mixiユーザー(id:66434493)

2019年07月23日00:40

67 view

性について(その3)

いよいよ、かなり、肝心なところとなるかと思います。

歴史は、性に関して、どうしてこんなにも歪曲されてきたのか?、 その象徴のようなお話となるかと思います。


キリスト教の 新約聖書の中に 「山上の垂訓」という有名な説法 山の中腹なのか大きな丘の上なのかそうしたくわしい状況は解らないのですが ともかく 山の上 山上の垂訓(お説教)があるのですが、


その一番最初の言葉自体は、 「私は律法を否定するために来たのでは無い。 律法をむしろ完成するために来たのだ」という  道徳をむしろ愛によって完成するため、 その愛を教えるために私が立ち上がったのだという意味と思われる力強い宣言から始まっている説法です。

そのすぐ次も あまり有名ではないですが、「心の貧しいものは幸いである。天国は彼らのものだからだ」というところが  ちょうど私が高校生の時になのですが、「貧しさに安んずるものは幸いである。天国は彼らのものだからだ」と訳しなおされた点がおもしろい言葉となっているんです。

この後の方の意味合いは深いですよ^^。(ここでは略しますが)


そして、その次に あの有名な「歯に歯を、目には目をと昔から言われている。しかし私は言う。 右のほほを打たれたら、ひだちのほほも向けなさい。 もし悪人に百歩あるくことを強要されたら、二百歩歩きなさい」 の下りです。

過去の立法への 大反逆者としての 言葉ですよね。

この有名な言葉に対しては、多くの人が賛否両論、様々に語っています。

私自身にも 言いたいことはありますが、 ここも今回は略します。

これもまた、この人生で、深い意味を持っていることは確かだと思います。

さて、じつは、すぐ、その次が問題なんです。

 たぶん、新約聖書の中では唯一  姦通罪(夫婦以外の異性とのセックスをする罪)について キリストが語っている部分です。

それは、こんなふうに語られています。

「姦通をしてはならない と昔から言われている。 しかし私は言う。 心の中で姦通をしてもそれは姦通をしたことになるのだ」

この言い回し何か変だと思いませんか?

まず 山上の垂訓自体、 これほど矢継ぎ早(やつびぱや)に、口づから どんどん別な内容を話されたのだとしたら、 弟子たちや群衆は何を言ってるのかさっぱり、わからないじゃないですか?

だから、 これは、本当は、もう少しは詳しく丁寧に話した内容の 要点と思えることを弟子が記したと考えるのが自然だと思います。

しかし、まず、ここが重要だと思うのです。

ひとつ前の有名な話と同じように「 姦通をしてはならないと昔から言われている。 しかし私は言う」というふうに、、昔からの仕来り、律法への反逆の言い回しを 、全く同じようにして話している点が 大事だと思うのです。

「しかし、私は言う。 姦通しなさい」とか言ってるわけではないわけですが^^。

つぎの「心の中で姦通しても、それは姦通したことになるのだ」との言葉があるため、 ここをキリスト教徒の人たちは、 逆説として受け取ってしまったんです。

過去の立法への反逆ではなくて、 強化として受け取ってしまったという事です。

これは、完全に 社会の秩序道徳を超えるほどの、 セックスを不浄とする考えと一致します。

王様の権威以上のものとして、紙の権威として セックスは 心の中で想像するだけで不浄なのだとする、  きたないものとする、いやしいものとする、いやらしいものとする、そんな教えとして受け取ってしまったという事です。

最初から そのように思い込んで、聞いたり、読んだりしてしまっているためです。

よくよく、 ここは、 ふつ〜〜に、普通に 考えてみて欲しいのです。


あくまで セックス自体は、 野のユリよりすら美しい人間の一姿であり、 深く深く深く(強調しますが) ほんとうに荘厳なまでに美しい姿であるのが本来の素朴なセックスの世界です。

もちろん、だからといって 婚姻制度を破ることを進めているのではないわけです。

心の中こそ大事だという事がキリストは言いたいわけです。

心の中でも 自分本位なセックスをすれば それは自分本位な相手にとっては時として冷たいセックスです。 さらにその心の飲みに溺れていたら、それこそが本当の意味での変態なんです。  むさぼりのセックスです。 これも同じですよね。 心の中でもその心でセックスを想像するなら、 むさぼりの変態の相手も何も眼中になくセックスすることとまったく同じくだらないセックスです。

これ、ほとんど何も感じないですよ、かえってね。 詳しくは 今日はその辺は略しますけどね。

インポの最大の原因も、おそらくそこにあると思います(現代では、複雑でもあるんですねどね)

キリストは、 本当に当たり前のことを言っているんだと思います。

家族が 愛し合えているなら 家族ほど大切なものはないですから、その家族を忘れるならその心自体が 罪なんです。

そんな心でのセックスの想像も 当たり前に罪です。 あたりまえじゃないすか^^。


でも、 もちろん 相手を愛しているときの深く感じる正常なセックスを 何ら想像しても、 たとえそれが 夫婦以外の異性の想像であっても どこも罪なんか見出せないはずなんです。

キリストは 心こそ 大切だと言いたかったのだと思うのです。

そこを、弟子たちが キリストが、たぶんものすごい情熱と迫力で 強調した話し方を記録したラ、 姦通の話は、そのような言い回しとして記録されてしまい。

いつしか 無理な解釈なのに、自然と昔からあった律法の強化の意味合いになっていってしまったのだと思うのです。

こうして、キリスト教においても 性の不浄感は かえって強められることとなってしまったわけです。

聖母マリアは、ふつうに キリストのおかあさんだぅただけですが^^、いつしか 後のキリスト教によって 処女懐胎の唯一の女性とされてしまったわけです^^。

違うでしょ。

神様の作られた、美しい性の営みの世界の ほんとうの素晴らしさ、美しさを知らないでなんで 聖に近づくことが出来るのでしょう。

しかし、 全く逆に、 性の世界は、 大勢の人から 文明の歴史の中で 白い目で見られるようになり、暗い隅っこへと追いやられてきてしまったのです。

そうしておいて、さらに 売春宿が 忌み嫌われてきてしまいました。

明日はそうした水商売の世界について 触れていきます。

水商売それ自体が  罪なのではないはずです^^。

今日は 以上です。

是非、明日もお楽しみに♪


よろしくお願いいたします。


おやすみなさい(^_-)-☆♪








0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する