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2019年07月18日00:16

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7月18日の日記

今日の出来事:660年−百済が唐・新羅連合軍(羅唐同盟)により滅ぼされる、1419年−応永の外寇、1866年−第二次長州征伐:幕府艦隊が周防大島を砲撃、第二次長州征伐が始まる、1925年−アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」上巻が刊行、1945年−第二次世界大戦:野島崎艦砲射撃

今日は、百済が唐・新羅連合軍(羅唐同盟)により滅亡です。羅唐同盟は、新羅と唐の軍事同盟です。新羅の真徳女王は、金春秋(後の武烈王)を唐の太宗に遣わし、同盟を結ぶ事に成功しました。高句麗、靺鞨、百済の連合軍が新羅北部の33城を奪ったため、真徳女王を継いだ武烈王は唐の高宗に救援を求め、唐は高句麗を攻撃しました。その後、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領しました。義慈王は熊津に逃れましたが間もなく降伏して、百済は滅亡しました。武烈王の後は文武王が継ぎ、羅唐同盟は「白村江の戦い」で百済復興を目指す百済遺民と倭国の連合軍を破ります。さらに、羅唐同盟は、高句麗を滅ぼします。しかし、唐は朝鮮半島全体を支配しようとしたので、新羅と対立し、「羅唐戦争」が起こる事になります。

次に、応永の外寇です。李氏朝鮮では前年に世宗が即位していましたが、軍事の実権は譲位した父・太宗が握っていました。太宗は倭寇撃退を名目にした対馬遠征を決め、対馬の有力者が明などに渡航して不在である時期を狙って、李従茂が率いる227隻、17285名の軍勢を対馬に侵攻させました。また同時に朝鮮国内の在留商人らを一斉に抑留しました。朝鮮軍は、巨済島を出航しましたが逆風ですぐに引き返しました。そして、再出航して対馬の尾崎浦附近へ上陸しました。一帯の一般船舶129隻を焼き払って20隻を奪い、民家1939戸を焼き払うと、114人の島民を殺害しました。しかし、仁位郡で対馬側の伏兵に遭って2500の損害を受けました。李従茂の軍は尾崎浦まで退却し、戦局は膠着状態に陥りました。朝鮮側は、宗貞盛に対して対馬の属州化などを要求する使者を送りましたが、拒絶されました。損害の大きくなった李氏朝鮮側は対馬側の撤退要求を受け入れ、巨済島へ全面撤退しました。

その次に、第二次長州征伐:幕府艦隊が周防大島を砲撃、第二次長州征伐が始まるです。第一次長州征伐後、長州藩では松下村塾出身の高杉晋作が馬関で挙兵し、保守派を打倒するクーデターを起こすと倒幕派政権を成立させました(功山寺挙兵)。高杉晋作らは西洋式軍制導入のため、民兵を募って「奇兵隊」や長州藩諸隊を編成し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行いました。また、「長防士民合議書」を36万部印刷し、士農工商の隔てなく領内各戸に配布する事で領民を一致団結させました。14代将軍・徳川家茂は大坂城へ入り、再び長州征討を決定しました。幕府は当初5方面から長州へ攻め入る計画でした。しかし、萩口を命じられた薩摩藩は土佐藩・坂本龍馬の仲介で「薩長同盟」を結び、密かに長州と結んで出兵を拒否しました。そのため、萩口から長州を攻める事ができず、4方から攻める事になりました。そのため「四境戦争」とも呼ばれます。幕府は大目付・永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中・小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行いましたが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行いました。こうして、まず大島口で幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まりました。この後に、芸州口、石州口、小倉口でそれぞれ戦闘が開始されます。「第二次長州征伐(四境戦争)」の開始です。

その次の次に、アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」上巻が刊行です。「我が闘争」は、ヒトラーが1923年の「ミュンヘン一揆」の失敗後、ランツベルク刑務所で収監されていた時に、獄中で著作を開始した本です。この本の中で自分の生い立ちを振り返り、戦争や教育などさまざまな分野を論じて、自らの政策を提言しています。特に顕著なのは猛烈な反ユダヤ主義で、エスペラント語はユダヤ人の陰謀であるといった主張、また生存圏獲得のための東方進出などが表されました。群衆心理についての考察とプロパガンダのノウハウも記されています。自叙伝は他の自叙伝同様誇張と歪曲がなされたものがありますが、全体としてヒトラー自身の幼年期と反ユダヤおよび軍国主義的になったウィーン時代が詳細に記述されています。ナチス党の出版局であるエーア出版から発売されました。価格は12マルクで、当時の一般書の2倍の値段でした。1925年には9432部、1926年には3913部が売れました。1926年12月には下巻が出版されましたが、1927年の売り上げは上下巻あわせて5607部でした。しかし、ナチス党は同書が大量に売れていると宣伝しました。ナチスの党勢拡大と共に、本の売り上げは増大し、1930年には54080部が売れました。また、この年には上下巻を合本した廉価版が8マルクで売り出されました。1931年には50808部が売れ、ヒトラーに多額の印税収入をもたらしました。ヒトラー政権下でこの本は巨大な人気を獲得し、事実上ナチのバイブルとなりました。結婚する全ての夫婦に「我が闘争」を贈呈する事が奨励され、各自治体がエーア出版に発注した婚礼用の「我が闘争」が、婚姻届を提出した夫婦に贈られました。贈呈用として、本革や琥珀の板、銀細工などで装丁された様々な特装版も販売されました。視覚障害者向けには6巻組の点字版も製作されました。本書の販売はヒトラーに数百万ライヒスマルクの収入をもたらしましたが、購入者の大半が全てを読んだわけではなく、ヒトラーに対する忠誠、ナチス党内での地位の維持、ゲシュタポの追及をかわすために購入しました。「第二次世界大戦」終結によるナチス崩壊までに、約1000万部がドイツ国内で出版されました。

最後に、第二次世界大戦:野島崎艦砲射撃です。1945年7月18日、千葉県白浜町の野島崎に巡洋艦4隻、駆逐艦9隻が来襲し、艦砲射撃を受けました。この艦砲射撃で、死者6人の犠牲がでました。

今日の誕生日:佐藤信淵、木戸幸一、ネルソン・マンデラ、松原のぶえ、中西保志、浜田麻里、板尾創路(130R)、井上ヨシマサ、アマル・オシム、ザ・グレート・サスケ、水谷麻里、大倉孝二、千葉真子、広末涼子、渡辺彩乃(元美少女クラブ31)、山本美月、石川恋

今日の記念日:ネルソン・マンデラ・デー、光化学スモッグの日

今日の「今日訓」:本日は、ネルソン・マンデラの誕生日を国際的に讃える日「ネルソン・マンデラ・デー」、1970年のこの日、東京都杉並区の東京立正中学校・高等学校で体育授業中の生徒が突然目の痛みや頭痛等を訴えて倒れ、43人が病院へ運ばれました。東京都公害研究所は、これが光化学スモッグによるものと推定し、日本初の光化学スモッグ発生となりました。これにより「光化学スモッグの日」となりました。
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