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2019年08月01日00:04

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また、「性について」の続きは 伸びてしまいます。

今日は、 「下賤芸能教団」での 新メッセ、  天照大御神(天照大神)について、を書いたので、 その真意をわかってほしくて、 それをコピペします。

少し難しい内容ですが、ここは、さすが外せませんでした。



私たちにおける天照大御神(あまてらすおおみかみ)の意味について、


下賤芸能教団は、人間を徹底して信じる宗教です。   そのためなら 命を投げ出しても惜しくないような 命を投げ出すような責任感で ものごとを語り、歌い、踊り 絵を描くのであれば、  うまい下手は問わず、 その命を懸けた情熱こそが 宗教だという論理の宗教です。

なので、 天照大御神(あまてらすおおみかみ)と言っても、古事記に出てくる神話の世界の皇室の祖先ということではなくて、  日本人としては、その意味でありたいところもあるにせよ、 それはそれとして、  あくまで、  

天(存在や、大自然)をあまねく照らす 太陽を感じる感性それ自体のことを、天照大御神(あまてらすおおみかみ)とする信仰。

私達日本人の 祖先の祖先、 一万年以上も考古学的に争いの無い、豊かな風土と大自然の恵みの中の縄文時代の人たちの感性、 素朴で、最も美しい心の人たちの、太陽のような明るい心それ自体を、逆に天照大御神(あまてらすおおみかみ)と呼んで、 私たちの信仰対象とするものなのです。

すなわち、太陽神です。  私達の大自然に感動する心自体を太陽に例え、その心をこそ神とたたえる信仰です。

これを 現代においては、 そのような新鮮で美しい心に帰るには、どうすればいいかと いつの時代にも考え続けているという弥勒菩薩とも例えることになります。

本地垂迹(仏が仮に神となる)とか反本地垂迹(神が仮に仏となる)とかの 宗教思想があるんですが、  それだと どちらが上の権威を持っているかとかいう  人間を離れた権威権力の闘争や判断とかの話になってしまいます。

私たちの場合は、 どっちが上とかではなくて、 天照大御神(あまてらすおおみかみ)は あくまで日本の古代人の 世界一新鮮で豊かな太陽を感じる心そのもの、 現代におけるそこへの帰還、その心の故郷への帰郷の方法を 考え続けるのが仏の世界、

現代においては、仏が道、 神は、その道によって帰りゆくところ、という意味です。

どうしたら、仏の心に帰ることが出来るかを 未来の末の末にいたるまで 考え続ける仏と言えば、弥勒菩薩ですが、   その意味での弥勒菩薩こそ、現代における天照大御神(あまてらすおおみかみ)となり、一見本地垂迹のように思えるかもしれませんが、  上記のごとく 同じ存在の別角度からの観方というだけの話なのです。

心の中では一つです。 両方とも大切で そして一体なんです。


大自然を愛する心を神とする、ということであれば、そこに名前なんて関係ないし、仏も神も無いというかもしれませんが、 これを 私たちは厳粛に深くとらえることで、宗教として語るために、仮に神とも呼び、仏とも呼ぶということなのです。


芸能教団では、実際に 太陽の恵みである大自然の情緒を、歌ったり 踊ったりして 楽しみながら感じることを 感じる心自体を、 体の底から感じること自体を、 唯一の礼拝法とするまさに、芸能教団であり、 そのためなら命を懸ける気持ちで それを人にも表現しようとすることで、 それは やがてどんな下賤の民、どんな下根の人であれ、 深く癒して、 太陽の恵みを感じる「幸せ」と 生きる心の軸を作ってゆくわけですが、

やがては、 絵も、まずは、私自身が とある弥勒の絵を描いて、それによっても 癒される絵の模範を示していこうと思っています。

同じく命を懸け命を込める絵、宗教と言える絵としてです。

それは弥勒菩薩の 死に物狂いで人を助けたい心であり、どうじに天照大御神(あまてらすおおみかみ)の感性の太陽の心の絵、 かなしみやペシミズム、絶望の涙の 向こうのそれでも消えない希望の魂の絵です。

天照大大御神(あまてらすおおみかみ)こそ我らが神、などというと 戦前の国家神道を思い起こしてしまうかもしれませんが、  そのような あくまで、人間を、人間自身の心を信じる意味の象徴として理解していただければと思います。

神社で手を合わせるときも、今後は できれば、そのような 人間の魂からの人間への信仰の心で手を合わせてほしいと思います。

以上です。

よろしくお願いします。


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