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2019年08月12日22:04

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¿ 川が水面に移る心の流るる先も亦た何許にか在る?

先の会社を転職する為の更なる勉強をする為に辞めて早一年強を過ぎた今日此の頃。
ちょくちょく、色んな所で前職の方々と御会いするが、それは復た別の御話。
 
最近、周りに言われる事が有る。
「前の様に輝いて居ない」と。
斯う言われる事が一番多い。
或いは、自分自身が無意識に然う思っているから、其の言葉が記憶に浮かび易いのか。
其処迄は分からない。
 
仕事の中で先輩や後輩、上司、又、御客樣や取引先樣に勇気付けられる事も多かった。
 
だから頑張れた。
 
今は、正直、夢を見過ぎていたのかな、と二度目の挫折の手前。
否、挫折した中での折衷案を考えているとも言えなくもない。
 
理解されない事は別に良い。
其れは私の努力でカバー出来ていない事なのだから。
でも、理解して頂こうとして、反って理解させようとしていないと見做されるのは、体に響く。
 
擦り合わせが上手く行かなかった場合の事ね。
片方が片方を決め付けない事は良い。
片方と言うからには対象が居る筈なの。
もう片方ももう片方を決め付けない事は良い。
そんな関係であったとしよう。
 
決め付けないという事は、選択肢が増えるのだ。
選択肢が増えるという事は、その方その方御一人御一人の背景から、認知バイアスが掛かる訳で。
而も御互いにね。
其のバイアスを解くか、どの方向かへ傾けさせるかするには、方法は様々に有る。
であるが、方法を擦り合わせる事が、相手の思う擦り合わせに該当しない場合も有る。
其の過程自体がパラな部分と見做される可能性が付き纏う訳だ。
 
又、首尾一貫されていないと思う自分自身が、他者の論理を理解出来ていないのが私でもあろうと反省する。
だから、論理の飛躍を感じる。
否、其の感じを覚えて仕舞う。
例えば、ストロー論法でも然う。
抑、如何してストロー論法を用いて説明が為される状況が生じたのか。
このメタな部分に踏み込む事で、今迄気付かなかった首尾一貫を見出し直す事も出来る可能性を忘れ度くはない。
矛盾こそが首尾一貫の要とも成る絶対矛盾的自己同一の領域にも部分的には重なると思われる。
 
今年、近所の川には蛍が居ない。
去年迄居たのに。
磯鵯が沢山飛んでいる。
去年迄居なかったのに。
着実に変化が有る。
変化に時間を定義付ける場合に於いて、其の主客の入り雑じりは、互いの意思の擦れ違いを生む。
人が人を想う時、川の水は何処から湧き、何処へ流れ往くのか、将又、染み渡って行くのか、気化して行くのか、再び降り注ぐのか。
其れは人の想いとは全く重ならないのか、或いは、全く重ならないという部分を持つという関連を示すのか。
天人相應、及び又は、天神相関。
ボリビア医学(カリャワヤ)や中医学、漢方医学、和方医学等々、各地に育まれた伝統医学に於いては、関わりで以て人も其の健康をも捉えるとする物が多い。
総体論とも全体論とも聞く。
老荘哲学の無用の用も参照されよう。
人と人との間が有って人間。
人に類するのが人類。
自分自身を捉え直す好機は何時でも其処等中に転がっている様に思う。
川の水ぞ、冷たくて気持ち良き。
「*く***い***川」という長い名前の川。
役所の古い文献で調べたら、ちゃんと名前が付いていた。
地元民からは「*り**川」という短い愛称で呼ばれている川。
「*く***い***川」も「*り**川」も共に同じ川を指し示す。
けれども、「*く***い***川」という長い名前は地元では殆ど浸透していない。
「*り**川」という短い愛称は、他の川の愛称として用いられる事もある。
何かを表現する時とされた時に、果たして自分の常識は何処迄通用するのかな、と。
或る程度、記憶を整理する中で、茲に覚え書きをと考える。
 
自分の常識の通用しない所には、他者の常識が横たわる。
JK、或いは、常考。
曰く、常識的に考えての省略表現。
統一的或者を常識とした場合、行為的直観に依り意識が起こる。
行為その物がプレ常識を定め、其れが経験を通して客観的に一般論として常識と定める。
常識の形成理由等、其れこそ常識的に之爾にあらざるや。
視野を広げる場合に於いても、視野を狭める場合に於いても、気を付ける事は多いものだな、と。
改めて、世界の広さを茲に覚える。
反省している私は更に頑張ろうと思われて仕方が無いのである。
 

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