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2019年06月01日23:28

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インチキもここまでくると、藝術! 天羽。名前がテンパと読まれるところも、面白い!

ホッピーは、呑むこともありますが…
あまり評価しません。

インチキですが、インチキの手口が見え透いているようだからです。
見え透いていない不思議なものが粋です。

たとえば、前にもお話しした、肉屋さんのカニコロッケ。あれを発明した人は、偉いです。
カニコロッケはいろいろ食べましたが、普通の店のカニコロッケ、
サラダと盛り合せになっていて、ライス、スープ付きで1300円くらいのセットになるものと互角以上だからです。
明らかに勝てるものは、タラバガニをふんだんに使った名店のもの。4000円くらいしますが、絶品です。

インチキな飲み物で、ホンモノよりうまいと思えるのは、
下町ハイボールです。
うまいところで飲むと、ジョニ黒のハイボール以上です。
インチキもここまでくると、素直に脱帽です!

http://www.webdoku.jp/column/kudo/2010/04/01/224500.html
に細かく記されています。
せっかくですから、引用します。

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第4回 天羽飲料・堺社長、大いに語る!〈前編〉

東京の中小清涼飲料メーカーの、知られざるモノづくりの歴史を探訪するインタビュー・シリーズ。
第3回目は、元祖・焼酎ハイボール原液の製造元・天羽飲料の堺由夫社長。これまで明らかにされてこなかった、東京の酎ハイ(焼酎割り飲料)文化の核心に迫る重要な証言が飛び出しました。
1.序章
 「酎ハイ」の起源をたずねる本シリーズも、しだいに核心に近づいています。酎ハイには、もともと東京東部の沖積低地(東京低地)、足立・荒川・江戸川・葛飾・江東・墨田の江東6区にかつて広がっていた、工場地帯の地域文化という側面がありました。
 今回、取材したのは、酎ハイのそうした起源を考える上で、欠かせない会社。元祖・焼酎ハイボールの原液製造の大本命、天羽(てんば)飲料製造有限会社です。
 ここは、人気深夜番組『タモリ倶楽部』その他へのメディア露出で、一躍その名が知られるようになりました。マスコミ的には、天羽飲料が製造する「謎のエキス」の物珍しさから、興味本位でとりあげられるケースが多いのですが、じっさいはレトロな製造家ではなく、東京のものづくりの原点、家族経営のメーカーの、ひとつの理想形をあらわす、こだわりに満ちた会社です。
 堺由夫・代表取締役社長は1950年生まれの、天羽飲料3代目。インタビューに同席していただいた丸居政子さんは、堺社長の生年から天羽飲料で勤め上げている、超ベテランです。
 じつは、「天羽」は、「あもう」が徳島 ・鳴門での、本来の読み方だそうです。
 「うちの親父とうちのお袋は親戚同士、丸居さんも、みんな親戚。天羽も堺も、みんな鳴門出身です。でも関東の人は、「あもう」と読んでくれない。「てんば」が多いので、屋号の読み方もそう変わりました」
と、いきなり「知られざる事実」を明かしてくれました。たしかに謎の多い会社です。
 「いままでずっと秘密主義でやってきたから、これからも謎のエキスでやってくれとお得意さんには言われます。だけどこういう時代ですから、本当の話をしないとみんな曲げられちゃうので、(マスコミに)出たんです。でも依然として抵抗は強いですよ。大々的にやんないでという声が多い」
 表立って名前の出ない会社が、じつは歴史をつくってきたことに、興味をそそられます。
 酎ハイの歴史を語る上で、このお二方以上に適任な人材は、今の東京中を探しても、おそらくいないでしょう。正しい歴史を伝えようとするお二人の話は、取材前に期待していたよりもずっと真摯で、熱く、そして奥の深いものだったのです。私のような勉強不足の手合いは、自分の無知を思い知らされて、ひたすら恥じ入るしかありませんでした。
 天羽飲料が、東京の大衆酒の歴史に大きな役割を果たしてきたことが、今回の証言で明らかになるはずです。

