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2019年08月15日14:22

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74回目の終戦記念日

初参列の天皇陛下、上皇さまの表現引き継ぎ平和を祈念 戦没者追悼式
(2019年08月15日 12:07 毎日新聞)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5748838
『74回目の終戦記念日を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相、戦没者遺族ら約7000人が参列し、日中戦争と第二次世界大戦で犠牲になった約310万人を悼んだ。5月の即位後初めての参列となる天皇陛下は、式典でおことばを述べられ「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」と昨年の追悼式で上皇さまが用いた表現を引き継いで、平和を祈念した。


 安倍首相は歴代首相が言及してきたアジア諸国の戦争犠牲者への「哀悼の意」には今年も触れず、世界の平和と繁栄に歩んできた戦後日本の姿勢を強調。「世界が直面している課題解決に向け、国際社会と力を合わせて全力で取り組む」と述べた。


 正午に1分間の黙とうをささげた後、天皇陛下はおことばで戦後74年を振り返り「多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります」と述べた。また「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い」との表現で、不戦と平和を願う思いを示した。


 追悼の辞を述べる遺族代表は、父をニューギニア島で亡くした横浜市の森本浩吉さん(77)が務めた。


 厚生労働省によると、参列予定の遺族は4〜97歳の5391人。戦没者の子どもが2751人(51%)で、2001年から19年連続で過半数を占めた。一方、平成が始まった1989年は3269人と約半数に上った戦没者の妻は5人(0・1%)と過去最少を更新。同年の参列者で戦後生まれは45人だったが、今年は過去最多の1650人で初めて3割を超えた。令和初の追悼式は、遺族の世代交代が進んでいることを印象付けた。


 追悼される戦没者は、37年に始まった日中戦争と、その後の第二次世界大戦で犠牲になった軍人と軍属など合わせて約230万人と、民間人約80万人。【酒井雅浩】


全国戦没者追悼式での天皇陛下のおことば


 本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。


 終戦以来74年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。


 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。


安倍首相の式辞全文


 天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表、多数のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。


 先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、戦陣に散った方々。終戦後、遠い異郷の地にあって、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などで、無残にも犠牲となられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。


 今、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私たちは決して忘れることはありません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます。


 いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。ご遺骨が一日も早くふるさとに戻られるよう、私たちの使命として全力を尽くしてまいります。


 我が国は、戦後一貫して、平和を重んじる国として、ただ、ひたすらに歩んでまいりました。歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。


 戦争の惨禍を、二度と繰り返さない。この誓いは、昭和、平成、そして、令和の時代においても決して変わることはありません。平和で、希望に満ちあふれる新たな時代を創り上げていくため、世界が直面しているさまざまな課題の解決に向け、国際社会と力を合わせて全力で取り組んでまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切りひらいてまいります。


 終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。 』

■天皇陛下「深い反省」継承 全国戦没者追悼式でおことば
(朝日新聞デジタル - 08月15日 12:37)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5748903
『 終戦から74年となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が日本武道館(東京都千代田区)で開かれた。5月に即位した天皇陛下が、皇后さまとともに初めて出席。昨年までの上皇さまと同様、「深い反省」という言葉を交えながら「おことば」を述べた。令和最初の追悼式には、全国の遺族約5300人が参列。約310万人の戦没者を悼み、不戦の誓いを新たにした。


 追悼式では、正午から参列者全員で1分間黙禱(もくとう)した後、天皇陛下が「深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬこと」を切に願うとする「おことば」を述べた。上皇さまが戦後70年となる2015年の追悼式から用いてきた「深い反省」という表現を使うなど、上皇さまのおことばの大半を継承した。


 これに先立ち、安倍晋三首相は式辞で「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この誓いは、昭和、平成、そして令和の時代においても決して変わることはありません」とし、5年続けて不戦を誓った。


 1993年の細川護熙氏以降、歴代首相は式辞でアジア諸国への加害責任に触れ、「深い反省」や「哀悼の意」などを表してきた。だが、安倍首相は第2次政権発足後の13年から、7年連続で言及しなかった。


