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2019年07月13日01:55

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.多様性

■孤独死は「大人のひきこもり」の最終地点か 高齢者の問題ではない現実「いい人」「真面目な人」の落とし穴
(ウィズニュース - 07月12日 07:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=5702929


 人間の生き様は多様だ。故にある出来事に対する感じ方も考え方も対応の姿もそれぞれに違う。賛同とか共感なんていう心情も突き詰めて辿って行けば必ずしも同じものではない。微細にずれているということに重きを置くのなら人間は全員絶対に重なり合うものではない。

 孤独死についても多様性の一形態に過ぎないと思っている。見方によってはこの記事の筆者が書くように大人が引きこもることの原因を社会がいびつだからと関係付けることは出来ると思う。一方で同時代に生きていて引きこもらない人間もいる。社会がいびつだと結論付けるのならこの引きこもらない人たちが社会を歪めているということになるのだろうか。そしてそんな人々が社会をいびつにしたせいで人は引きこもり孤独のうちに死んでいくというのだろうか。

 例えば社会が歪んでいなかった場合、今引きこもっている人と引きこもらない人はどんな暮らしをどんな人生を送ることになるんだろうか。

 死はどんな生き方を送る人にとっても命という存在においては最終地点。そして生きている人間にとっては何かしらの境界になる。哀しみを覚える人、恐怖を覚える人、経験ととらえる人、死についてもやはり多様な捉え方に終始するのが人類。

 多様性を認めるということは善悪とか正誤とか勝敗とか好き嫌いといった相対的な価値観から離れてみるということ。この記事の筆者は孤独死を憐れんでいるということから多様性を認めてはいないと言っていいと思う。多様性を認めるということは個を認めて個に焦点を当てるということと等しいと思う。個における現実はどんな姿も真実そのもので何かと比べていい類のものではない。この記事の筆者は孤独死を憐れなものだと位置付けて孤独死をした人々の生前に彼ら彼女らが孤独に陥る因果に目を向ける。孤独に陥った原因を社会に求めて行く。この記事の筆者が見つけたいのは社会がどんな風にいびつなのかという詳細。そしてそれを発見した暁には何かしらの啓発啓蒙に励むのだろうと思われる。

 このような視点もあっていい。人間の意識と目に映る景色と心は混然一体でつながっているから。どこから眺めてもどこから感じてもどこから考えても全体としては同じ。

 その視点とはまた別で、孤独になる人と孤独にならない人の間にはどんな違いがあるのだろうか、と、個の因果に焦点を当てるという視点もあると思う。大変大雑把な言い方になるけれど、多様性を認められない人が孤独になるということは言えると思う。相対的な価値観を生み出す根源には自我や利己がある。善悪、正誤、勝敗、好き嫌い、といった相対的な判断を下す基点には自我や利己が欠かせない。商売を基本に据えた民主主義で自由競争で資本主義な現代日本において自己の確立は必須。そのために多様性を認めるという現状をまんべんなくあるがままにとらえて決して比べないという茫洋とした意識は育ちにくい。たった一人で自宅の一室で死に誰からも発見されずに幾日かが過ぎてしまう形を孤独死だというわけだがそれは核家族化が進んで独り暮らしが増えたということが一番の因果。人間個人がどうしてそういう形態を選んでいくのかに焦点を当てて人間の本質にからくりを見つけ出す方が個別の案件に照らし合わせる際にも応用が効くような気もする。


 時代人として表題にもある、「いい人」「真面目な人」、はどうしても相対的な判断から意識を切り離すことが出来ないでいる。自身にとっての意味や方向に囚われてしまう。あるがままの現象や景色を同時に並べておくことが出来ない。それ故に排他的な思考も手放すことが出来ない。結果、孤独を呼び込む傾向になり一人暮らしを選ぶ。因果を自らの意識が作っている。そんな一面はあるように思う。人間はみんな何となく自由になってみたいとどこかで思いながらこの現実をその人の運命の中で転げ回っている。

 
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