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2019年06月03日05:11

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「天真療法」案内101

前回は、横浜大病院長の父親が「天真療法」によって、脳溢血から完全に回復するまでを見てきました。
春充が、「天真療法」で病人を治した例は主に著書『天真療法』(昭和11年)、『国民医術天真法』(昭和12年)、『生は死より強し』(昭和15年)の三冊に出ています。これまでは、主に『天真療法』に載っていて治療例を見てきましたが、今回はこの著作に中で一番新しい『生は死より強し』の中に出ている2例を見て行きたいと思います。
1例目は、昭和14年3月のことです。この時日本は日中戦争(日華事変)の真っ只中で、中国との泥沼の戦いとなり解決が見いだせない状況となっていました。そしてこの年の9月にはドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発します。この時期、春充はこのまま戦争が長引くと日本とアメリカが必ず戦火を交えることを予測し、これを避けるためアメリカに対して秘密裡に大川周明(1886〜1957)らとともに工作を行っている最中でした。この、大川らとの対米工作については、刊行予定『聖中心伝―肥田春充の生涯と強健術』晩年編に詳しく解説してありますので是非ご覧ください。そのような状況でしたので、春充のまわりには常に特高警察が数人張り付いていて行動を監視されてました。このような関係から知り合ったと思われる静岡県伊東署勤務の松浦巡査部長の病気が今回の第1例目です。
この松浦巡査部長が昭和14年3月に、脳溢血で倒れ入院先の伊東第一の大病院長は、もう駄目だと宣告します。心配した伊東署所長大石謙太郎は、このことを部下の松本昌信に相談すると、松本は春充の著書の愛読者であったので、即座に春充に頼めば必ず治るといいます。そこで大石所長は、自動車で春充を迎えにいきます。春充は、多忙であったので断ろうと思いましたが、せっかく車まで出して頼みにきたのであるからと引き受けます。恐らく対米工作などで非常に忙しかったものと思われます。伊豆の伊東などにいて、交通インフラも通信インフラも現代ほど発達していない状況で、どのように対米工作を行うことが出来たのかと思われる方もいらっしゃるとは思いますが、その点も刊行予定『聖中心伝―肥田春充の生涯と強健術』晩年編にこれまでほとんど知られていなかった秘話として紹介していますので御覧下さい。さて、伊東に向かう車中で春充は署長に向かって次のように話します。
「まだ、心臓は止まってはいないだろうね。心臓さへ働いていれば、どんな病気だって治る。治るばかりじゃない。警察へ出て仕事をするようになるッ」(生は死より強し P.225)
患者をみることもなく、容体をきくこともなく、生きてさへいれば治ると警官に向かって断言するほど研究と実験を経た「天真療法」への深い自信がうかがえる言葉です。この時、どのような指示をしたのかは著作には書かれてはいませんが、これまでに見てきた脳溢血に対する方法とほぼ同様であったことは予測されます。そして、発病4ヶ月後の7月8日に、松浦巡査部長と大石所長は連れ立って春充の家へ挨拶に来ます。医者に再起不能とまで言われた松浦巡査部長は、「天真療法」によりその後も警察署で以前と変わりなく勤務できるほど身体機能も回復したとのことです。
(写真は、春充が所蔵していた大石警察所長と春充を紹介した松本警部補の名刺)
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