 厚生労働省によると、参列予定だった遺族は5391人。配偶者は85歳以上の5人(全体の0・1%)で、兄弟姉妹は339人(6・3%)、子は2751人(51・0%)、孫は451人(8・4%)、ひ孫は140人(2・6%)。戦後生まれが30・6%となり、初めて3割を超えた。ただ、台風10号の影響で一部の参列予定遺族は欠席となった。遺族を代表して、父親が東部ニューギニアで戦死した横浜市の森本浩吉さん(77)が追悼の辞を述べた。(西村圭史、長谷文)』

戦没者追悼式、正午前に開始へ 天皇陛下が即位後初参列 遺族は世代交代
(2019年08月15日 10:24 毎日新聞)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5748687
『 74回目の終戦記念日を迎えた15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれる。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相、戦没者遺族ら約7000人が参列し、日中戦争と第二次世界大戦で犠牲になった約310万人を悼む。式典では、5月の即位後初めての参列となる天皇陛下がおことばを述べられ、安倍首相が式辞で平和への取り組みと戦争を繰り返さない決意を訴える。


 過去の植民地支配の歴史を乗り越え、交流を通じた新しい日韓関係を構築しようと誓った1998年の日韓共同宣言から20年余が過ぎた。しかし、レーダー照射や元徴用工問題、さらに両国の輸出規制強化で、日韓の政治状況はかつてないほどに冷え込んでいる。対立が深まる中での追悼式になった。


 式典は正午前に始まり、安倍首相の式辞の後、正午の時報を合図に参列者全員で1分間の黙とうをささげ、犠牲者の冥福を祈る。天皇陛下のおことばに続いて、衆参両院議長や最高裁長官が追悼の辞を述べる。遺族代表の追悼の辞は、父をニューギニア島で亡くした横浜市の森本浩吉さん(77)が述べる。


 厚生労働省によると、参列予定の遺族は4〜97歳の5391人。戦没者の子どもが2751人(51%)で、2001年から19年連続で過半数を占めた。一方、平成が始まった89年は3269人と約半数に上った戦没者の妻は5人(0・1%)と過去最少を更新。同年の参列者で戦後生まれは45人だったが、今年は過去最多の1650人で初めて3割を超えた。令和初の追悼式は、遺族の世代交代が進んでいることを印象付けた。


 追悼される戦没者は、37年に始まった日中戦争と、その後の第二次世界大戦で犠牲になった軍人と軍属など合わせて約230万人と、民間人約80万人。【酒井雅浩】』

紙切れに散った命 17歳で「召集令状」作成 鳥取の女性、次代に平和託す
(2019年08月15日 10:21 毎日新聞)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5748679
『 戦地に赴く人々に渡す召集令状(赤紙)の作成業務に携わった人がいる。当時17歳だった西尾宣子さん(92)=鳥取市。高等女学校を卒業した1945年春、県全域の徴兵事務を取り扱う軍機関で補助にあたった。「たった一枚の紙切れで人の命が引き換えになった」。終戦から15日で74年、今も拭い去ることができないつらい記憶がある。【阿部絢美】


 鳥取市中心部にあった旧日本軍の鳥取連隊区司令部近くの県立鳥取盲聾啞(ろうあ)学校(当時)の一室には、徴兵検査を受けた人の名前などを記した台帳が山積みになっていた。軍の担当者からの指示で、天井に届きそうな資料の山から該当者の台帳を探して渡す。任務を命じられたときは「『お国のため』の仕事にはいろんなもんがあるんだな」と特段気に留めていなかった。


 「○番の△号の□□(名前)(の名簿)を取ってこい!」。戦況が悪化するにつれ、自分と同世代の少年たちの名前が呼ばれることが多くなった。自分の手を介した名簿が赤紙に変わった。「事務的な作業だった。人の命はこんなにも軽いものだったのか……」と良心の呵責(かしゃく)に押しつぶされそうになった。


 上官の口調も次第に激しくなった。「女、子供は邪魔だ!」「男はアメリカ兵と戦え!」。ある日、学校の2階でオルガンを弾いていた聴覚障害の男児を怒鳴りつける場面に出くわした。西尾さんは「かわいそうに」と思い子供をなだめた。仕事は約2カ月で辞めた。


