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2019年07月10日22:15

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今朝、朝食を忘れて書いた ツイートです^^。

 下賤芸能教団の 宗教として認められるための 信仰対象は何なのかについて、

方便否定の新宗教でありつつ、ずばりとその論理面をも ツイートしてみたのが、今朝書いたツイート群だった。↓

◎ 私達は 実践(つらく、苦しい人たちを助ける実践)を先に考え、活動を優先したいため、まだ信仰対象としての天照大神の説明はしていません。なぜ、人間を信じる宗教が 信仰対象の神を持っているのか?この裏には半端な理論とは言えないものがあるからです。

◎ 私達にも、信仰対象はあります。 天照大御神です。 ですが、その理論は半端なものではなく、コミュの方ではまだ書いていません。 こちらのツイートの形式のほうでも 書けることに気が付いたので、 先にこちらからその深遠な論理面も書いておきます

◎ これから書くことはこの教団の論理面なので、 反論したい気持ちの人は反論をこころみてください。反論すべく考えながら読んでみてください。本当かどうかを 徹底的に疑ってよんでみてください。 それがろん理面を書いてゆく意味であり意義ですので。

◎ まず 天照大神を立てるということについてですが、これは太陽信仰を立てるということです。 日本人なので神道の伝統を重んじてその名を冠しただけです。 インカの太陽信仰と同じです。 ただし、太陽を人格神としているのではないのです。

◎ 太陽信仰と言っても、太陽は物質ですので、それを人格神としているのではないのです。 詳しく言えば、私たちの信じているのは、存在であり、超自然なのですが、 その中で太陽の存在は、物質そのものが神秘です。超の付く神秘そのものです。

◎「私達は」ですが、地球人以外の宇宙人を信じません。 太陽系は宇宙中に存在しても、水が蒸発しないで定着する可能性は、すくなくともブラックホール以後の宇宙には、ほとんど考えられないはずです。

その確率はゼロに等しいと思いませんか


◎ 私達のだい知から見える星たちは 美しいです。 でも実際にはガスか岩石か、砂があるだけの海も水たまりも川も雲もない命の住めない世界。どんだけ広くても アメーバすら生成されないひょうひょうとした広大な砂漠です。 太陽系は奇跡なのです。

◎ 水自体、宇宙の中では、ありえない物質とされています。 だからどんだけ太陽系から水のある地球が誕生したことが、それ自体奇跡的な確率の出来事か、いや確率を超えて不思議なことか、科学の方から考えても、それ自体が神秘なんです。

◎ 私達の地球のある、水の定着した奇跡の星のある太陽系は、それ自体が宇宙の中の最大の星の神秘です。  ほかにもブラックホール以後(ブラックホール論は略します)も同じ確率で水が定着した可能性、アメーバの生息する可能性のある太陽系は、?に等しい。

◎ そのぐらい、神秘的な確率で、太陽と水の定着した地球は生まれています。 太陽も物質ですが、 私達の太陽という物質の、太陽という星の存在確率は広大無辺の宇宙の中でも、奇跡ですし、 こうして太陽に物質的に守られているのが地球です。

◎ 水が定着したからといって、生命が必ず生まれるという因果はまだわかっていないはずですが、そのへんのこともここでは略します。 水を生んだ太陽系の奇跡をまずわかっておいてほしいのです。  大地からの太陽のありがたさは、昔から今まで変わらないんです。

◎ まず、大地から、大地の上のこの命から見える太陽のありがたさは、広大無辺の宇宙を知った今も、おなじほど絶対的にありがたいんです。 それがもたらした、水の神秘自体、すごいです。 海があり、雲となり、風が吹き、大地に川が生まれ、森が出来・・・

◎ 太陽があるからこそ、地球という水のある星、奇跡の星に命が生まれ、人間という物事を見つめる脳を持った生物まで生まれた その軌跡は なんという奇跡なのでしょう。 なんという不思議なことなんでしょう。

しかし、それ自体はたいしたことないとも言えます。

◎ 頭で考えられる不思議なんて、たいしたことないです。 頭で考えられないほどの感性の不思議、その神経と脳の交流の不思議、その存在の不思議から考えれば  宇宙における私たちの太陽系の不思議など ものの数ではないほど不思議なんです。

◎ 一番不思議で、神秘的なのは、 私たちの心の世界です。 食べ物を味わえる感性、星を愛でる感性、雲を、雨の音に癒される感性、愛し合える感性。感性の存在なんです。 太陽の奇跡を感じる感性それ自体なんです。

その感性の象徴こそが太陽の恵みです。

◎ どこまでも どこまでも 日々新鮮であれるのは、こころの基軸に太陽があるからです。太陽の恵みを感じることが出来る感性が命の中にあるからです。 具体的に太陽という物質と私達人間にその感性があるからです。

それがなかったら、新鮮さという命は消えてゆく

◎ 新鮮さという命が、感性の中に無ければ 何をしてもなにをすきになってもやがて飽きてくる。 心がその状態であれば 永遠の命ほどの地獄はないとすら表現できてしまう。  その真逆の日々どこまでも新鮮な感性を与えてくれる元は、太陽と太陽を感じる感性だ。

◎ 太陽の恵みを感じる感性は、 太陽がゆえに風も海も海の波も浜辺の波の音色も、森をふく風の根も、音楽ですら、そこに故郷があると感じる感性は、無限に豊かだ。 だから人は、それを思い出すなら、そこに謙虚んなるなら、それが生きる基軸になる。

