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2019年08月07日23:58

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宗教コミュニティ活動の紹介

今日は 私が立ち上げた「解りやすい宗教批判」コミュに、 久々に書き込みしました。

少し盛り上がり始めているのを知ったからです。  (いそがしくて、なかなか見れないでいた間にです)


ほんとうは、こうした宗教思想関連のコミュでは 「下賤芸能教団」の人集めはなかなかできないだろうというのが そういったコミュニティを探索した時の感触なんです。

ですが、 何か神秘的な、偉い権威を求めたり 絶対者を立てたりするのではなくて、あくまで人間自身、人間存在自体を 徹底して信じるということであっても、 これこそが本当の宗教の帰結であることを訴えることも 宗教団体としては必須ですので、

まずは、こうして このような宗教関連コミュを いくつか立ち上げるつもりでいるんです。

急がば回れ、という感じです。

その上で あらゆる芸能を中心としたあらゆる(一応歌と踊りと絵筆が、さらに中軸としてあるわけですが)ジャンルのコミュも立ち上げたり、 中に入っていって活動したしてそこから 仲間を集めていくビジョンなのです。

人が生きてゆくうえでの 中軸は どうしてもまずは必須で、 その地盤がためのような形です。

では、 今日、先ほどその活動の一端「解りやすい宗教批判」コミュに書きました 私のコメントを 紹介します。

↓↓↓

シディアス卿さんとの論議も 「宗教批判」のコミュとしては面白い論議になるのかもしれませんが、 私は、イエズス会の問題は過去の事としてとらえています。  (現代では もはやめちゃくちゃ複雑な裏の世界を問題視しなければ、何も進まない状況となっていると考えているんです。 過去の過ちとかとかは、 過ぎ去ったこととしてとらえたいんです)

なので、私の方からは、この返信から 書き始めてみたいのです。

よろしくお願いします。

》釈迦が居たという証拠を出そうかw 《


一応 釈迦という人物の存在自体は 考古学的には証明されているようです。

ですが、実際のその人物が どういう人物であったかについては、 例えば天台の五時八教という立て分けにしても、 空想ではあるはずであり、 事実という証明は出来てはいないはずです。

インドの数学でのゼロの発見とたぶん結びついて生まれた かなり抽象的な「空」とか「無」とかの論議の中から たしかに 華厳経のような ゼロにちかいほどの数学的概念による因果論が生まれたりしたのでしょうけど、

それだけですと まさに抽象的なまま、

しかも それが中国に伝えられたことで、 漢語のように いろんな解釈が可能な文字での論議に引き継がれた中、

それゆえに、 天台が、 その華厳経から始まって(華厳時から始まって)法華・涅槃経(法華・涅槃時)へと、釈迦が説いた時期を創作したのが、「五時八教」。 八教の方は、要は最後に説いた法華経と涅槃経が 円教という最高の教えだったという事を意味しているだけです。

これは、一応は 「一念三千論」とかいう形で 学者などが一見すごい思想だと思えてしまうだろう組み合わせでできた 「ものの見方、命(いのち)観」の世界にまとめられることで、  法華経随一ということを 論じてはいる形です。

ところが、その法華経の内容に、私には 巨大な(自分の中では巨大な、ということですが)疑問が あるんです。

細かく言えば 多数ありますが、 一番には、 まさにブッダが、人間ではなく「偉大な仏様」とされてしまっているところです。

だからこそ それに対して 反旗をこそっと ひるがえしたのが日蓮なのだろうと思ってはいるんですが、   この日蓮のその後の歴史も なんとも複雑なことになってしまっています(こちらの方は、まだまだ先に論議してゆく予定ですが)。

はみがきさんは、そのような空想であれば、仏教はごみ!というふうな そうした仏教の祭り上げられた仏の世界への強い批判の気持ちがあるのだろうと思います。

私も そうした空想的な盲目性を方便だかなんだかで正当化するような権威性の世界には 反感を持つ人間です。

それどころか その部分は、ごみどころか 特に現代においては、現代思想の行つまりを 打開するのではなくて その行詰まりの淵源にもなっているし、さらにその行き詰まりを加速させてしまう 危険な思想、もはや人類の中から 一刻も早く排除すべき思想にさへ思えます。

はみがきさんの文面にも、仏教のもつ まるで隠されたかのようなそのおかしさへの 強烈ななにかの 疼きのようなものを感じる者です。


》釈迦が居たという証拠を出そうかw
出せないのなら仏教はゴミということw《

実在の人物としての釈迦が 100年後まで、そこからその史料が世界に広まるほどの迫力の持ち主であったとするなら(ここには 信用財を効果的に使うための道徳として応援したいその頃の商人たちの意図があり 王族を動かして国の秩序への意図も見え隠れする形で  その2者の応援を受けたからこそ広まったわけですが、 よほどの迫力が無ければあの時代に 何かが伝わる伝説にはなりえないでしょう)

彼は キリストが 石を投げられている娼婦の間に命がけで割って入って 人間の深い因果の世界を とんち言葉で解りやすく語って大勢の群衆を止めた時のような よほどの迫力で 、人間の平等と やはり深い因果の世界を説いたのだと思うのです。

それが 法華経では、 仏陀は これ以上ない偉い存在に祭り上げられてしまっているわけですよね。  人と人との平等との 真逆の世界が作り上げられてしまっているわけですよね。

真逆ですよ。

実在の仏陀の言わんとしたことに、まさに師敵対していると思います。


日蓮が、 自分を下賤の生まれと自ら何度も語った意味をここにもっと考えるべきだと私は思います。


日蓮論議も いろいろとおかしいんですよ。 仏とどっちが偉いかということに なぜか 久遠元初の仏の、素朴な心の意味合いがすり替わってしまってます?





 王様は裸だと揶揄すべく、おかしな点は

 ずばり これからも はみがき節、  


よろしくお願いします。

▲▲▲

あくまで、権威主義の宗教とは 対立してゆく形です( `ー´)ノ(^^♪。


今日は
以上です。
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