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2019年07月24日00:09

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7月24日の日記

今日の出来事:757年−橘奈良麻呂の乱、930年−清涼殿落雷事件、1866年−第二次長州征伐(四境戦争):芸州口の戦い、1866年−武州世直し一揆蜂起、1877年−西南戦争:都城の戦い、1927年−芥川龍之介自殺、1945年−第二次世界大戦:呉軍港空襲、第7回大阪大空襲、半田空襲、津空襲

今日は、橘奈良麻呂の乱です。聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母・光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命されました。藤原仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛を受け、急速に台頭しました。聖武太上天皇が崩御するすると、遺言により道祖王が立太子されました。しかし、道祖王が孝謙天皇の不興を受けて廃され、代わって藤原仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子とされました。この仲麻呂の専横に不満を持ったのが、橘奈良麻呂です。橘奈良麻呂は不満を持つ者たちを集めて藤原仲麻呂を除こうと画策しました。しかし、山背王が孝謙天皇に「橘奈良麻呂が兵をもって藤原仲麻呂の邸を包囲しようと計画している」と密告しました。孝謙天皇と光明皇太后が、諸臣に対して「謀反の噂があるが、皆が逆心を抱くのをやめ、朝廷に従うように」との詔勅を発しました。しかし、その日の夜、中衛府の舎人・上道斐太都から、前備前守・小野東人に謀反への参加を呼びかけられたと藤原仲麻呂へ密告がありました。藤原仲麻呂はただちに孝謙天皇に報告して、中衛府の兵を動かして前皇太子・道祖王の邸を包囲し、小野東人らを捕らえて左衛士府の獄に下しました。右大臣・藤原豊成、中納言・藤原永手らが小野東人を訊問しました。小野東人は無実を主張しました。その報告を受けて、孝謙天皇は藤原仲麻呂を傍らに置いて、塩焼王、安宿王、黄文王、橘奈良麻呂、大伴古麻呂を前に「謀反の企てがあるとの報告があるが自分は信じない」との宣命を読み上げました。ところが事態は急変しました。右大臣・藤原豊成が訊問から外され、再度、藤原永手らを左衛士府に派遣し小野東人、答本忠節らを拷問にかけました。すると、小野東人らは一転して謀反を自白しました。その内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して兵を発して、藤原仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次いで皇太后の宮を包囲して駅鈴と玉璽を奪い、右大臣・藤原豊成を奉じて天下に号令し、その後天皇を廃し、塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴するというものでした。小野東人の供述により、橘奈良麻呂を始め、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多冶比犢養、賀茂角足ら、一味に名を挙げられた人々は直ちに逮捕され、藤原永手らの訊問を受けました。訊問が進むにつれ、全員が謀反を白状しました。橘奈良麻呂は藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた。」と打ち明けました。橘奈良麻呂、道祖王、黄文王、大伴古麻呂、小野東人、多冶比犢養、賀茂角足は過酷な拷問に耐えかねて次々と絶命しました。安宿王は佐渡島、大伴古慈悲(藤原不比等の娘婿)は土佐国に配流されました。塩焼王は直接関与した証拠がなかったために臣籍降下する事で不問とされました。佐伯全成は、反乱計画に直接関与していなかったものの捕縛され、橘奈良麻呂から謀反をもちかけられた顛末を自白した上で自害しました。他にもこの事件に連座して流罪、徒罪、没官などの処罰を受けた役人は443人に上りました。藤原仲麻呂はこの事件により、自分に不満を持つ政敵を一掃する事に成功しました。大炊王が即位し淳仁天皇になると、藤原仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、「恵美押勝」の名を与えられました。そして、太師(太政大臣)にまで登りつめ栄耀栄華を極めました。しかし、孝謙天皇の寵愛が弓削道鏡に移ると藤原仲麻呂は乱を起こして敗れ、その一族は滅びます(藤原仲麻呂の乱)。

次に、清涼殿落雷事件です。この年、平安京周辺は干害に見舞われ、雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿で太政官の会議が開かれる事となりました。ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて「平安京」を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃しました。この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿・藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭・平希世も顔を焼かれて瀕死状態となりました。藤原清貫は陽明門から、平希世は修明門から車で秘かに外に運び出されましたが、平希世も死亡しました。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐・美努忠包が髪を、同じく紀蔭連が腹を、安曇宗仁が膝を焼かれて死亡し、更に警備の近衛も2名死亡しました。清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは大混乱に陥り、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿に避難しました。だが、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御する事となります。天皇の居所に落雷したという事も衝撃的でしたが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていた事もあり、藤原清貫は菅原道真の怨霊に殺されたという噂が広まりました。