◎ 太陽の恵みに手を合わせて それを感じるこころの深さにどこまでも謙虚に、芸能の技術でその感性をふか目てゆこうとするとき、わたしたちは、そこに最大の生き方の基軸を見出す。 無限に深いとともに、今の命にも生きる最大の心の妙なる世界を見出す。

◎ 太陽信仰とは、私たちの生きる心それ自体を信じるということであり、太陽自体は物質だ。 宇宙という物質の中での奇跡的確率の世界がどうあろうともその水の定着するような奇跡も 物質現象の神秘にすぎない。太陽信仰の本質自体は、昔も現代も変わらないのだ。

◎ だから太陽を信じれば、なにかご利益があるとか言うおまじない信仰なのではない。  ただその妙を、妙なる美を、真の美と言えるその価値の世界をほめたたえる心こそが大事なのだ。 それが心の基軸となるのでそのおかげの御利益に当たる因果も少しは生まれるけど^^ね

◎ 心の財があれば、お金に惑わされてる私たちの心の部分は ゴミ袋に入れて捨てることが出来る。 心の財、感動する新鮮な心の方が大事だ。虚しさを克服できる方が大事だ。真の太陽信仰はそれを教えてくれる。

それが、私たちの太陽信仰なのだ。

◎ だから、太陽信仰と言っても、唯一神教の神を矛盾するわけではない。私達は、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教徒同じように、超自然の論理を信じている。 ただ単に、その信じる根拠を啓示にもとめないだけだ。感性と愛の体験から存在それ自体を信じる時・・・

◎ ふつうに、家族を素朴に命がけで愛するとき、それだけでそれがほんとうなら私たちは人の命の尽きるときに 人間存在のすべてを愛している自分たちに気づくし、信じているその絶対性にも気が付く。 超自然はその時あたりまえのこととなる。

◎ 私達は、いつしか知らない間に この連綿とした生物の進化らしい流れの中に 意識して存在していた。 その存在自体の理由は、どんな頭のいいひと、どんな天才も解りえない。 その不思議はだれにとってもかわらない。 ならば、人はまた会えるかもしれないのだ。

◎ 人はまた、解りえない不思議で、存在した者どうしであるかぎり、科学を超えて生まれてきた不思議と同じように また「会える」存在かもしれない。でも、それって愛し合える時だけ、愛し合えた時だけ、信じられる世界なのだ。  だから静かに土にも帰れる。

◎ だから、単純に ただたんに どんな誰をもバカにしないだけで 人は死ぬ時のような人勢の走馬灯の奇跡がふと脳の記憶領域(海馬領域)に訪れる時、静かな幸せ、深い深い命の最大の宝に気が付き笑って死ねる。少なくとも心の奥ではです。・・・・。

◎ 死後の世界の霊とかの存在は、空想ではないのかもしれない。 が現実のこの太陽系の中の大地の上の命の可能性の世界は、それだけでにんげんそン材のすべてを信じる力となる。 だから、わかないことはわからないとする気持ちのままで、宗教がそこに生まれるべきだと思う。

◎ 死後の世界を、真実であるかの如く語るピエロもいても、いいではないか。同じ血の通った人間同士、もう誰とも争いなんてやめよう。 その和合を命の根源、感性の根源から追いかけてゆくのが 本当の意味での太陽信仰であることを知ってほしい。

◎ 天照大神 宇宙を照ら大御神というのは、私たちのこころにとっては奇跡の物質太陽系の恵みこそが宇宙のすべてなので、それを大御神として手を合わせて、感性をどこまでも新鮮な心に磨いてゆく象徴ということ、その意味では単なる名前にすぎない。 意味が大事。

◎ 妙なる美しさの世界、味も四季の美もいやされる音も、妙なる音楽もその妙を日本語では、そんなふうに、なんとその言葉であたりまえに無限に追いかけてゆく荘厳な心がある。 そこから人を愛するならそこに嘘は混じらない。 道徳は下からの真心となる。

◎ 当たり前の日本語で、日蓮の南無妙法蓮華経というたった7文字のシンプル・イズ・ベストの言葉を考えてみよう。 蓮華経とは 連綿とした生物の家族を作って生き延びてきたすべてをむしろ同じように妙法とことほぐ気の世界を意味する。 今、ここは詳しくは略すけど。

◎ だから、南無妙法蓮華経と唱えることは、気の世界のことであり、声の大小にはあまりかかわらない。詳しくはいつか書いてゆく。 その当たり前の日本語で理解できるところこそ大切なのだ。 一念三千とかの理論よりずっとずっと大切だ。

◎ だから、南無妙法蓮華経という他には 人生の根幹をこれほど見事に表せる言葉が見つからない たった7文字こそ、どんな祝詞よりも、真の太陽信仰の求める感性を深め高めてくれる。 心の財が伴うのであれば、それがその実証の世界。だから今芸能こそ宗教なのだ。

◎ つまり、論理的には この宗教は 一神教であり、真の意味の多神教でもあり、仏教が実践へと飛躍した最後の結論の世界であり、一万年以上平和が続いた日本の太古を学ばんとする真の新しい神道でもある、そういう人間を信じる、人間を信じたい人の宗教なのだ。

◎ つまり、論理的には この宗教は 一神教であり、真の意味の多神教でもあり、仏教が実践へと飛躍した最後の結論の世界であり、一万年以上平和が続いた日本の太古を学ばんとする真の新しい神道でもある、そういう人間を信じる、人間を信じたい人の宗教なのだ。

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新しい 神仏習合の意味合いともいえるかと思う。

今日は 以上です。

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