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2019年07月16日00:06

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7月16日の日記

今日の出来事:622年−ヒジュラ暦1年1月1日:預言者ムハンマドがメッカからメディナに移住(ヒジュラ)したため、太陰暦、ヒジュラ暦の始まる日になる、1582年−清洲会議、1868年−会津戊辰戦争:第七次白河攻防戦、1868年−北越戊辰戦争:与板城攻防戦、1868年−戊辰戦争:土佐藩士・野中太内切腹、1945年−第二次世界大戦:大分空襲、平塚空襲、1993年−神奈川県横浜市に超高層ビルでは日本一の高さとなる横浜ランドマークタワーが開業

今日は、清州会議です。「本能寺の変」で織田信長は明智光秀によって討たれ、信長の嫡男・織田信忠も二条城で討たれました。明智光秀も「山崎の戦い」で討たれ、織田家後継者及び遺領の配分を決定する事を目的に、尾張国清洲城で「清州会議」が開催されました。集まった織田家家臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席しました。一番の争点であった織田家の後継者問題では、信長の三男・織田信孝を擁立する柴田勝家と、信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を擁立する羽柴秀吉との対立が起こりました。しかし、羽柴秀吉は明智光秀討伐の功労者で、丹羽長秀の支持や、三男で神戸氏へ養子に出ている信孝よりも血統的な正統性が強い事もあって、三法師が後継者として決まりました。羽柴秀吉はその後見人として収まりました。領地再分配では、次男・信雄は尾張国を、三男・信孝は美濃国を相続し、信長の四男で秀吉の養子である羽柴秀勝は、明智光秀の旧領である丹波国を相続しました。家臣団へは、柴田勝家が越前国を安堵の上で、自身の希望から羽柴秀吉の領地である長浜城と北近江3郡を割譲されました。丹羽長秀は若狭国を安堵の上で近江国の2郡を、池田恒興は摂津国から3郡を、それぞれ加増されました。新当主である三法師は近江国坂田郡と安土城を相続し、羽柴秀吉には山城国が与えられました。「清洲会議」では、それまで織田家の重臣筆頭として最大の発言権を持っていた柴田勝家の影響力が低下し、代わりに羽柴秀吉が重臣筆頭の地位を占めるなど、織田家内部の勢力図が大きく塗り変えられました。この時の対立が翌年の「賤ヶ岳の戦い」につながり、織田家の瓦解と羽柴秀吉の天下取りへ影響する事になります。羽柴秀吉が三法師を推したのは腹心・黒田官兵衛の策で、他の宿老たちにも根回しが行き渡っていたためです。

次に、会津戊辰戦争:第七次白河攻防戦です。再び列藩同盟軍は、新政府軍の籠もる白河城を攻撃しました。しかし、またもや撃退されてしまいました。しかし、新政府軍も白河城に釘付けになりました。

その次に、北越戊辰戦争:与板城攻防戦です。「加茂軍議」での作戦決定により、与板口には主力の桑名隊・会津藩兵・衝鋒隊をおき、一斉に行動を開始しました。「寺泊海戦」があり、激しい戦いを繰り広げましたが、幕艦「順動丸」が大爆発を起こしました。このため、陸地にいた会津藩兵、水戸藩・諸生党ら東軍兵士は、寺泊から弥彦方面へと移動しました。与板口主力部隊は地蔵堂、大川津に到着し、この地を拠点としました。与板を目差し、本道を村上藩が進み、与板北方の金ヶ崎からは桑名隊、その間を会津藩萱野隊が進みました。与板藩は、当時中立を表明していた長岡藩と接触していましたが、長岡藩が一転して同盟軍に加盟した為に、孤立してしまいました。与板藩家老が藩兵を率いて金ヶ崎の手前まで進軍、そこで列藩同盟軍と戦闘となり撃退されました。このため大本営へ援兵を求めました。そこで、大本営から長州一番隊、三番隊と砲三門、薩摩二番遊撃隊、須坂一小隊を軍監・岩村精一郎の指揮の元、先発させました。岩村精一郎は与板へ到着すると直ちに軍議を開き、本道である金ヶ崎方面へは長州・須坂兵を配置、塩入峠口には薩摩・長州・飯山・戸山・与板兵を配置しました。列藩同盟軍側は、本道方面に会津・村上・上ノ山藩兵、鳥飼次郎・副隊長指揮の桑名藩・致人隊が従い、塩入峠方面は桑名隊が主力となり、黒坂に陣を張っていた立見鑑三郎が指揮する桑名藩・雷神隊、町田老之丞が指揮する桑名藩・神風隊でした。列藩同盟軍の三倍の兵力で反撃を試みた新政府は、桑名藩隊の善戦により敗退しました。一時は与板城まで攻め込みましたが、援軍を要請した新政府軍の新手、長州報国一小隊・松代・尾張藩小隊が駆け付けたため、退却しました。これにより、桑名藩隊の勇名は鳴り響き、「一に桑名、二に佐川(会津藩の佐川官兵衛)、三に衝鋒隊」と称されました。

