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2019年10月01日16:13

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日本の老舗

■常連さんゴメン、もう限界…消費増税複雑で老舗続々閉店
(朝日新聞デジタル - 09月30日 12:20)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5807778
日本の老舗で企業集団になったのは鴻池屋と泉屋と越後屋で、鴻池屋は日本で最初の清酒を造った造り酒屋から両替商も展開して、酒屋は閉鎖して両替商からの銀行の三和銀行はUFJから倒産で消えてしまった。
越後屋は松坂商人で現金決済掛け値無しで江戸に店を出して大発展した。経営は11家での合議制で、製販一体の企業形態で有った。三井商事の企業形態の源流でも有って、低廉な賃金の労働力を求めて地方展開して絹や反物を生産して、都市部で相場より少し安い金額で莫大な利益を上げた。江戸の本店以外の展開は従業員の暖簾分けで展開して、越後屋の名称を使う事を許す事で、従業員のモチベーションとロイヤリティを確保した。但し一門か番頭か手代以下とでは家紋の形態を少し変えていて、人的資源管理では極めて先進性を持っていて時代に合わせてイノベーションができた原動力で有る。地方との資金の遣り取りの必要性から両替商も開設していた。これは他国みたいに危険な貨幣や貴金属の現物全額輸送を止めて、両替商の本支店間での決済システムにして略奪の危険性防止も行なっていた。
泉屋は大溝藩住友正克の弟から始まる近江商人で別子銅山開発精錬から始まる。住友グループの社長会が白水会と云うのは泉屋の泉を分解して使用していて、当主は代々泉屋博古館の館長になる。創立してしばらくしてからは、当主は君臨すれども統治せずで、大番頭が経営に関して全ての権限を握り、当主の裁可を求める形態で有った。その関係で文化による社会貢献に対して極めて熱心で、KS鋼への投資中之島図書館や大阪市立東洋陶磁博物館のコレクションの寄贈などしている。戦後の財閥解体までは浮利を求めずで、両替商と金属供給など原材料供給が中心の実業企業集団だった。財閥解体の時は井華産業と住友本社を合併させて、住友商事と住友不動産にして雇用と事業を守った。財閥解体の為に金融資本による支配や持株会社は法律で禁止された為に、連携会社として住友生命と住友海上と住友銀行と住友信託銀行で安定株主化を図った。他の財閥も同じように対応している。
老舗は時代の変革期キチンと対応できて、その時代でいつでも発展出来るのが必須条件で有るのだ。



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