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2019年09月13日00:34

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9月13日の日記

今日の出来事:1366年−貞治の変、1507年−永正の乱:天水越の戦い、1832年−鼠小僧処刑、1868年−会津戊辰戦争:本宮の戦い、1868年−北越戊辰戦争:慈光寺の挙兵、1912年−明治天皇大葬:乃木希典大将が殉死、1974年−ハーグ事件、1985年−任天堂がファミコンソフト「スーパーマリオブラザーズ」を発売

今日は、貞治の変です。室町幕府の執事・細川清氏が、失脚「康安の政変」して南朝へ降伏した後、斯波高経は2代将軍・足利義詮の信任を受け、4男の義将を執事に推薦しました。細川清氏を失脚させた有力守護・佐々木道誉は、婿である斯波高経の3男・氏頼を推薦していましたが果たせず、斯波高経に恨みを抱きました。斯波高経はさらに5男の義種を小侍所、孫の義高(次男・氏経の子)を引付頭人につけました。その後、義種を侍所に推して幕府中枢の要職を一族で集中させていきました。将軍・足利義詮は突如、斯波高経の陰謀が露顕したと称して軍勢を三条坊門の幕府に集結させ、斯波高経に対し「急ぎ(守護国へ)下向すべし。さもなくば治罰する」と命じる使者を送りました。抵抗できないと悟った斯波高経は自邸を焼き払い、子息の義将・義種ら一族・被官を伴って越前へと落ち延びて行きました。斯波高経らが越前に入ると、幕府は京極高秀(佐々木道誉の子)、赤松光範、山名氏冬、土岐頼康、畠山義深らによる大軍を編成し、斯波高経の籠もる杣山城及び斯波義将の拠る栗屋城を包囲しました。しかし、斯波高経は城内で病没しました。斯波氏の没落後、足利義詮はすぐにその領国である若狭・越前・越中・摂津などの守護職を没収して幕府の御料所とし、奉行人を派遣して寺社本所領の返付や半済の停止を執行しました。これにより足利義詮は有力守護権力を抑制するとともに公家・寺社からの信頼を取り戻し、室町幕府の安定性を大いに高める事となりました。その後、仁木義長も幕府に帰参し、斯波義将も許されて上洛して越中守護に復帰し、さらに讃岐に下っていた細川頼之(清氏の従兄弟)も上洛し、将軍義詮の下に有力守護らが従う足利幕府体制が確立しました。しかし、足利義詮はこの後、発病して没しました。遺言により、管領・細川頼之が新将軍・足利義満を支える体制となりました。しかし、足利義満・細川頼之による守護抑制政策は、次第に反細川頼之派を増やす事となり、細川頼之の専断は足利義詮政権における斯波高経の権勢の再来のようになります。結局は斯波高経が「貞治の変」で失脚したのと同様、「康暦の政変」によって細川頼之は罷免・出家を余儀なくされ、代わって斯波高経の子・斯波義将が管領となります。足利義満が政変を利用して将軍権力を強めていったのも父の「貞治の変」と同工異曲であり、やがて土岐氏・山名氏・大内氏を討った足利義満は、室町幕府の最盛期を築く事となります。

次に、永正の乱:天水越の戦いです。越後守護・上杉氏は代々、守護領国の統治を守護代・長尾氏らに委任していました。しかし、1494年に越後守護職を継承した上杉房能は、直接支配に乗り出しました。1506年に越後守護代・長尾能景が越中国での「般若野の戦い」で討死すると、その子・為景が家督を継いで越後守護代となりました。1507年、長尾為景は上杉房能の養嗣子・上杉定実を擁立すると急襲し、上杉房能が拠る越後国府中の守護館を包囲しました。9月13日、上杉房能は脱出し、兄で関東管領の上杉顕定を頼るために関東方面へと落ち延びようとしました。その途中の直峰城に立ち寄りましたが、長尾為景軍の追撃を受けて松之山に逃れました。しかし、松之山郷・天水越で長尾為景方の追討を受け、午後2時頃に丸山信澄と共に自害しました。この合戦の後、長尾為景は敵対する揚北衆の本荘氏や色部氏らを攻めて降し、翌年には上杉定実が幕府より越後守護に補任され、長尾為景がその補佐を命じられました。

