月に246首を「明星」に発表する。
 11月「東京毎日新聞」に小説「鳥影」を連載。  

 42年1月1日、当用日記に「今日から24歳」と記す。
 「スバル」創刊、発行名義人となる。
 3月1日、「東京朝日新聞」の校正係となる。  42年6月、函館から妻子と母が上京し、本郷弓町の床屋「喜之床」の2階へ移る。  

 43年3月「二葉亭全集」の校正を終え、引き続き出版事務全般を担当。
 12月1日、歌集「一握の砂」短歌551首、東雲堂書店刊、初版刊行。

 44年12月、腹膜炎と肺結核を患い発熱が続く。
 明治45年(1912)  3月7日、母・カツ死去。
 4月13日、小石川区久堅町にて啄木、肺結核のため死去(26歳)。
 妻・節子、父・一禎、友人の若山牧水が看取る。
 戒名は啄木居士。  

 大正2年(1913)、一周忌を機に函館・立待岬に墓碑が建てられ遺骨も移された。
 石川 啄木は、天性の秀でた才能があったとは言え、詩歌への情熱が格別でした。
 若くして肺結核を患いながら、飛行機も新幹線も無い時代に、盛岡、東京、函館、小樽、札幌、釧路、再度の東京など生活と詩歌・文筆活動の場を求め続けた生涯でした。

 歌集「一握の砂」より。
 ★ 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる                                          歌集巻頭の歌:青森県大間崎(原風景)に啄木歌碑あり。           
 ★ はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る                                
 ★ たはむれに母を背負ひて そのあまり軽(かろ)きに泣きて 三歩あゆまず                                 陸前高田に歌碑建立(平成24年、津波で流失・再建)。


※ 今日は何の日 ※

5日 時刻表記念日。明治27年(1894)庚寅新誌社が月刊時刻表「汽車汽船旅行案内」を刊行。

6日 昭和29年(1954) 憲政の神様・尾崎行雄逝く(95歳)。安政5年(1858)生まれ、第1回衆議院議員選挙から連続25回当選。政治の浄化に貢献。

6日 国際協力の日。昭和62年(1987)外務省と国際協力事業団(JICA)が制定。

7日 昭和20年(1945) 第1次引揚業務(10/7浦賀〜10/24浦賀)南洋ヤップ島から、1,280人帰国。

8日 国立公園制定記念日。昭和7年(1932)施行された「国立公園法」により国定公園12カ所が選定された。大雪山、十和田湖、富士山・アルプス、吉野・熊野、瀬戸内海・大山、阿蘇・雲仙・霧島など12カ所。

8日 平成25年(2013) プロ野球・楽天の田中将大(24)投手が、今季連勝記録を24とし、昨シーズンから28連勝の新記録。楽天は創設9年でパ・リーグ初優勝、連覇を狙う巨人に4勝3敗で日本一となった。

9日 世界郵便デー。明治7年(1874)万国郵便連合発足。(日本は明治10年に加盟)。

9日 大正5年(1916) 18代目内閣総理大臣に寺内正毅(17・大隈、)。

9日 昭和20年(1945) 第44代目内閣総理大臣に幣原喜重郎(前東久邇)。

9日 トラックの日。平成4年(1992)制定。ト(10)ラック(9)の語呂合わせ。

10日 昭和39年(1964)東京オリンピック開会(第18回夏季)開会宣言:昭和天皇。93カ国・地域参加、5,133人参加。20競技・163種目。金16、銀5、銅8、計29(金の数で3位)。10月24日閉会。

11日 昭和15年(1940) 「起源2600年記念特別観艦式」(横浜沖)で「宗谷」が拝観艦(見学者を乗せる艦)として参加。

※ 季節の句 ※

              どの家も  新米積みて  炉火燃えて     高野素十

              秋水の   流れ止まねば 己れ老ゆ      石塚友二

               年ごとに   孫逞しき   運動会      若さ

                                          以上・「若さ」第507号   










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