その次に、第二次長州征伐(四境戦争):芸州口の戦いです。大島口では、幕府軍により周防大島が占領されました。芸州口では、幕府陸兵と彦根・高田・紀州・大垣・宮津藩の軍勢が配置され、征長軍の中では主力部隊である5万人が動員されました。まず、彦根・高田藩軍が岩国を目指して進軍しました。長州側は、岩国藩軍のほかに「遊撃隊」、「御楯隊」などの諸隊、総勢1000名で防御線を張り、幕府軍の進撃を阻止しようとしました。長州軍は、彦根・高田藩軍を撃破し、大野へと進撃を開始しました。幕府は正規軍を戦線に投入しますが、敗走しました。長州藩は広島藩と休戦協定を結び、防衛線の地固めを行い、幕府軍を長州藩領内には一歩も近づけず、藩外で幕府軍の進撃を食い止める作戦を取りました。

その次の次に、武州世直し一揆蜂起です。武州世直し一揆は、埼玉県域の中山道以西の村々と上州、八王子までを巻き込んだ幕末最大の農民一揆です。武蔵国秩父郡を中心に武蔵15郡、上野2郡の地域で総勢10万の一揆が勃発しました。「ペリーの来航」による開港と対外貿易、「第二次長州征伐」で米や油、綿の値段が4倍に高騰しました。一方、輸出品の養蚕・製茶などに関係した農家は巨利を得ました。血洗島村(現・深谷市)の渋沢栄一の叔父・宗助は、付近の農家6軒と共同出資して奥州蚕種(蚕の卵)を仕入れて、横浜で売却して約1000両を得ました。この貧富の格差に「世直し」、「世均し」のスローガンを掲げ、「杓子と椀」の図柄を持つ「世直し大明神」の幟の下に貧農が結集しました。この年は天候不順で蚕や作物が不作になった事が加わり、7月24日に秩父郡名栗村の農民が2人の貧農の指導で穀物値下げを要求して一揆が始まりました。麓の飯能では穀物屋4軒が打ち壊されました。この後、一揆勢はいくつかに分かれ、駆り出しに応じて蜂起が各地で起きました。対象になったのは、豪農、豪商、米屋、質屋、横浜での生糸取引で儲けた浜商人(生糸仲買人)でした。米や金の施し、質草の無償返還を要求し、応じなければ宅や蔵を打ち壊しました。最初は約30人で始まりましたが、あっと言う間に人数が増えて、所沢では3万人に増えていました。最終的に参加した人数は約10万人となりました。埼玉県で15村、群馬県で2郡の202村を巻き込み、520軒の豪農、役所が打ち壊されました。農民たちの武器は、鉈、鋸、鍬、斧、鉞、鎌など農民が日常使用する道具類で、刀や槍、鉄砲などの武器は禁止されていました。一揆中の行動規律は厳しく、金品の奪取、婦女子への暴行は禁止されていました。26日以降、幕府は鎮圧に向かいました。中山道を北上した一揆の一派は、現・高崎市の岩鼻郡代役所を目指しました。29日、群馬の新町宿を襲ったところを、代官所と高崎藩の連合軍に討伐されました。死傷者26、逮捕者約400人を出して壊滅し、一揆は約一週間で終わりました。逮捕者は約4000人に上り、首謀者の一人で名栗村(現・飯能市)の紋次郎は死刑、豊五郎は島流しになりました。