その次に、鼠小僧処刑です。鼠小僧次郎吉は、江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯です。本業は鳶職でしたが、義賊の伝承で知られています。歌舞伎小屋・中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎の息子として、元吉原(現・日本橋人形町)で生まれました。10歳前後で木具職人の家へ奉公に上がり、16歳で親元へ帰りました。その後は鳶人足となりましたが、不行跡のため父親から25歳の時に勘当されました。その後は賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになりました。1823年以降、武家屋敷の奥向に忍び込む事、28箇所32回に及びました。しかし、1825年に土浦藩上屋敷(現・日本橋蛎殻町二丁目、藩主・土屋彦直)に忍び込んだ所を捕縛されました。南町奉行所の尋問を受けましたが「初めて盗みに入った」と嘘をついて切り抜け、入墨を入れられた上で中追放の刑を受けました。その後、一時は上方へ姿を消しましたが、江戸に密かに舞い戻ると父親の住んでいる長屋に身を寄せました。しかし、賭博の資金欲しさに、再び盗人稼業に舞い戻りました。その後、7年にわたって武家屋敷71箇所、90回にわたって忍び込みました。そして、ついに1832年6月3日、日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷(藩主・松平忠恵)で捕縛されました。北町奉行・榊原忠之の尋問に対し、10年間に荒らした屋敷95箇所、839回、盗んだ金3000両余りと鼠小僧は供述しました。しかし、本人が記憶していない部分もあり、正確な金額は未だに不明です。3ヵ月後の9月13日、市中引き回しの上で獄門の判決が下されました。この刑は、本来なら凶悪犯(放火や殺人)に適用される刑で、この判決は面子を潰された武家の恨みのためでした。引き回しの際には牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで、有名人の鼠小僧を一目見ようと野次馬が大挙して押し寄せました。市中引き回しは、当時の見世物となっていました。みすぼらしい外見だと見物人の反感を買う為、特に有名な罪人であった鼠小僧には、美しい着物を身に付けさせて薄化粧をして口紅まで施されました。五尺に満たぬ小男で動作敏捷でしたが、捕まった時は碌な家財道具も無く金もありませんでした。処刑は、小塚原刑場にて行われました。享年36でした。当時の重罪には連座制が適用されていましたが、鼠小僧は勘当されていたため肉親とは縁が切れており、数人いた妻や妾も捕縛直前に離縁状を渡していたため、天涯孤独の身として刑を受けました。この自らの行いに対して、あらゆる人間を巻き込まずに済ませたという事も、鼠小僧が義賊扱いされる要因の一つとなりました。鼠小僧は「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与える」と言う伝承があります。この噂は、捕縛される9年も前から流れていました。鼠小僧が捕縛された後に役人による家宅捜索が行われましたが、盗まれた金銭はほとんど発見されませんでした。彼が大名屋敷を専門に狙った理由は、敷地面積が非常に広いため中に入れば警備が手薄であった事、男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥がはっきりと区別されており、金がある奥で発見されても女性ばかりで逃亡しやすいという事が挙げられています。大名屋敷は、参勤交代等の江戸幕府の経済的な締め付けや謀反の疑いを抱かせる怖れがあるため、警備を厳重に出来ませんでした。また、面子と体面を守るために被害が発覚しても公に出来ませんでした。鼠小僧の墓は、両国の回向院にあります。参拝客は長年捕まらなかった幸運にあやかろうと、墓のお前立ちを削って持ち帰ってお守りにしています。また、南千住の小塚原回向院、愛媛県松山市、岐阜県各務原市にも、義賊に恩義を受けた人々が建てたと伝えられる墓があります。

その次の次に、会津戊辰戦争:本宮の戦いです。新政府軍に三春藩が帰順し、平潟方面軍が到着して合流を果たしました。数を倍増させた新政府軍は、二本松領の糠沢と本宮に二本松藩の兵士が展開している事を知り、大垣藩、三春藩、土佐藩、黒羽藩らの諸隊を本宮に向かわせました。しかし、それらの諸藩とは別に薩摩藩と土佐藩が各自の判断ですでに動き、深夜に糠沢に奇襲を敢行して大勝、二本松藩兵26名を戦死させました(糠沢の戦い)。この薩摩藩の奇襲は、本宮へ向かった新政府軍には前もって通達がなされておらず、報告も行われていない抜け駆けに等しいものでした。この薩摩藩の独断専行は二本松藩、新政府軍の双方に影響を及ぼしました。本宮にあった二本松藩兵は糠沢を援護するため兵を分け、本宮と糠沢を隔てていた阿武隈川を船で渡って向こう岸の高木に到着すると、糠沢へと向かわせようとしました。しかし、その二本松藩4小隊の進軍途中、本宮に向かっていた新政府軍の黒羽藩と遭遇、すぐに後続の新政府軍と抜け駆けしていた薩摩藩、土佐藩の部隊が殺到して二本松藩兵は撃破されました。新政府軍はそのまま本宮の攻略に向かいましたが、高木と本宮の間は阿武隈川が隔てており、渡河のためには舟の確保が必要でした。新政府軍の先鋒となっていた黒羽藩兵と土佐藩兵は、二本松藩の舟を奪取しようと河に飛び込み、狙撃によって土佐藩「断金隊」の隊長が戦死するなどの被害を受けました。これに対し、地理に明るい三春藩、守山藩の先導により、黒羽藩が舟を確保するまで新政府軍は大砲と銃火を厚くして援護を続けました。舟を手に入れた新政府軍は火力で制圧した後に敵前で渡河し、本宮になだれ込んで二本松藩兵を撃破してこれを占拠しました。