その次の次に、戊辰戦争:土佐藩士・野中太内切腹です。野中太内は、吉田東洋の門人でした。「吉田東洋暗殺」後も「公武合体論」を主張して「土佐勤王党」を弾圧しました。後藤象二郎や板垣退助らがすすめる「公議政体論」および「武力討幕運動」に強く反対し、その弾劾を藩主に訴え出たのが「三十人組」でした。全三十三名が署名の上、建白書を藩主に奉じた事から「連署組」とも称されています。建白書中、武市半平太や坂本龍馬、中岡慎太郎など「土佐勤王党」の名をあげ、その行状に批判を加えました。土佐藩は徳川方に加勢した高松藩、松山藩を征討のため出兵しました。松山城、高松城の接収に成功しましたが、藩内の佐幕派は出兵に対する不満から出兵拒否を行ないました。「胡蝶隊」の隊長・野中太内ら同士30名が連署で出兵拒否を行い、藩主・山内容堂から直接説得を受けました。しかし、それでも拒否を貫いた事から野中太内は切腹を命じられました。以下が「三十人組」の33人です。野中太内、津田斧太郎、横山匠作、小坂喜佐治、谷村頼、鷲見兵衛、坂々楠馬、野本兵作、祖父江右馬次、滝口笑三、刈谷説郎太、野崎糺、福富良三郎、中山捨作、大谷謙作、町市郎左衛門、高富羆、山田東作、森復吉郎、筧竹次、山田吉次、岡本小太郎、阪井藤蔵、阪井勝四郎、川上友八、井上市兵衛、森川純輔、馬淵源三郎、森小兵太、津田弥吉、臼井弥五助、藤井守馬、若尾譲助

最後に、第二次世界大戦:大分空襲、平塚空襲です。
大分空襲:1945年7月16日の大分県大分市は、午前中に空襲警報が出されましたが間もなく解除されました。その後、午後9時すぎに警戒警報が発令されました。午後11時過ぎに、1機の「B−29」が飛来して照明弾を投下しました。続いて、後続の30数機からなる「B−29」の本隊が、翌17日0時10分頃から1時40分にかけて約1時間半の間に、約6000発の焼夷弾を大分市中心部に投下しました。大分市中心部では既に大分駅前から本町、堀川町までの約1500戸が取り壊されるなど、建物疎開が進んでいたため被害は抑えられたと言われています。しかし、この空襲による被害は死者49人、負傷者122人、全焼家屋は2358戸、半焼家屋は130戸に及び、10730人が焼け出されました。すでに数度の空襲によって被災していた大分市の中心市街地は、この空襲によってほぼ壊滅し、大分駅から海が見えたと伝えられています。
平塚空襲:1945年7月16日の夜、アメリカ軍が神奈川県平塚市、中郡大野町(現・平塚市)に対して行った空襲です。当時、この地域には平塚市〜大野町にかけての広大な土地に、海軍火薬廠(現・横浜ゴム平塚製造所)があり、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場(現・平塚競輪場)、第二海軍航空廠補給部平塚補給工場(現・JT平塚工場)、日本国際航空工業(現・日産車体本社工場・第一地区)などの軍需工場が多く存在していました。アメリカ軍はこれらを破壊するため、空襲の主要目標都市として平塚をリストアップしました。16日夜、マリアナ基地を発進した「B−29」爆撃機138機の編隊が、伊豆半島方面より侵入しました。まず、花水川河口へ照明弾が投下されました。その後、22時30分の空襲警報発令と同時に焼夷弾が投下され始めました。大磯駅周辺や高麗山、相模川対岸の茅ヶ崎など旧市の外周部より投下が始まり、次第に第二海軍火薬廠などのある旧市中心部へと攻撃が移りました。空襲は翌17日午前0時35分まで続きました。死者343名、当時の市域10419戸中の約8000戸が消失する被害を出しました。投下された焼夷弾447716本、1173トンは、一夜に投下された量としては「八王子空襲」に次ぎ国内2番目の多さとなりました。

今日の誕生日:小栗忠順、ロアール・アムンセン、フランク・ジョーブ、福田康夫(第91代内閣総理大臣)、六代桂文枝(桂三枝)、古川登志夫、松本隆、篠塚和典、古手川祐子、児嶋一哉(アンジャッシュ)、袴田吉彦、塚本まり子(元大人AKB48)、中村真衣、鹿島丈博、諸見里しのぶ、宇野実彩子(AAA)、高本彩「Aya」(元E−girls、元Dream)、ダレノガレ明美、山田哲人、八木かなえ、藤井夏恋(E−girls、Happiness)、松野莉奈(元私立恵比寿中学)

今日の記念日:国土交通Day、駅弁記念日、虹の日、からしの日

今日の「今日訓」:本日は、1999年7月16日に「国土交通省設置法」が公布された事で「国土交通Day」、1885年に開業した日本鉄道の宇都宮駅で、日本初の駅弁が発売された事で「駅弁記念日」、1957年に「日本からし協同組合」の前身である「全国芥子粉工業協同組合」が設立された事で「からしの日」、「7(なな)1(い)6(ろ)」の語呂合わせと梅雨明けのこの時期には空に大きな虹が出る事が多い事から「虹の日」となりました。
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