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2019年08月09日22:00

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船頭多くして船山に上ってしまった四帝共治制

今回は、歴史ネタです。3世紀の終わりからローマ帝国で採用された
四帝共治制について書こうと思います。

ローマ帝国もアレクサンデル・セウェルス帝が殺されてからの235〜285年の間、
ローマ皇帝は軍人の中から選ばれるようになり、その統治期間も5年続けば
良い方というくらい短い治世の人が多く、皇帝たちの多くが非業の死、特に
自分の軍隊によって殺されることが多かったというローマ帝国史上最低最悪の
時代でした。そしてそれに終止符を打ち、帝国の政治を大幅に改革したのが、
284年に即位したディオクレティアヌス帝でした。そして、その改革の中で
ひときわ大きな改革だったのが「四帝共治制」です。

235〜285年の軍人皇帝時代は、帝国のシステムに欠陥があることをはっきりと
示していましたが、それを埋める方法をディオクレティアヌス帝は次々と
考えだし、その一つが「四帝共治制」でした。これは、4人の共治帝の間で
権力を分割し、4人それぞれが異なる国境を防衛し、反乱や帝位僭称者の
出現を防ぐ方法としてとても効率的な方法でした。これが有効だったことは、
ディオクレティアヌス帝が20年以上も国を治め、退位して隠居生活に入る
ことができたことからも証明されています。

ところが、ディオクレティアヌス帝が退位してからは、他の3人を統率する
人がいなくなり、内乱状態になります。そして、その内乱を終息させ、
単独統治をおこなったのが、キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝です。
そして、コンスタンティヌス帝の死後、息子3人で帝国を分け合いますが、
再び内乱になります。そして、395年には、帝国は東西に分裂し、
東は、ビザンツ帝国として形を変え、その後1000年間続きますが、
西は、それから80年後に滅びてしまいます。

ディオクレティアヌス帝の退位後、コンスタンティヌス帝の死後の内乱に
ついては、結局は最高権力者が複数いることでまとまりがなくなり、
内乱になってしまったと言えます。「船頭多くして船山に上る」という
ことわざがありますが、まさにそれを体現したのが、四帝共治制による
内乱だったかと思います。最初は、ディオクレティアヌス帝という他の3人
を統率する1人のリーダーがいたからこそ上手くいっていたのであって、
そんなリーダーがいなくなれば四帝共治制は、たちまち上手くいかなくなって
しまった。そんな所だと思います。

ここから言えることは、「船頭多くして船山に上る」ということが
起こるので、最高権力者は複数いてはいけないということだと思います。
そのような内乱は日本の南北朝時代や、ローマ教皇史の14世紀末から
15世紀初めの大分裂時代もそれを如実に語っていると思います。
ま、何事も最高権力は1つにしましょうということで。
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