そのまた次に、北越戊辰戦争:慈光寺の挙兵です。村松藩内では「尊王論」が台頭し、「尊王攘夷」と軍制改革を主張する一派と対立しました。1866年に「村松七士事件」が起こり、「保守門閥派」の筆頭家老・堀右衛門三郎が尊王攘夷派7名を処刑するなど藩内は大混乱を極めました。このため「戊辰戦争」では、新政府に与するべきと主張する「正義党」の近藤安五郎を中心とした一派と、第11代藩主・堀直賀を中心とした保守的な「佐幕派」に藩論が分裂しました。「奥羽越列藩同盟」が成立すると、村松藩も同盟軍として戦わざるを得なくなりました。しかし、薩摩藩の黒田清隆が率いる1000人余の征討軍が新発田藩の内応によって、現在の新潟市の海岸に上陸すると状況が一変しました。新発田藩は、即座に「奥羽越列藩同盟」を離脱して征討軍に加わりました。それを知った村松藩「正義党」が、実力で藩首脳部に反旗を翻したのが「慈光寺の挙兵」です。1868年9月13日、彼らは1861年に没した第9代藩主・堀直央の末子・直弘(8歳)を擁して決起しました。城郭のような石垣を築いた大きな寺院・慈光寺に300人の村松藩士が立て籠もったのでした。9月16日、堀右衛門三郎らは藩主・堀直賀を連れて米沢へ逃げました。近藤安五郎は、長岡で新政府軍の参謀・吉井友実に勤王帰順を申し出ました。9月20日に新政府軍が村松に到着すると、慈光寺から出て帰順しました。戊辰戦争後、堀右衛門三郎と斎藤久七が斬首、坪井静作は切腹、堀直賀は隠居を命じられました。

そのまた次の次に、明治天皇大葬:乃木希典大将が殉死です。乃木希典は、「日露戦争」の休戦を奉天の北方に位置する法庫門にで迎え、東京・新橋駅に凱旋しました。「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語した旅順要塞の攻略が極めて困難であった事や、二人の子息を亡くした事(「南山の戦い」で長男・勝典、「第三回旅順攻囲戦」で次男・保典)から、乃木希典の凱旋は他の諸将とは異なる大歓迎となりました。対する乃木希典は、日本へ帰国する直前、「旅順攻囲戦」で多数の将兵を戦死させた自責の念から、戦死して骨となって帰国したい、日本へ帰りたくない、守備隊の司令官になって中国大陸に残りたい、箕でも笠でもかぶって帰りたい、などと述べ、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待もすべて断りました。凱旋後、乃木希典は明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読しました。乃木希典は、復命書を読み上げるうちに涙声となりました。さらに乃木希典は明治天皇に対し、自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上しました。しかし天皇は、「乃木の苦しい心境は理解したが今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ」と述べました。その後、明治天皇は自身の孫(後の昭和天皇ら)が学習院に入学する事から、その養育を託すために、乃木希典を学習院院長に指名しました。迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、乃木希典は、勤勉と質素を旨としてその教育に努力しました。昭和天皇は、乃木希典を明治天皇が崩御してからは、その遺言に従って「院長閣下」と呼び、後に自身の人格形成に最も影響があった人物として乃木希典の名を挙げるほどに親しみました。当時、裕仁親王は皇居から車で学習院まで通っていましたが、乃木希典は徒歩で通学するようにと指導しました。裕仁親王もこれに従い、それ以降どんな天候でも歩いて登校するようになりました。明治天皇が崩御後の1912年9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)及び光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行の「中朝事実」と三宅観瀾の「中興鑑言」を渡し、熟読するよう述べました。当時10歳の裕仁親王は、乃木希典の様子がいつもとは異なる事に気付き、「閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたと言う事です。9月12日の夜に「遺言条々」を、9月13日に他の遺書や辞世等を作成しました。そして、明治天皇大葬後の9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町自邸居室で明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経及び第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命しました。夫人(静子)は、将軍が割腹するのとほとんど同時に、護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり、乃木希典にやや遅れて絶命しました。乃木希典はいくつかの遺書を残しました。そのうちでも「遺言条々」と題する遺書で、乃木希典の自刃は「西南戦争」時に連隊旗を奪われた事を償うための死である旨を述べ、その他に乃木希典の遺産の取扱に関しても述べていました。乃木希典の死去を受け、「乃木神社」の建立、「乃木邸」の保存、新坂を「乃木坂」への改称等がなされました。その後、京都府、山口県、栃木県、東京都、北海道など、日本の各地に乃木を祀った「乃木神社」が建立されました。
乃木坂は、江戸時代には「幽霊坂」と呼ばれていました。また、「行合坂」、「膝折坂」とも呼ばれました。明治以降、北側が赤坂新坂町、南側が赤坂檜町、赤坂一帯には軍関係の施設が点在したため、軍人が移り住んできました。その中に、乃木希典もいました。「乃木坂」の名は1912年9月、大日本帝国陸軍の重鎮で学習院院長であった乃木希典大将の殉死を悼み、赤坂区議会が改名を議決しました。更にその周辺の地域も「乃木坂」と呼ぶようになり、1972年10月20日に開業した営団地下鉄・千代田線の駅が「乃木坂駅」と命名された事により、地域名として一般化しました。「乃木坂」の範囲は、赤坂八・九丁目、南青山一丁目、六本木七丁目の一部、外苑東通りと赤坂通りの「乃木坂陸橋交差点」を中心に、北は山王病院、東は赤坂小前の交差点、西は乃木坂駅の西端、南は東京ミッドタウン西の交差点を結んだ四辺形の中で、この地域に「乃木坂」の名を冠した施設や建物が多くあります。現在では、アイドルグループの「乃木坂46」のグループ名の由来にもなりました。