 現在は鳥取市内の自宅で、長男夫婦と3人暮らし。女学校時代から続けている短歌は「頭の体操になっている」とほほえむ。平和な世を享受する一方、当時のことは一瞬たりとも忘れたことはない。赤紙を渡された若者は今はどうしているのか、またはどういう最期を迎えたのか――。


 友人らは次々鬼籍に入り、戦争の記憶の風化も懸念する。「北方領土、沖縄。残された課題はいっぱいある。私たちの代で解決できなかったが、次世代でなんとかしてほしい」と願っている。』

■「消せない火災」狙った兵器 米軍が使った焼夷弾の実態
(朝日新聞デジタル - 08月15日 11:46)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5748792
『 1945年、日本中の街を焼け野原に変えた米軍機による空襲。そこで主に使われた兵器が焼夷(しょうい)弾、攻撃目標を焼き払うため、ガソリンなど燃焼力の強い物質を詰め込んだ爆弾でした。なぜこれほど大きな被害につながったのか。戦時中の米軍資料を分析してきた民間研究者によって、その理由や背景が明らかになってきました。


■天井裏にとどまる設計だった焼夷弾


 「M69焼夷弾は、屋根を突き破って天井裏で横倒しになり、そこで火を噴くように設計されていた。木と紙でできた日本家屋の構造を徹底的に研究し、『消せない火災』を起こすことを狙った兵器でした」


 そう話すのは、「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」事務局長の工藤洋三さん(69)=山口県周南市在住=。元徳山高専教授で日本の都市空襲を30年以上にわたって独自に調査し、研究成果をまとめた自著も多く出版してきました。今も毎年のように渡米し、米国立公文書館などで資料収集を続けている空襲研究の第一人者です。


 M69焼夷弾とは、米軍が日本の木造家屋を「効率よく焼き払う」ために開発した爆弾でした。断面が六角形の鋼鉄製の筒(長さ約51センチ、直径約8センチ)にきわめて高温で燃えるゼリー状のガソリンを入れた布袋を詰め、前後2段、計38本を束ねた状態でB29爆撃機から投下。上空約700メートルで分解し、散らばった無数の子爆弾が屋根を貫通して、屋内にとどまって爆発。火の付いた油脂が壁や床にへばりついて燃え、水をかけても消えにくかったといいます。


■燃えやすい場所を集中爆撃


 米軍が作成した日本本土空襲の指針となった資料があります。その一つが、工藤さんが2006年に入手した「焼夷弾リポート」で、米軍は兵器開発を進めながら、研究機関「国防研究委員会」の下で実戦に向けた準備を重ねていました。


 リポートには、日本の20都市を研究対象に選んだことや、その攻撃方法、必要な爆弾量などを詳細に掲載。文書が発行された1943年10月は、B29の出撃拠点となるマリアナ諸島を日本がまだ統治していた段階でしたが、この時点ですでに米軍は空襲の準備を進めていたことになります。


 日本の都市構造や建物の配置、国勢調査から分析した人口密度、都市ごとの火災保険の格付け……。こうしたデータに基づき、都市別の「焼夷区画図」を作り、燃えやすい区画1号から攻撃に不向きな区画3号に分けていました。「住宅密集地や商業地などに焼夷弾を集中投下することが最も重要視されました。爆弾が散発的に落ちると消火されやすく、燃え残りが次に空襲するときの防火帯となってしまう。恐ろしいですが、そこまで考えていたのです」


 また、リポートでは民間人による初期消火を妨害し、消防車が出動しても消し止められないほどの大火災を発生させるために、焼夷空襲理論を考案しました。その中核にあったのが「アプライアンス火災」という考え方です。「日本の家屋は火に弱い、火災こそが大きな兵器になると信じて疑わない人がアメリカにはいた。『消せない火災』を起こすにはどうしたらいいか、彼らは昭和9(1934)年の函館大火や江戸の大火まで徹底的に調べ上げていたのです」。そう工藤さんは指摘します。』
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