2.ひとり勝ちの歴史は大正時代から
 天羽飲料は大正5(1916)年、洋酒問屋・天羽商店から出発しました。創業100周年も見えてきた、古い会社です。
 「天羽商店は祖父、天羽弥三兵衛(やさんびょうえ)が興し、いろいろな洋酒を扱いましたが、主な商品は樽買いのポートワインでした。大きな樽で買ったポートワインを一斗の甕(かめ)に詰め替えて、地方発送していた。当時ですから値段が高かったんですよ。それで、何とか焼酎でこういった味ができないかと工夫し、大正12−3年頃に、ブドウの液を開発したんです」
 この「ポートワイン」は、本家ポルトガルの「Port Wine」ではなく、神谷伝兵衛が考案した模造ブドウ酒か、その追随品のことだと思われます。彼は愛知県の農家出身で、横浜の洋酒輸入店・フレッレ商会に勤め、『神谷バー』を創業した人。輸入ワインに、生薬や甘味料を加えて増量し、渋味を抜いて日本人の嗜好にあわせた「香竄葡萄酒」を明治15(1883)年に発表しました。3年後には登録商標として「蜂印」を添え、一時は圧倒的シェアを誇ったものの、明治40(1907)年発売の壽屋(現・サントリー)「赤玉ポートワイン」が、広告宣伝で追撃をかけました。やがて赤玉の攻勢に押された蜂印は、昭和2(1927)年、「蜂ブドー酒」と名を改め、さらに赤玉も、1973年、本場のポルトガルからクレームがつき、現在の「赤玉スイートワイン」に改名することになります。

 堺社長の証言で、ブドウ液を焼酎の中にたらす、京成・立石の名店『宇ちだ』で有名なスタイルは、ポートワインからきているとわかりました。  ブドウ液で当てた天羽商店は、飲料水製造の道へと踏み出します。次に開発したのは、ウメ割り用の梅液。歴史上、ブドウ液が先で梅液があとだったというのもおもしろいことですが、ポートワインを範に取ったといわれれば、納得です。
 堺社長によると、
 「あの頃はまだまだ貧しかったから、強いアルコール度数の焼酎にちょこっとたらして、2〜3杯飲んだらいい気持ちになるという、そんな時代だったんだと思います」
 興味深いことに、梅液、ブドウ液という呼称自体にも、天羽飲料の独自性があらわれているとのこと。
 「よくみんな、焼酎に入れるシロップといいますよね。ホントは違うんです。甘くないから。本当の名前は「液」なんです。昔は、ブドウ液くれ、梅液くれとみんな言ってたんですよ」
 他の飲料水メーカーとは違うという天羽飲料のこだわりが、「液」という呼びかたにあらわれているのです。
 「なぜそうなるかというと、ふつう、飲料水メーカーの流れは、ラムネ屋さんやサイダー屋さん、あるいはイチゴとかメロンの氷用のシロップから来ているから。でもうちは、最初からそういうことは一切やらず、焼酎などのアルコールと割るために飲ませる液をつくってきました」
 天羽飲料は、大正末から今にいたるまで、首尾一貫して、得意分野に専門特化した製品づくりを続けてきました。

天羽のブドウ液・梅液は、1世紀近いロングセラーですが、焼酎割り飲料のパイオニア・天羽飲料のひとり舞台が、戦後も続いた理由は、なんといっても「謎のエキス」こと、赤ラベルの「ハイボールA」を昭和27(1952)年に開発したことにあります。  梅やブドウの割り材は、シロップを得意とする他の飲料水メーカーも追随できます。堺社長の証言によれば、昭和30年代には果実系の風味をつけた(無果汁の)割り材が、山谷や三ノ輪あたりで飲まれていたとのこと。
 「私の学生の頃、20歳くらいからすでに、三ノ輪あたりで、レモンとか、リンゴ割りの酎ハイを飲んでいました。甘みをおさえた、要するにウメ割り、ブドウ割りの延長ですよ。そういうのは、(下町なら)どこでもやっていたんじゃないですか」
 その後、1980年代の「チューハイブーム」は、労働者文化の起源を黙殺することで、山の手の、そして全国の若者層をとらえる流行となりました。しかし、東京低地の新下町で圧倒的なシェアをもつ天羽飲料をしのぐ味の製品を、大手メーカーを含む他社は、ついに今まで、作りだすことができなかったのです。そのハイボール原液は、どのようにして開発されたのでしょうか。