さらに次に、ハーグ事件です。日本赤軍の和光晴生と奥平純三、西川純が、オランダのハーグにあるフランス大使館を短銃武装で占拠しました。この際にオランダの警官2名が犯人グループに撃たれて重傷を負いました。重信房子と吉村和江が共犯として関与しました。犯人らは大使館員ら11名を人質にし、「身代金」として30万ドルと日本企業の駐在員誘拐を目論んだものの失敗し、フランス当局に収監中の日本赤軍メンバーである「山田義昭」の釈放を要求しました。オランダ政府は最終的に30万ドルを払って人質を解放、フランス政府は山田義昭を釈放しました。その後、犯人グループは逃亡先のシリアで投降しました。また、事件の余波でオランダは、女王によるパレードを簡素化する事になりました。

最後に、「スーパーマリオブラザーズ」を発売です。任天堂が発売したファミリーコンピュータ用ゲームソフトで、日本国内で681万本以上、全世界では4024万本を売り上げ、「世界一売れたゲーム」としてギネスブックに登録されました。日本国内のゲームソフト売上歴代1位の記録を持っており、シリーズ2番目の売り上げである「New スーパーマリオブラザーズ」とも約70万本差、世界売上では約1400万本の差があります。また、Wiiのバーチャルコンソールでも、最もダウンロードされたゲームとなっています。社会現象とも言える空前の大ブームを巻き起こし、ファミコンゲーム、ひいては家庭用ゲームの認知度を高める事に最も貢献したソフトであると言われています。シリーズ化されて数多くの続編が出ており、またシリーズ以外にも多くの追随するゲームを生みました(マリオシリーズ)。また、米国IGNで「史上最も影響力があったゲーム100選」において1位に選出されています(2位は「テトリス」)。

今日の誕生日:山東京伝、幣原喜重郎、山田洋次、宮内義彦、井上大輔、ピーター・セテラ(元シカゴ)、島木譲二、鳩山邦夫、玉置浩二(安全地帯)、三原じゅん子、マイケル・ジョンソン、砂原良徳(元電気グルーヴ)、サンコンJr.(ウルフルズ)、武田美保、佐田正樹(バッドボーイズ)、松坂大輔、出雲阿国、鈴木えみ、小林可夢偉、辻井伸行、高畑裕太、大園桃子(乃木坂46)、マリオ、ルイージ

今日の記念日:中秋の名月(十五夜)、すっぽんの日、月見酒の日、世界の法の日、司法保護記念日、北斗の拳の日

今日の「今日訓」:本日は、「中秋の名月(十五夜)」で「月見」です。旧暦8月15日〜16日の夜の月をこう呼びます。「月見酒の日」、「月とすっぽん」の語呂合わせで「すっぽんの日」となりました。1965年9月13日〜9月20日までアメリカ合衆国のワシントンで「法による世界平和第2回世界会議」が開催され、何人も正式な法律以外に支配される事はないという「法の支配」を国際間で徹底させる事で世界平和を確立しようという宣言が採択された事を記念して「世界の法の日」、犯罪の予防と犯罪者の更生を見守る司法保護司や保護機関の働きについて多くの人に知ってもらうための日で、明治天皇の大喪を記念して出された恩赦の詔勅が、釈放者を保護する事業のきっかけとなった事から「司法保護記念日」として制定されました。1983年に「北斗の拳」が「週刊少年ジャンプ」で連載を開始した事で「北斗の拳の日」となりました。
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