そのまた次に、西南戦争:都城の戦いです。7月21日、政府軍の参軍・山県有朋、参軍・川村純義、大山巌少将・三浦梧楼少将らは軍議して、都城への進撃を定めました。別働第3旅団は7月24日、粟谷から財部に進撃し、指揮長不在の薩摩軍を攻撃して財部を占領しました。さらに、退いた薩摩軍を追って右翼を田野口・猪子石越から三木南・堤通に進め、本体・左翼を高野村街道から進めさせて、平原村で河野主一郎部隊の守備を突破し、庄内を占領しました。薩摩軍が都城に退却したため、別働第3旅団はさらに追撃して都城に侵入しました。第4旅団は福山と都城街道・陣ヶ岳との二方面から通山を攻撃しました。中島健彦は「振武隊」を率いて善戦しましたが、すでに都城入りしていた別働第3旅団により退路を阻まれて大打撃を受けました。その間に第4旅団は都城に入る事ができました。別働第1旅団は岩川から末吉の「雷撃隊」(辺見十郎太)・行進隊(相良長良)と交戦し、薩摩軍を敗走させて都城に入りました。7月24日、要所である庄内方面・財部方面が政府軍に占領された結果、都城の各方面で薩摩軍は総崩れとなり、政府軍は都城を完全に占領しました。これ以降、薩摩軍は政府軍へ投降する将兵が相次ぎましたが、活路を宮崎へと見出そうとします。しかし、この守備に適した都城という拠点を政府軍に奪取された時点で、戦局の逆転はほぼ絶望的となっていました。

最後に、第二次世界大戦:呉軍港空襲、第7回大阪大空襲、半田空襲、津空襲です。
呉軍港空襲:1945年7月24日、米艦載機950機、「B−29」110機により、戦艦「榛名」、「日向」、「伊勢」が大破着底、空母「天城」が転覆、「葛城」が小破、「鳳翔」、「龍鳳」が損傷、巡洋艦「磐手」、「出雲」、「北上」が大破、「青葉」、「利根」が大破着底、「大淀」が転覆するなど、死者780人、約2000人が戦傷しました。
第7回大阪大空襲です。1945年7月24日、「B−29」約400機を含む大小2000機が、住友金属工場および大阪陸軍造兵廠(大阪城の一部)を狙って行なわれました。117機が木津川飛行場、伊丹飛行場(現・大阪国際空港)を爆撃した後、住友金属工場および大阪陸軍造兵廠へそれぞれ向かいました。しかし、大阪陸軍造兵廠へ向かった飛行機は、一部の機が造兵廠への爆撃を実施しましたが、大半の機は上空の視界不良・天候不良として爆撃を断念しました。そして、予備の攻撃目標とされていた三重県桑名市へ向かって「桑名空襲」を行ないました。この空襲で死者187人、負傷者317人、焼失554戸。8月14日 B29・約100機。死者173名。負傷89名。焼失二千戸。大阪城にあった砲兵工廠が目標であった。
半田空襲:1945年7月24日、「B−29」78機による愛知県半田市にある、中島飛行機半田製作所を標的とした米軍の空襲によって被害を受けました。死者269人の被害を出しました。
津空襲:1945年7月24日、アメリカ軍は三重県津市への無差別爆撃を行ないました。市街の全域と橋北地区の工場地帯が焼失しました。死者1200人、全損家屋1万戸以上、罹災者1万6千人以上の被害を出しました。この他に津市では、6月26日に軍需工場などが空襲されて死者600人、7月28日の深夜にも空襲を受けて、国宝建造物である「観音寺本堂」、「大宝院本堂(阿弥陀堂)」、「西来寺奥殿」が焼失し、死者500人の被害を出しました。

今日の誕生日:耶律楚材、後藤新平、徳川好敏、谷崎潤一郎、中村草田男、高田繁、久保田利伸、河合奈保子、よしもとばなな、バリー・ボンズ、植草克秀(少年隊)、坂本昌行(V6)、魁皇博之、横尾要、中村紀洋、you(Janne Da Arc)、三浦淳宏、須藤理彩、水川あさみ、hiroko(mihimaru GT)、栗原寿(back number)、MAIKO(元ZONE)、ハン・スンヨン(元KARA)、尾崎裕哉、三中元克

今日の記念日:河童忌、劇画の日

今日の「今日訓」:本日は、芥川龍之介が睡眠薬を飲んで自殺した命日で代表作「河童」から「河童忌」となりました。その他代表作に「羅生門」、「地獄変」、「鼻」、「藪の中」、「歯車」、「杜子春」、「蜘蛛の糸」、「芋粥」などがあります。親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」を設けました。「芥川賞」は日本で最も有名な文学賞として現在まで続いています。1964年、青林堂が劇画雑誌「ガロ」を創刊した事で「劇画の日」となりました。
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