3.天羽飲料ハイボール原液・開発秘話
 「大正時代に鳴門から東京へ来て、祖父と店を支え、戦争を生き延びて帰ってきたうちの親父(2代目・堺慶次郎氏)は、ものすごく先見の明があった人でした。世の中を観察して、どうもこのままだと、みんな豊かになって贅沢になっていくだろう。そうなると、梅割り・ブドウ割りみたいに、2〜3杯飲んで酔っぱらって、それで終わりの酒じゃなくて、何杯も飲んで楽しめるお酒、つまりカクテルにあるロングドリンクスですよね。比較的アルコール度数が低くて、軽い、口を洗うような感じの品物を作ったほうがいいと考えた。親父は、天羽商店で丁稚から働いたから、洋酒の知識もあったんです」
 そこで開発されたのが、焼酎ハイボールの原液だというのです。堺社長は証拠として「向島料理飲食業組合」の組合員名簿(1997年)に記載されていた「焼酎ハイボールの話」を見せてくれましたので、引用します。

 「戦後きびしい時代に、ビールは値が高く贅沢な物で一般大衆にはあまり呑まれていませんでした。そこで安い焼酎を使ってビールに近い飲み物として炭酸で割りハイボールの素を入れて酎ハイとして浅草龍泉寺の天羽商店が最初に開発し、それを隅田町、寺島町(東向島)、吾嬬町(八広、京島)、浅草、町屋、千住等の下町の大衆酒場で人気の飲み物になりました。(原文改行)当時の焼酎は臭いがきつい為、各店舗によって色々開発され、梅割りとかブドー割り、ホッピー等といわれた物がありまして、酎ハイ1杯30円から50円で売っていました」
 ここでは「ビールに近い飲み物」とありますが、堺社長によると「ビールをつくろうと思ったことは一回もない。あくまでもカクテルのロングドリンクス」だそうです。
 「当時の甲類焼酎の臭い消しもかねて、何杯も飲めるようなものを研究し、ある程度製品も出来上がっていた。ビールだとアルコール度数は4〜5度でしょう。あの頃はそれじゃあちょっと物足りないと。原液1、焼酎2、炭酸3で割ると、アルコール度数が7〜8度になるように計算した。ビールとはちがった味で、ビールよりも酔いが早い。そういう発想で作ったと思います」
 ビールを目指したのではなく、あくまで焼酎の割り材としての着想が先にあったということでしょう。もっとも、「焼酎ハイボール」の名は、前回の連載で言及した『三祐酒場』が先行していたとのこと。
 「中島さん(中島茂氏、前回言及)という、戦前に三祐で働いていたかたが、戦後帰ってきて、仕事がなく、うちに来て、梅割り・ブドウ割りはすでにあるから、新しいお得意が欲しいわけですよ。自分が売る新しいものを、なんとか作ってよと。じゃあ、ちょうどこれ完成したところだから、売ってみないかということになりました」
 「そこで中島さんが、三祐さんで、ハイボールみたいなのをやっているみたいですって言って、ならこれを"ハイボールの液"として売ろう。同じようにロングドリンクスだから、焼酎ハイボール用のエキスということで売れと、渡りに船で持っていったのが、マルAの赤ラベルの焼酎ハイボールなんですよ」
 したがって、前回書いた焼酎ハイボールのウイスキーハイボール起源説は、三祐酒場については当てはまるのですが、天羽飲料の原液に関しては、妥当しないことが判明しました。
 「最初、売り込みに行くと、どんな味なのかとみんなに聞かれますよね。うちの親父が洋酒の知恵をしぼって、一番飲みやすい状態に作った品物なんですけど、味を説明するのに、比べるものがないわけです。結局、中島さんが、ビールに近い飲み物だと説明しました。でも、ビールよりも軽くて、すっきりと飲める、薄口の味だと。濃いものは2〜3杯で飽きますが、関西料理のように、薄口のほうがぜいたくに、たくさん食べて飲めるんです。それもうちの親父がよく私に言ってました。レモンのスライスを最初に入れさせたのも、うちの親父の考案です。カクテルに浮かせるレモンピールから、レモンをアクセントにすることを考えた。さらに、どういうグラスで出すか、2合コップを使わせようと決めたのもうちの親父です。なぜかというと、調合が1:2:3でしょう。2合だと、3の炭酸がぴったり1合入るんです。今の炭酸のビンは200mlが主流ですけど、昔は180mlの1合ビンだったんですよ。それでなみなみと注ぐと、お客さんが喜びますから。氷を入れずに薄まらないようにしてね。水を張っている冷蔵庫、水冷式が一番冷えるので、あれに焼酎と原液を混合したボトルを入れて、炭酸も冷やして提供しなさいと指導した。だから堀切の小島屋さん(後出)なんか、いまでもそれを守ってますよね。量も多いし、よく酔うし、安いということで、当たったんです。
 ビールでもなく、ウイスキーでもない。偶然が重なって「焼酎ハイボール」と名づけられた下町カクテルの真の秘密は、「謎のエキス」の味にあるようです。

4.ハイボール原液 ・味の秘密
 堺社長は、次のように明かしてくれました。
 「まあ、うちの品物に関して、ウメ・ブドウは、多少はまねできるでしょうけど、マルAのハイボールの液は極秘というか、まねできないんですよ。要するに、コカ・コーラと同じなんです。あれもいまだに特許とっていないでしょう。原料がわからない。それと同じように、うちのハイボールもちょっとわからないのが入ってましてね、それはもちろん言えませんけど、それがネックなんです」
 私の想像ですが、謎のエキスの味は、おそらくガラナに、さまざまな工夫がつけ加えられているのではないでしょうか。とすれば、ガラナを使った割り材が先に考えられていたことが、色つきになった理由なのでしょう。
 「宝酒造さんが、うちのハイボールを研究して『クラシック』(2005年9月発売「昭和20年代後半に東京・下町の大衆酒場で、「焼酎+炭酸+店独自のエキス」で作られた「焼酎ハイボール」が誕生し、50年経った今でも同地域を中心に飲みつがれています」という説明がついている)を出したとき、おたくのことを裏ラベルに書きましたって、持ってきたから飲んだんですけど、まあ、よくがんばったけどちょっと違うねって言いました。やっぱり長続きしなかったですね。このハイボールの味はすごいデリケートだから、ちょっとでも味が違うとみんないやがるんです。もう50年以上飲ましこんじゃってるから、なかなかまねできないかと思います」

天羽の梅のラベル
 もうひとつ、味を考える上で大きな問題は、一升瓶の腹貼りのラベルに、梅の絵と「天羽の梅」の文字が使われていることです。

 「なんで梅のラベルになったかというと、もともと梅割り用の液のペーパーが大量にあったから、もったいないので貼った。そのままだと梅液と間違えるから、丸にAという赤いラベルをポンと貼り、A印のエキスとして売ったんです」
 堺社長は、「ぜんぜん梅とは品物がちがうんですけどね」と笑います。
 「なぜかというと、その当時お金がなくて、売れないかもしれないのに、新しくペーパー作るのはもったいないと。ところが、うまく当たっちゃった。だから、ハイボールのエキスは、梅じゃないんです。味がちがうでしょう。でも梅の腹貼りはややこしいから、途中でハイボール用の腹貼りに変えたいと提案したんです。でも(顧客から)、これがおたくのトレードマークで、みんな慣れ親しんでいるし、変えないでくれと反対されました」
 というのも、「知らない人が見たら、これは梅(でつくった味)だと思う。本当は梅じゃないから、店で出しているほうは、"ざまあ見ろ"と思う。これがカモフラージュになっていいと言うんですね」
 私たちのような部外者にたいして、味の秘密を守ることが優先されたとは、じつに痛快な話ではないでしょうか。
 さらに、堺社長は
 「うちの原液を使っている店に、行列ができるようになったのは、ハイボールの味が、モツによく合うからなんです」
と、「謎のエキス」の味は、最初から内臓肉に合うように設計されたと証言しました。

 「うちの親父は、これからは贅沢な時代になって、肉もいっぱい喰うようになる。天羽商店は、もともと、洋酒問屋の頃に、店にカウンターを設けて、立ち飲みもやっていたそうです。そのときに、小僧だったうちの親父が煮込みを作らされていた。煮込みやもつ焼きに合う飲料はこれからますます出るんじゃないか、そう考えてました。だから、とくにモツに合うように作ったんだと思います」



■ホッピー、「古くて新しい飲み物」で再注目 実は東京のご当地飲料、チューハイ・発泡酒の攻勢から復活
(ウィズニュース - 06月01日 07:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=5644274
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